1.就寝準備
ここから番外編です。番外編は基本的に1話完結、各話の時系列はバラバラです。
「1.就寝準備」は、亜子が京都に来て1日目(9話と同日)の夜のお話です。
今までは千くんと一緒に遊んでも、夕方になったらお別れをしていた。
だから、こうして夜になっても一緒にいることが不思議な気分である。
晩御飯を食べている間は、千くんの手料理のあまりの素晴らしさに夢中だった。
だって、お弁当の冷めた状態でさえあんなに美味しかった水崎家の唐揚げが、ほかほかの揚げたてなのである。
食後に観光雑誌を一緒に眺めている間は、明日のおでかけ計画を考えるのに夢中だった。
だって、「明日はお昼に湯豆腐を食べて、お買い物たくさんして、甘いものを食べて帰ろう」と、千くんが夢のようなことを言ったからである。
以上、何かしらに夢中な時間も一段落し、こうして何もせずにソファに座っていると、なんだかしみじみと、夜になっても千くんと一緒だなあという感慨が湧いてくる。
千くんはというと、隣に座って、軽く抱き締めるような体勢で、わたしの頭を撫でている。なお、特に褒められるようなことはしていない。
あまりに熱心に撫でられ続けるから、まるで撫でると御利益のあるお地蔵さんにでもなった気分である。
このままぼんやりしていると延々と続きそうだったので、さすがに訊ねてみた。
「千くん」
「うん?」
「わたし、特にいいことしてないんだけど、なにゆえ……?」
「?」
「いいことしたら褒められるのは分かるんだけど……」
むしろ今日一日通して、いいことをされている側である。おやつ然り、晩御飯然り。
「褒めてるわけじゃなくて撫でたいから撫でてるんだよ。けど強いて言うなら亜子は息をしているだけで偉いから、褒めてるでもいいよ」
「わあ……」
昔から些細なことで褒めてくれる千くんだったけれど、ついには生存しているだけで褒められる日が来てしまった。
「でも、その、撫で過ぎじゃないかな? わたしの頭部を撫でても特に御利益は無いからね?」
「四年も亜子を撫でてないんだから四年分は撫でないと気が済まない」
「そ、そんなに撫でるの?」
「それに撫でた瞬間に幸せになるんだから、これほど即効性のある現世利益も無いよ」
「まあ、千くんに御利益があるなら……」
さすがに摩擦ですり減って身長が縮みそうだなあと、ほんのりと危惧を抱き始めた頃、千くんはある程度満足したらしく手を止めてくれた。
「そろそろ一緒にお風呂入ろうか」
「うん。えっ?」
「え?」
さらりと言われたのでさらりと頷いてしまったけれど、頷いてはいけない内容だったので慌てて聞き返したら、千くんはきょとんとしていた。
千くんがきょとんとしている姿は可愛いのだけれど今は和んでいる場合ではない。
そうだった、千くんの言う「ずっと一緒」は、本当に一日中ずっと一緒を望んでいるんだった。
お風呂はさすがに除外だと思っていたけれど、この様子だと特に除外項目でもなさそうなので焦った。
「お、風呂は、ひとりで楽しみたい派かな……? 旅の疲れを、ひとりで、流したい気分かな……?」
ひとりで入りたい旨を強調してやんわり却下すると、千くんはあっさりと引き下がって、「また今度でいいよ」と微笑んだ。よかった。また千くんを悲しませずに済んだ。
「……。……。え、今度……?」
「お湯溜めてくるね。そうだ、バスソルトを色々と買ってみたんだけど選ぶ?」
「わあ、選ぶ!」
バスソルトなるお洒落な響きに誘われて、そういえばまだ見ていなかった浴室の案内もしてもらった。
「大学生が一人暮らしをするところのお風呂」のイメージとして、そもそもお風呂が付いていないか、もしくはドラム缶か、よくて体育座りで入るタイプのこぢんまりした浴槽を想定していたのだけれど、ここでも裏切られた。
ぴかぴかの清潔な浴室に、足を伸ばせる広い浴槽がある。感激である。
千くんがスイッチを押すと、お湯が溜まり始めた。適量になると自動で止まるらしい。快適である。
「すごいね千くん、下宿先のお風呂って、新聞紙と薪で沸かすものだとばかり思ってたよ!」と興奮して言うと、千くんは「だから亜子は何を参考にしたの……?」と不安げに言った。
一番風呂の権利を譲ってもらったので、お言葉に甘えて入浴の準備をする。
千くんの家でお風呂に入るなんて、ますます不思議な気分だなあと思って、ふと、そういえば今日はここにお泊りをするのだという、当たり前のことに思い当たった。
小学生時代から中学生時代にかけて、千くんの部屋にお邪魔した回数は数えきれない。
宿題はする、お茶は飲む、おやつは食べる、昼寝はする、映画は見る、まるで自分の家のように寛いでいた。
けれど、お泊りをする(正しくは住む?)のは、本日が初めてである。
というか今まで、誰かの家にお泊りをしたことがない。
いわゆるパジャマパーティをしたことがない。
高校生の時、テディベアロボット研究部の面々と合宿をしたことはあったけれど、あれは部活動だったし、パジャマじゃなくて学校指定のジャージだったし、徹夜で制作に励んだ修羅場的な一夜でパーティ要素も無かったし、ノーカウントである。
よって、今夜こそが憧れの人生初パジャマパーティだったのに。
「あ。持ってきてない……」
肝心のパジャマが無いとは!
ビジネスホテルに泊まるつもりだったから、備え付けのパジャマを当てにして、持ってきてないんだった。もちろん日中用の着替えはあるけれど、パジャマに転用できそうな物は無い。
初めてのパジャマパーティには、それはもう気合の入った可愛いパジャマで挑みたかったし、「亜子は普段から可愛いパジャマで眠るお洒落女子である」と千くんに認識されたかったし、なのに、それらが叶わないとは。なんてことだ。
色々と落ち込みながら、「パジャマ持って来るの忘れました……」と、泣く泣く千くんに申告した。
すると、千くんは「買って洗濯して一度も着てないから綺麗だよ」と言って、きちんと畳まれたスウェットの上下を出してくれた。
くたくたに着古した高校ジャージとかでもよかったのに、新品、それも購入後の洗濯のひと手間を加えたものを用意してくれるなんて。おもてなしの心が果てしない。
「タオル類は洗面所にあるものを好きに使って」と示された棚には、柔軟剤の宣伝に使えそうなふわふわのタオルが整然と積まれていた。おもてなしの心がとめどない。
パッケージの可愛さで選んでみたバスソルトを、お湯にざらざらと振りかける。甘い素敵な匂いなので嬉しい。確かパッケージには、ハッピーフローラル…なんとか…プレシャスとか……リフレッシュ的な……香りとか、そんな感じのことが書いてあった気がするので、そんな感じの匂いである。
後から千くんが入るから、普段より早めに上がろうと思っていたけれど、「データの整理とか余韻に浸るとか色々することがあるから遠慮せずにゆっくり入っててね」と言ってくれたので、存分にお風呂を堪能する。こちらに気を遣わせまいとする気配りが眩しい。データの整理ってなんだろう。大学の課題だろうか。春休みも課題に追われるなんて、千くんも大変だ。
楽しい入浴を済ませて、身繕いをして、借りたスウェットをさっそく着てみる。
千くんのサイズだから、袖の長さも肩幅もズボンの裾も余る余る。
成長期を見越して買った大きめの制服がぶかぶかだった中学生時代が懐かしい。
洗面所の鏡に映った自分の姿を見て、少し落ち込む。借りた身でこんなことを言うのはあれだけど、やっぱり、ぶかぶかのスウェット姿よりも、お洒落可愛いパジャマ姿を見せたかったものである。
こういう「ザ・部屋着」というゆるゆるファッションも本当は好きなんだけれど、だって、初パジャマパーティだし、初お泊り(正しくは初居住?)だし、うん……。
お風呂上がりのほっこりした気持ちと、可愛いパジャマを忘れてブルーな気分の混ざった、複雑な心境で居間に戻った。
この姿を見た千くんの開口一番は、真顔で「写真撮ってもいい?」だった。
「しゃしん」
「うん。可愛いから。駄目?」
本来は三色団子柄の超可愛いワンピースパジャマで寝てるんですよ、と弁明するつもりだったので、思わぬ可愛い判定を受けて困惑した。
「駄目じゃないけど、えっと、かわ、いい……?」
「うん。ぶかぶかのスウェット着てる亜子なんて可愛い以外の何物でもないよ。俺のサイズ着るとそうなるんだ……。可愛い。すごく可愛い。亜子は何を着ても可愛いけど、一段と可愛い」
千くんはオーバーサイズファッションが好きなのだろうか、ものすごく褒めてくれるので、俄かに自信が湧いてきた。
これはそう、むしろ部屋着が一周回って超お洒落というパターンに違いない。
「うえへへ……。休日のセレブ感、出てるかな……?」
「それはよく分からないけどたぶん出てるよ。きっとダダ漏れだよ」
「そう?」
「うん。はい、こっち向いて」
携帯電話のカメラを向けられたので、今のハッピーな心境を表すべくダブルピースの笑顔で応じたら、シャッター音の後で千くんは片手で顔を覆って俯いて「てんし……」と呟く謎の工程を挟んで、顔を上げて、「この写真、待ち受けにするね」と微笑んだ。
「えっ、恥ずかしいから待ち受けはやめて……」
「そう? ……ああ、そうだね、待ち受け画面から目が離せなくなるから生活に支障が出るね。やめておく」
よく分からないけれど待ち受けにすることはやめてくれたらしい。よかった。
「じゃあ、俺も入ってくるね」
「うん。今日のバスソルトは、ハッピーフローラルアグレッシブリラックスの香りです!」
「後半に矛盾を感じる香りだけど楽しみだよ」
お風呂に向かう千くんを見送り、ソファに座る。
千くんは「眠たかったら先に寝てて」と言ってくれたのだけれど、全く眠たくない。
普段なら、そろそろ寝る準備を始めている時間である。
が、湯豆腐を味わって雑貨屋さんを見て回って抹茶パフェを楽しんで帰るという、夢のような明日を思うと、興奮して眠れそうになかった。
しかも、朝食は千くんがフレンチトーストを焼いてくれるとのことだ。わくわくが止まらない。安らかに眠れと言うのが無理な話だ。
仕方がないので、眠れない時用に持ってきた文庫本を開く。
けれど、いつもなら読み始めた瞬間に睡魔に襲われる泉鏡花の文章が、今夜は威力を発揮しない。
かと言ってすいすい読み進めているかと言うとそうではなく、ページは見つめているけれど頭に入って来ず、脳内は「明日、超楽しみ!」一色である。
眠たくなるための努力を放棄して、ボストンバッグから着替えをあれこれ取り出し、明日のコーディネートに悩む作業に勤しんでいたら、お風呂を済ませた千くんがやってきた。
「亜子、眠れないの? 普段ならもう寝てる時間だよね?」
なぜ千くんがわたしの普段の就寝時間を把握しているのか不思議だったけれど、今はそんなことよりも「明日が楽しみで眠れないです」なんて正直に話して、「遠足前夜の小学生みたいだなこいつ」と呆れられたら恥ずかしいから、それっぽい言い訳を考える方が大事である。
環境が変わったため寝付けそうにない、というのはどうだろう。
うん。これだ。「わくわくして寝付けない」よりもずっと大人っぽい。
「いやあ、京都は気圧が低いですね」とかなんとか、適当な外的要因をでっちあげよう。
「うん。なかなか寝付けなくて。その、京都の気圧が……」
「絞めて落とそうか?」
武人みたいな提案をされて慄いた。
しかも「コンビニでアイス買ってこようか?」のノリだった。
「え、絞め……え?」
「スタンガンは痛いだろうし、肌に跡が付くと思うし。嗅いで数秒で気を失う薬品も一応あるけど腎臓によくないから、なるべく避けたい。だから首を少し絞めて気を失わせるのが一番安全かなって。加減は分かるし」
提案が全て怖い。
しかも一番安全判定された方法がただの力技である。
なぜ人の意識を奪う選択肢がそんなに豊富なんだ千くん。
「そうだ、安眠作用のあるハーブティーもあるけど……」
最後に穏当で真っ当な提案が出てきたので、全力で飛びついた。
「あの、ぜひ、ハーブティーでお願いします。ハーブティー大好き!」
よほど飲みたがっていると思われたのか、いや飲みたがっているんだけれど、千くんは笑って、「用意するから待ってて」と台所に向かった。
しばらくして、二人分のカップを載せたお盆を手に戻ってきた。到着時に紅茶を淹れてくれた時のデジャヴである。
「好き嫌いがあると思うんだけど、飲めそう?」
「うん。美味しい」
「よかった」
ソファに並んで座って温かいハーブティーを飲みながら、しみじみと千くんの優しさに思いを馳せる。
眠れないと相談したら、昏倒させる手段ばかり挙げられたから、もしかして千くんは戦闘狂か何かなのかと少し疑ってしまったけれど、その主旨は当たり前だけれど「亜子が眠れなくて困っているから助けなければならない」という優しさである。
人の意識を奪う手段が豊富なのも、きっと防犯の一環なのだろう。かつて千くんは、世の中の半分は悪い人間だと言っていたし。一人暮らしをする人間には、おそらく彼ぐらいのセキュリティ意識が必要なのだろう。
もし、わたし一人だったら、遠くない未来に危ない目に遇っていたに違いない。
邪悪な人間に誘拐されて監禁されて代引で身代金請求をされていたに違いない。
でも今のわたしには、優しくて、しっかりしていて、善なる心の持ち主である千くんがいてくれる。千くんと暮らせることになってよかった!
やがて、千くんは四年分の続きを始めた。
この軽く抱き締めるような体勢は、初めは緊張するのだけれど、一定のリズムで頭を優しく撫でられているうちに、だんだん、穏やかな気持ちになっていく。
飲み物でお腹が温まっているのも相まって、穏やかを通り越して、うとうとしてきた。
ハーブティーの安眠効果はすごいなあ、なんて、半分眠りながら思っていると、「え、寝てる……早……なんて素直な体質……」と、千くんが呟いているのが聞こえた。
「ん……んう……」
まだ辛うじて起きてます、と返事をしたかったけれど、呻き声しか出なかった。
眠たい。
抱き上げられた感触がした。たぶん、このままベッドに運んでくれるのだろう。
優しい。
この優しさに寄りかかって生活をしていたら、すぐに駄目人間になってしまいそうだ。自立しなければ。ちゃんと自分で歩いてベッドに行こうと思ったけれど、どんなに頑張ってもまぶたが上がらない。眠たい。明日から自立しよう。
「おやすみ、亜子。眺めたり撮ったり舐めたり噛んだりするかもしれないけれど、それ以上のことはしないから安心してね」
眠くてよく聞き取れなかったけれど、「おやすみ」はちゃんと聞こえた。
千くんの優しい声を聴くと、途方もなく安心する。
その夜の夢には千くんが出てきた。
「ずっと一緒」には寝ている間も含むと言っていた千くんも、夢の中までは想定外に違いない。ついにわたしも千くんを超える日が来たようである。
夢でも一緒にいたと教えたら、千くんは喜んでくれるだろうか。