3.隠蔽工作
亜子が京都に来て2日目の夜のお話です。
お風呂あがり、居間で柔軟体操をしながら、本日の出来事を反芻する。
湯豆腐を食べてお買い物をして甘いものを食べて帰ろう、と千くんが言った夢のような言葉がその通りに実行された、夢のような一日だった。
いざ目の当たりにした湯豆腐のお値段に震えているわたしの手を引いて、千くんが臆することなくお店の暖簾をくぐった時には驚いたものである。
「ああ、大丈夫だよ。こっちに来てからいろいろバイトしてたから」
「いろいろ……!」
「うん。だからお金のことは気にしないで。このあいだも臨時収入があったしね」
「このあいだは何したの?」
「流鏑馬に参加した」
「やぶさめ……?」
あまりに気になる千くんのバイト遍歴の片鱗に、もっと突っ込んで話を聞こうと思ったけれど、お料理が運ばれてきてめくるめく湯豆腐タイムが始まってしまったのでそれどころではなくなって聞けず仕舞いだった。
そのあとはぶらぶらとお買い物をした。千くんとこんな風にふたりでお買い物をするなんて、中学生の時に頑張って背伸びしてショッピングモールに行った時以来である。
一緒に住むのだからということで、お揃いのお茶椀まで買ってしまった。
なんだか恋人同士みたいで照れてしまう。いや、みたいではなく昨日から恋人同士である。
いまだに、千くんとお付き合いが始まった実感が湧かない。
今朝だって、千くんに優しく起こされて、なんで目覚めたらエプロン姿の千くんがいるんだろう夢かなこれと不思議に思いつつもとりあえずフレンチトーストの匂いに誘われるままに一緒に朝食を囲んで、食後の紅茶をいただいてからようやく、そういえば昨日から一緒に住むことになったんだと思い出したくらいだ。
実感は無いけれど、千くんとお付き合いが始まったのは現実である。
では今日のおでかけはデートになるのだろうか。
手を繋いで歩いたし。手を繋いで歩くのは昔からの習慣だけれど。でも恋人としては初である。だからデートに違いない。うわあ。千くんとデートをしてしまった。
言いようのない照れが募って、頭を抱えて床に突っ伏した。
じっとしていると落ち着かないので、ひとまず転がってみる。
幸い千くんは今お風呂に入っているので、この奇行を見られずに済む。思う存分転げまわったら気が静まった。
落ち着いたので柔軟体操を再開しようと思ったら、携帯電話が鳴った。
父からの安否確認電話である。
のびのび放任が基本の我が家ではあるが、さすがに5泊6日の一人旅(ほぼ24時間体制で千くんがつくことになったけれど)なので生存を心配されているらしい。
「亜子です。生きてます。オーバー」
まず無事であることを伝えて、それから、湯豆腐が美味しかったこと、抹茶パフェが美味しかったことなど、本日のハイライトを話す。
そこまでは問題なかったのだけれど、初めてのビジネスホテルの泊まり心地を訊かれた瞬間、冷や汗が出た。
ホテルじゃないです、千くんの家に泊まっています、むしろ住むところです、と正直に話していいものか。
いや、なぜそうなったと訊かれても「数年間疎遠だった千くんに再会した当日に結婚を申し込まれて同棲が始まったから」としか答えられない。
何があってそうなったと訊かれても、わたしにもよく分からない。
とりあえず事実を隠蔽して、「すごくビジネスって感じがする」的な返答したら納得してくれたので、引き続き下宿探しと観光を頑張る旨を手短に伝えて、電話を切った。
どうしよう。これでよかったのだろうか。
婚姻届けを書いたはいいけれど、冷静になると、なんだか不安になってきた。
千くんのことだから、明日にでも役所に提出しかねない。
うん絶対そうに違いない。彼は謎のタイムアタックに挑む人である。
まだわたしの家族にも千くんの家族にも結婚の旨を告げていないのに、光の速さで結婚を済ませてしまうのは大事件な気がする。
かと言って、婚姻届けにサインをしたことをあれほど喜んでくれた千くんに、「でも提出は待ってください」なんて発言、とてもできない。きっと彼は悲しみで死んでしまう。
よし。
婚姻届け、隠そう!
家族に報告前に出すのが問題なのだから、旅行が終わるまでの間だけ、隠してしまえばいいのだ。
婚姻届けが行方知れずとなれば、「見つからないものは仕方ないね京都旅行が終わって一旦北海道に帰った後でのんびり探そうそして探す前についでにお互いの家族に挨拶に行こうかその前にバターコーンホタテ醤油ラーメン食べに行く?」という、ごく自然な流れに持ち込めるはずだ。
提出したくないから提出しないのではなく、あくまで物理的に提出できないから不可抗力、ということであれば、千くんもそこまで悲しむまい。
「確かこの棚に……あった」
北海道お土産の木彫りのクマ(千くんが家宝に認定してくれた)が安置された棚の引き出しをいくつか開けて、婚姻届けの入ったクリアファイルを無事に発見した。
千くんがお風呂に入っている間に、ベッドの下とかに隠しておこう。
「何してるの……?」
「わひぃ」
すぐ背後に千くんが立っていた。
気配が無かった。
怖い。
声のトーンがすでに怖い。
振り向くのが怖いので、棚を向いたまま尋ねる。
「あのー……千くん? お風呂あがったんだ……ひんっ」
首筋に冷たいものが落ちてきたので変な声が出た。
「ああ、ごめん。まだ髪乾かしてなくて」
髪から滴った水滴らしい。距離の近さに慄く。完全に手元を覗かれてしまっている。
突然・背後・水滴、三拍子揃ったホラー演出に心臓が鳴りやまない。
本日のバスソルトは心安らぐ森林の素敵な香りとかなんとかを選んだので、お風呂上がりの千くんからも心安らぐ森林の素敵な香りが漂って来るのだけれど、全く心安らげない。
「え、わ、ふ、服、着てる……?」
「上はまだ……髪乾かしてから着るつもりだったから。……お風呂出て、なんか急に亜子の様子が気になって。それで居間を覗いたら、棚漁ってるから、慌てて」
「そ、そっか」
野生の勘が鋭すぎて怖い。
「それで、何してるの?」
すっ、と背後から腕が伸びてきて、クリアファイルを奪われた。
「これ、どうする気?」
「あ、や、その」
「……もしかして、捨てようとしてた?」
「してないしてないです未遂です。 まだ捨ててないから!」
「未遂? まだ?」
千くんは一段と声のトーンを落とすと、片手で器用に婚姻届けを引き出しに仕舞った。
たす、と引き出しが閉まる音が響く。
背後から感じる圧が怖くて振り向けない。棚と千くんに挟まれて逃げ場がない。
昨日と言い、なぜ彼はこうも人の退路を断つのがうまいのだろうか。
「まだってことは、これから捨てるんだ? へえ……。亜子、そういうことするんだ」
見えないけれど、声のトーン的に死刑宣告をする人の表情をしていると思う。
「こっ、言葉の綾です。捨てるつもりは無いです」
隠すつもりでした。
「本当に? 嘘を吐くつもりなら尋問するけど」
「ひぃ」
尋問て。
日常で使う言葉じゃない。
絶対に質問するだけじゃない。絶対に拷問の方である。
きっとトゲトゲした板に正座させられて膝の上に漬物石を載せられてしまう。
命懸けでこの場をごまかすしかない。
「ちゃんとここにあるのか、確かめてただけ!」
この棚にあることを確かめていたのは本当だし、まだ隠す行為には至ってないので、これなら嘘じゃない。
都合の良い事実のみを切り取って伝える高等戦法である。
「……確かめてただけ?」
いつまでも背を向け続けているのも不審に思われるので、恐る恐る体ごと振り向く。
でも表情を確認するのが怖いので顔は見ないようにしつつ、ぶんぶんと首肯する。
「うん。ほら、大事なものですからな。紛失しては一大事ですぞ。任せきりは良くないと思いましてな」
緊張しすぎて口調も定まらないままの答えだったが、千くんの胸に響いたらしい。
「……うん。そうだね。ちゃんと大事だって思ってくれてるんだ。よかった。混乱に乗じて口車に乗せて書かせたから、我に返って後悔して捨てようとしてたんじゃないかなって……。疑ってごめんね」
「混乱に乗じて口車に乗せて書かせた自覚があるんだね千くん……」
声のトーンが普段のものに戻ったので安心したけれど、まだ顔は上げられない。
パジャマの下は履いてくれているけれど、上は何も着ていないとのことなので目のやり場に困る。じろじろ見たら変態だと思われる。
「千くん、あの、きちんと髪を乾かして、早く上も着ないと、湯冷めしますよ」
「うん」
同居人が同居二日目から棚を漁っていた案件による懸念の消えた千くんは、素直に洗面所に戻ってくれた。
千くんが身支度を中断してまで現場に駆けつけなければ、この隠蔽工作は成功していただろう。野生の勘がファインプレー過ぎて怖い。
もう一度トライしてみようかと考える。ドライヤーの音が聞こえる今なら、多少の物音を立てても気づかれない。
けど、もしまた犯行現場を目撃された場合、二度目はそれこそ言い訳ができない。
きっと尋問が待っている。きっと琴を弾かされながらの質疑応答が始まってしまう。
千くんから琴責めなんて受けたら秒で弾き間違う。
ソファで体育座りをして煩悶しているうちに、身繕いを済ませた千くんが居間に戻ってきて、隣に腰を降ろした。
「婚姻届けのことなんだけど」
と、まさにクリティカルな切り出しをされた。
思わず「まだ隠してないから!」と自白しそうになって、危うく飲み込む。
もし千くんから絶対零度の眼差しで淡々と取り調べをされたら、5分も経たずに自白する自信がある。怖い。どうせなら、優しく諭してカツ丼を出す等の手法で落としていただきたい。
カツ丼。千くんの料理スキルならば至高のカツ丼が出てくるに違いない。カツ丼。
「カツ丼……」
「カツ丼……?」
「な、なんでもないよ。えっと、婚姻届けがどうしたの?」
「亜子はこの旅行が終わったら実家に帰るよね? その時に俺も一緒に亜子の家に行って、ご挨拶して、それから婚姻届けを提出しようと思うんだけど、どうかな」
「え、あ、そうなの?」
「すぐに提出したいのが本音だけど、亜子のご両親に何も言わずに結婚するのはさすがに非常識だしね。内容が内容だから、メールや電話で伝えるのもよくないし。やっぱり亜子のご両親にはちゃんと対面でご挨拶したい」
なんだかとても常識的な発言をされて、びっくりした。
いやでも、驚くことはない。
一連の愛の告白事件の勢いがすごかったので、きっと明日にでも婚姻届けの提出をするに違いないなんて勝手に思い込んでいたけれど、そう、千くんはもとから良識ある人間である。
「そっか。よかった。うん、そうしよ!」
全身全霊で賛同すると、千くんは嬉しそうに「うん」と頷いた。
「……ん、あれ、えっと、千くんのご両親には?」
「うちは事後報告でも問題ないから」
「そ、そうなんだ……」
いまだ謎に包まれた水崎家だけれど、千くんが問題ないと言うのなら問題ないのだろう。
千くんはちゃんと両家円満の婚姻を考えてくれていたのに、先走って隠蔽工作なんかに走って、申し訳ない気持ちになった。
「ごめんね、さっきは婚姻届けを隠そうとして……」
「……へえ」
「あっ」
誘導尋問に引っ掛かってしまった!
なんて巧みな話術を駆使してくるんだ千くん。
「隠そうとしてたんだ?」
千くんの放つ雰囲気が一気に氷点下に達した。
表情は優しく微笑んだままなのが却って怖い。いつのまにか手首を掴まれていて怖い。尋問の予感しかしない。血の気が引いた。
「あ、や、ちがくて! 捨てようとはしてないから! 一次的に隠そうとしただけだから! 結婚が嫌な訳じゃないから! むしろ千くんのお味噌汁を毎日飲みたいと思ってるから! ほんと!」
「……え、昨日の味噌汁そんなに美味しかった……?」
必死に言い募ると、厳冬の空気が若干緩んで千くんの意識がお味噌汁に逸れた。
大根とお揚げのお味噌汁の深い味わいに感動した昨夜を思い出しつつ、「ミシュラン!」と力強く頷くと、千くんは「それは褒め過ぎだから……」と、照れたように目を逸らした。恥じらう千くん。可愛い。
「過ぎてない過ぎてない、お味噌汁もお浸しも唐揚げも全部美味しかったよ!」
「……。本当に俺が作ったご飯、毎日食べたいと思ってる?」
「うん! 千くんの手料理は世界で一番だよ! 毎日が大安吉日だよ!」
「……。……。俺と結婚したくないわけじゃない……?」
「うん! 絶対に千くんと結婚するから! ほんと!」
「……。……。……。じゃあ、どうして婚姻届けを隠そうとしたの……?」
「えーと、その、千くんはすぐに提出するつもりなんだと思ってたから、その、早すぎないかなあとか、両親に言ってないなあとか、色々不安になって、隠そうと思って、うん、その……そう、マリッジブルーで」
思い付きでマリッジブルーと口走ってみたけれど、結婚を目前に不安になったのだから、まさに、隠蔽工作に走ろうとした心境にぴったりの言葉であるような気がしてきた。
「マリッジブルー……」
千くんもマリッジブルーなる単語に説得力を感じたらしく、目を瞠った。
「そうか……結婚前に不安になる……現状維持バイアスが……これは一般的な症状……亜子に限った話じゃない……よかった俺のこと嫌いなわけじゃなかった……不安か……行動に移すのは……まだ逃げられると思ってるから……」
完全に冷気は去って、けれど真剣な表情で顎に手を当てて、何か思案しているようだった。
「……実績」
やがて答えに辿り着いたらしい千くんが口を開いた。
「亜子、実績にこだわってたよね。恋人同士の実績」
「え、う、うん……」
「キスの他に、亜子の思う恋人同士みたいなことってある? あったら全部言って」
話の雲行きが怪しくなってきた。
「な、なにゆえ……?」
「全部挙げてもらえばこの旅行期間中に実行していけるものもあるだろうと思って。キスは亜子の心の準備があるから待つけどそれ以外の実績を作ろうよ。亜子が帰るまでに出来る限りの実績を作りたいからなるべくたくさん案を出して」
「たくさん……?」
「不安があろうが結婚しない選択肢はないと思わせるくらいの既成事実を積み上げておき……じゃなかった、そう、これは亜子のマリッジブルーを解消するために必要なことなんだよ。ごく一般的な対処療法だよ。亜子のためなんだよ。だから全部言って」
そうなんだ……。
マリッジブルーってそうやって解決するんだ……。
「なん、なんか恥ずかしいんだけど、言わないと駄目……?」
「駄目」
なんの公開処刑だろう……。
しかも、たくさんって。
お付き合い経験のない身に、なんてハードルの高い。
けど、千くんは真剣そのものの眼差しを向けており、「思いつかないです」という回答が許される雰囲気ではない。
頭を振り絞って、映画や小説で得た恋愛知識を総動員して、「恋人同士っぽいこと」を答えてみる。
「その、キスしたり……」
「うん。数日待つね。数日」
「だっ、抱き締めて、愛の言葉を囁かれたり……」
「うん。昨日のことだね」
「手を繋いでお買い物に行ってみたり……」
「うん。今日のことだね」
「喫茶店で種類の違うサンドイッチを注文して半分こしたり……」
「うん。明日にでもしようか」
「お揃いのパーカーを色違いで着ちゃったりなんかして……」
「うん。買いに行こう」
「上映中にそっと手を握られて、ストーリーが頭に入らなくなったり……」
「うん。映画館にも行こうね」
「今夜は寝かさないって押し倒されて、好きなようにされちゃったり……」
「うん。好きなようにさせてもらうね」
「別にわざわざ焼いたわけじゃなくて調理実習で作り過ぎただけなんだから勘違いしないでよねって、手作りクッキーを渡されて……」
「うん。たくさん焼くね」
「夏祭りで打ち上げ花火が鳴り渡る中、花火よりも浴衣姿の君の方が綺麗だよって言われて……」
「うん。夏が楽しみだね」
「バーのカウンターでひとり飲んでいたらあちらのお客さまからですってカクテルが流れて来て、君との出会いに乾杯されて……」
「うん。亜子がお酒を飲めるようになったらね」
「信州蕎麦の老舗で蕎麦打ち体験もやってみたいし……」
「うん。本格的だね」
「滋賀で信楽焼きの狸の置物作りも素敵だし……」
「うん。縁起が良いね」
「あと人生で一度は黒部峡谷トロッコ列車に乗ってみたい……。ええと、今思いつくのは以上かな」
全力を出し切った。息が上がった。
言うのに必死だったから何を口走ったのか記憶がちょっと曖昧だけれど、けっこうたくさん恋人同士っぽいこと案を出せた気がするので、自分の恋愛知識もなかなか侮れないなと自賛する。
最後あたりは恋人要素がすっぽ抜けて単なる個人的欲望だった気がしないでもないけれど、まあ、これだけ案があれば千くんも満足だろう。ミッション達成である。
「全部で13か。うち実行済みが2つ。時期や距離等で数日内に実行するのは現実的じゃないものも除くと……残り6つか。うん。じゃあ、それらを亜子が一旦帰るまでに全部しようね」
発言者自身が曖昧だと言うのに、千くんはちゃんと全て把握しているらしい。
すでに近日中に実行可と不可で仕分けまで済ませてしまっている有能ぶりである。
「うん。えっ、全部? 帰るまでに……?」
「まずは明日、喫茶店で炭火焼きチキンチーズサンドイッチとパストラミビーフサンドイッチを半分こするところから始めようか」
「お願いします!」
一体どれが実行可能項目にカウントされたのか考えようとしたけれど、そんな意思は千くんの非常に誘惑的な発言に吹き飛んでしまった。
大変だ。今夜もわくわくして眠れそうにない。
今日も京都の気圧のせいにして、ハーブティーを淹れてもらおう。
千くんのバイト遍歴については、12/26の活動報告の小ネタにもちょっとだけ載っています。
いつかバイト先でのお話も番外編で書くと思います。
追伸:
「日下部(部活名)」という連載を始めました。
愛がちょっと暴走しているだけの平和な明るいお話です。
よろしければどうぞ!