4.デレ対応
日曜日。
千くんもわたしも大学がお休みなので、のんびりする日である。
「亜子。クッキー焼けたよ」
お呼びがかかったので飛んで行った。
クッキーが積まれたお皿がテーブルにあり、胸の高鳴りが止まらない。
千くんは料理上手だが、お菓子作りの腕も素晴らしく、その製菓は至高に美味しい。
デパ地下で売っていても通用する味だと言ったら千くんは慎ましく否定していたけれど、彼さえその気なら事業展開への尽力も辞さない。
なお、クッキーがオーブンから出した直後の熱々だったとしても、わたしが火傷を覚悟でがっつくことを心得ている千くんは、ほどよく冷めた頃合いに呼んでくれるという気の配りようである。
「いただきま……」
食べる前からすでに幸せな気持ちでクッキーに手を伸ばしかけ、千くんが神妙な面持ちだったので、手を止めた。
「千くん? どうしたの?」
「……あの台詞、言った方がいい?」
「? あの台詞?」
「別にわざわざ焼いたわけじゃなくて調理実習で作り過ぎただけなんだから勘違いしないでよね?」
「ああ!」
それは数か月前、わたしが初めて京都を訪れた時のこと。
ちょっと休憩するつもりでお邪魔した千くんの部屋に永住することになるという、いま冷静に振り返っても流れがよく分からない「京都旅行プロポーズ事件」でのこと。
京都旅行2日目、恋人同士の実績を作ることを目標に掲げた千くんは、わたしの列挙した「恋人同士っぽいこと」から、5泊6日の僅かな期間で実現可能と判断した項目について「亜子が一旦帰るまでに全部しよう」と宣言した。
そして言葉に違わず、わたしが挙げた項目をそのまま順番に実行に移していき、旅行の最終日に実行されたのが、クッキーのプレゼントだった。
北海道行きの飛行機を待つ空港で、「別にわざわざ焼いたわけじゃなくて調理実習で作り過ぎただけなんだから勘違いしないでよね」という、わたしが口走ったツンデレ台詞を忠実に再現して、無類に美味しい手作りクッキーをプレゼントしてくれるところまで、見事に遂行してみせたのである。有言実行の人である。
「ツンデレ台詞のことね!」
「つんでれ……」
ツンデレなる単語に、千くんはあまりピンと来ていない風だった。
あんまり分かってないのに、あの時はツンデレ台詞を忠実に再現してくれたのだと思うと、千くんの素直さに心がほっこりする。
「えー、ツンデレとは」
わたしも実はたいして詳しい訳ではなく雑誌の受け売りであり、ツンデレの人に実際に出くわしたことはない。けれど雑誌の知識の分、千くんよりはツンデレ上級者のはずなので、張り切って解説する。
「こう、ツンツンした態度で、デレデレした本音を包む感じです。好きな人のために焼いたクッキーなのに、その事実を否定しつつツンツンした態度で渡してしまう、そんな照れ隠し感に人々はきゅんするのです」
「きゅん……」
千くんは「きゅん」もあまりピンと来ていない風だったけれど、わたしのよどみない解説に感心したようで、深く頷いていた。わたしが彼よりも知識が深い案件はそうそうないので、鼻が高い。
千くんとお付き合いするにあたって恋愛のことを勉強しようと思って大型書店に走り、「胸きゅん大特集」と書かれた雑誌を買って様々なきゅんについて予習しておいた甲斐があったというものである。
「それが調理実習での焼成過多とどう繋がるの?」
「えっと、あの時に口走った調理実習どうこうは、うん、映画に出てきたヒロインの台詞をそのまま再現しただけだから、うん、他意はないよ」
早くも知識の浅さが露呈してしまった。
「とにかく! 重要なのはツンツンした態度だよ。この場合だったら、えーっと、『別に亜子のためにクッキーを焼いたわけじゃないんだからねっ!』とか、『別に亜子のことなんか好きじゃないんだからねっ!』かな」
「なるほど……。亜子は俺がつんでれすると嬉しい?」
ツンデレ千くん。ちょっと見て見たいので力強く頷いたら、千くんも頷いた。してくれるらしい。
「別に亜子のためにクッキーを焼いたわけじゃないんだからね」
「それだよ! いいよ!」
「別に亜子のことなんか好きじゃないんだからね」
「うん! ツンツン感出てるよ!」
「……ほんとは……っ、亜子のために、焼きました……。亜子のこと、好きじゃないとか、完全なる嘘です……」
「ご、ごめんね千くん、知ってるよ、知ってるから、泣かないで、ありがとう!」
千くんが顔を覆って震えているので慌てて慰めた。
「はぁ……。つんでれって難しいね。俺には向いてないかな……。事実を歪曲して伝える意図が分からない……」
悩まし気に溜め息を吐く千くん。
心根の真っ直ぐな素直人間である彼なので、本心を偽るのが辛いらしい。
でもツンデレ台詞を聞く側としてはけっこう楽しかった。
「じゃあね、次はヤンデレ? にチャレンジしてみよう」
「やんでれ」
やはり千くんはピンと来ていない風で、やはりこれも胸キュン特集の受け売りで、やはり実際にヤンデレの人と遭遇したことは一度もない。
しかも、照れ隠しが可愛いツンデレと違って、なんだかサスペンス要素満載のヤンデレは、何がどうなってきゅんするのか、雑誌を最後まで読んでもよく分からなかった。
「えーと、説明が難しいんだけど……。大好き! 監禁! みたいな感じ」
リクエストしておきながらよく分からないので曖昧な指示になったけれど、千くんは頷いてくれた。してくれるらしい。
「焼く前に冷蔵庫で3時間監禁したクッキーなんだからね」
「それは単にクッキー生地を冷蔵庫で寝かせただけだね……!」
そして拭い去れていないツンデレ台詞の余韻。
「クッキーのことはいったん忘れてみるのはどうかな……?」
「じゃあ何を監禁するの?」
「うーん。わたし?」
「亜子を。……。三食昼寝付きおやつあり空調完備ベッドふかふかの環境で監禁してやるんだからね。あと週末はデートしてください」
「それは快適な生活の予感しかしないよね……!」
しかも週末におでかけ予定が組み込まれているのでもはや監禁ですらない。
「これも違うのか。やんでれも俺には難しいかな……。自らの意思で一緒にいてくれる亜子を監禁する必要性を感じないし、するとしても冷蔵庫は有り得ないし……」
平和と温もりに満ちた千くんはサスペンス要素と無縁なので、ヤンデレが難しいのも無理はない。
「亜子に喜んでほしいのに、どっちもできないなんて……」
千くんはツンツンもヤンヤンもしてないので、どちらも向いていないことが分かったけれど、彼はうまく再現できなかったことを気に病んだらしく、ほんのり落ち込んでいた。
こちらの適当な発言のせいで落ち込ませてしまったので慌てた。
「千くんごめんね、無茶な要求しちゃって。気にしないで!」
「ううん。亜子がそういうのが好きなら、喜んで亜子のためにクッキーを焼かないようにするし、喜んで亜子を冷蔵庫に監禁するよ」
「うん、クッキーは焼いて欲しいし冷蔵庫に入れられたら凍死しちゃうから、やめよう」
ツンデレとヤンデレに関する若干間違った認識を植え付けてしまったような気がするけれど、わたしもそこまで造詣が深い訳ではないので正し方が分からない。
それに、美味しいクッキーを焼いてくれたり、わたしの変な要求に応えようと頑張ってくれたりする、いつもの優しい千くんが、やっぱり一番いい。毎日がきゅんである。
「千くんは今のままが一番だよ」
「本当?」
頷きを返したら、千くんは微笑んで、「亜子のために焼いたクッキーです」と言った。
番外編「ツン対応」に続く。