◆10話 後日談
大学の講義を終えた、帰り道。
寄り道した山で遭難した。
ハイキングルックで入山している人はいなかったので、吉田山とは軽い山なのだなと舐めてかかって探検を試みたのが失敗だった。
迷った。
帰り道が分からない。
携帯電話の充電は切れていた。
これはもう帰巣本能に頼るしかない。
途中、いい感じのカフェを発見したので、ケーキと紅茶を頼んで休憩した。 山の中にカフェがあるんだよと、後で千くんに自慢しよう。
千くん。
幼馴染である彼と、お付き合いおよび同棲を始めてから、半年以上が経つ。
本当は、交際をすっ飛ばしてプロポーズをされて、すでに婚姻届けに記名も押印も済ましているのだけれど、現状、結婚はしていない。まだ、婚姻届けを提出していないのだ。
というのも、千くんが我が両親の圧に負けたからである。
プロポーズのきっかけとなった京都旅行5泊6日、その最終日、実家に帰るわたしと一緒に飛行機に乗り、千くんも北海道にやってきた。
結婚するにあたって、わたしの両親に挨拶をするためだ。
ちなみに千くんは、久々の訪問の手土産として、上等な焙じ茶と菓子折りを持参してきた。しっかり者である。
昔と同様、礼儀正しい挨拶をし、慎ましく手土産を渡す千くんに、両親は「水崎さん家の千くんは相変わらずきちんとした子だなあ」と惚れ惚れしていた。
我が両親は千くんを小さい頃から知っており、上記の通り好印象を抱いているとはいえ、その交流は絶えて久しい。
そしてこの時点ではまだ、「再会した日にプロポーズされて同棲を始めた」という重要な報告をしていない。電話やメールで伝えるには内容が内容だし、遠い地からいきなりそんな報告が来たって、両親も困るだろうと思ったからだ。
京都旅行中は、あくまで千くんには案内を頼んだだけという体で経過報告をしており、わたしは千くんの家ではなく、ホテルで過ごしたことになっている。
そんな状態だから、愛の告白事件も何も知らない両親的には、「娘が小さい頃から仲良しだった友達が数年振りに遊びに来た」くらいの認識だ。
久闊を叙していきなり、「今日にでも結婚します」と重大報告するのも事件である。
なので、まずはワンクッション挟むべく、「結婚を前提にお付き合いをすることになりました」と報告した。
すると、千くんに絶大な信頼しかない我が両親は大変なウェルカム状態で、お寿司の出前は取る、戸棚に常備しているクラッカーは鳴らす、すごい浮かれっぷりだった。
全く、落ち着きのない両親で恥ずかしい。娘のわたしはちゃんと、千くんに愛の告白を受けても冷静に受け答えをしていたと言うのに。やれやれである。
母がお寿司を受け取り、父がお茶を淹れている間に、クラッカーの紙吹雪まみれの千くんと小声で話す。
「千くんだから反対はされないと思ってたけど、よかった!」
「うん。……亜子のご両親って、いつもパワーがすごいね……」
これなら「では今日にでも結婚します!」と宣言しても反対はされまいと、わたしも千くんも確信していた。
そう、結婚を前提にお付き合いをすること自体には、全く反対はされなかった。
けれど、「亜子が卒業したら結婚だなあ!」「亜子が卒業したら結婚ね!」「卒業してすぐなんて気が早いかなあ!」「卒業したならいいでしょ!」「卒業旅行が!」「新婚旅行!」と、わたしが大学を卒業してからというのが大前提で盛り上がる両親の様子を見て、なぜか我が両親に弱い千くんは、わたしが在学中(というか入学式もまだしていない)に結婚するつもりだったと、ついに切り出せず。
「はい……彼女が卒業後に、結婚しようと思います」
と、答えたのである。
ちゃんと恋人同士の期間を経てから結婚、という流れに変わって、正直わたしは安心したけれど、千くんは忸怩たる思い、という感じだった。
「だって……亜子と結婚できるまで、あと、四年も待たないといけないなんて……」
「うん。留年しなかったら四年だね」
「……」
その後ちょっと虐められて、留年は絶対しません単位落とさないように頑張りますと宣誓させられたけれど、我が学力の基礎を築いた千くんと暮らすのだから、留年の心配はしなくていいだろう。
というわけで、結婚を前提にお付き合い中の現在、千くんとは恋人同士である。
その千くんに自慢するためにケーキの写真も撮ったし(デジカメの充電はちゃんとあった)、紅茶を飲んで温まったし、元気を出して再出発したが、やっぱり帰り道が分からない。同じところをぐるぐる回っている気がする。
普段はとっくに帰宅している時間である。冬だからすでに日は暮れている。
山中だからか街灯が無い。もはや一メートル先も真っ暗である。怖い。さっき食べたケーキはもう消化してしまった。寂しい。お腹が空いた。泣きそうだ。
山頂付近と思われる場所で石垣に腰掛け、寒さに震えながら下界の街灯りを眺めて途方に暮れていたら、暗い山道から火の玉が向かって来る。
すわ物の怪かと身構えたら、懐中電灯を持って走ってくる千くんだった。
「……! 亜子!」
このまま山中での孤独死を覚悟していたので、千くんの姿を見た瞬間に猛烈に安堵した。
ああ、やっぱり千くんは、いつだって必ず助けに来てくれる。
困った時に祈りを捧げる順番は、最初に千くん、その次に神様と仏様だが、たいてい千くんが助けてくれるので、たいてい神様と仏様の出番は無い。
寺社仏閣溢れる京都にも関わらず、神様と仏様よりも活躍する千くん。もはや徳が高いどころの騒ぎではない。
「ぜんぐん……!」
寒さと感涙の鼻声で名前を呼びつつ、駆け寄って抱きついた。
いつもなら、こうやって突撃をかますと、頭を撫でてくれたり、抱き締めてくれたり、何らかのリアクションをしてくれる千くんなのだが、今回は棒立ちのまま何も言わない。
どうしたのだろう。千くんに化けた物の怪だったらどうしよう。恐る恐る顔を見上げた。
「……亜子」
めちゃくちゃひんやりした顔で見下ろされていた。
めちゃくちゃ怒っていた。
「はいっ……。ごめんなさい……」
この圧は間違いなくご本人である。物の怪説は消えた。
そういえば、先々週に迷子になった時も、めちゃくちゃ怒られたんだった。
「こんなところで何してるの?」
「……そ、遭難、しました」
「……吉田山で遭難する人間がいるとは思わなかったよ」
「ごめんなさい……帰巣本能が、上手く作動しなくて」
「あまり遠くへ寄り道しないように約束したのに」
「ごめんなさい……冒険心が、押さえられなくて」
「携帯も繋がらないし」
「じゅ、充電が切れてて……」
「今日が何の日か知ってる?」
「えーと、柚子湯に入る日……?」
「そう。冬至。一年で一番早く日が暮れる日に、よりによって山に挑むとはね」
「ごめ、ごめんな……」
ぎゅいおおお……と、お腹が鳴った。
「……さい」
何事もなかったかのように振る舞ってみたが、千くんは「くっ……」と息を堪えると、くるりと背を向けて、しばらく無言で震えていた。
大学生にもなって迷子になり寒さに震えて腹を鳴らすようなわたしの有様を見て、情けなくて泣いているのだろう。
しばらくすると千くんは再び、くるりとこちらを向いて、神妙な面持ちで言った。
「……。帰るよ」
手を差し伸べられたので安心した。手を繋いで、懐中電灯の明かりを頼りに下山する。
「帰ったらお説教するから」
「はい……」
「夕飯はおかず抜きだから」
「……。……。はい……。」
抜かれるのはおかずだけで、お米とお味噌汁とお漬物は出してくれるのが千くんの優しいところである。
手を繋いで無言で歩く帰り道の途中、お腹が空いたのと寒いのとで悲しくなって、若干すすり泣いていたら、哀れに思った千くんが自販機でココアを買ってくれた。優しい。
自販機のホット缶は、あったかーいという柔らかなニュアンスに反し、なかなか侮れない熱さであることを知っているので、念入りにふうふうと息を掛ける。
千くんは先程の冷徹な表情が嘘みたいな、温かい眼差しでこちらを見守りながら、缶入りのお汁粉を飲んでいる。
「なんでこんなに葉っぱが付いてるの?」
と、くすくす笑いながら、ダッフルコートの背面についた枯れ葉を取ってくれた。
「歩いてたら、知らぬ間に……」
本当は転んで落ち葉まみれになった時の取り損ねなのだけれど、転んだと言ったら心配されそうだったのでそこは伏せておいた。
もはや全く怒ってなさそうだったので、「帰ってもお説教しない?」と希望に満ちて尋ねると、瞬時に冷徹な眼差しで「する」と返された。
「はい……」
千くんの怒りは、ごもっともである。
きっと、いつもの時間にわたしが帰って来ない上に電話も繋がらないから心配して、街中を駆けずり回って探して、それでも見つからないから、ついには山の中に入って、やっと発見・確保に至ったのだと思われる。
発見時刻的には、わたしが普段の帰宅時刻を過ぎても帰って来ないと知るや否や、真っすぐに吉田山に向かってきたかのようなスピードだったけれど、まさか離れたわたしの現在位置を千くんが正確に把握している訳もあるまいし、きっとものすごい速さで走って探し回ってくれたのだと思う。
千くんは毎朝ランニングをしているから、きっと走るのは得意だ。
それに、千くんは謎の武力を磨いている人だから、捜索に必要な体力も十分にある。
そう、一緒に暮らすようになって初めて知ったのだが、千くんは大学生になってからずっと、古武術の道場に通っているらしい。これもセキュリティ意識の一環だろうか。
最近の様子を聞くと、一人で多人数を相手にした場合の闘い方を習っていると言っていた。
「どういう状況を想定して……?」と訊ねたら、「複数の警備員に追われている亜子を助ける時とか」と返された。
わたしは何をやらかした設定なのだろう。警備員さんに追われているなら、確実に悪事を働いた側である。助けてはならない。
毎朝のランニングの速度を見込まれてド―ベルマンの散歩のバイトを頼まれていたし、一緒に歩いていたら飛んできた草野球チームのホームランボールを片手でキャッチして野球少年に投げ返していたし、一緒に買い物をしていたら遭遇したひったくり犯を上段蹴りで仕留めてお婆さんに鞄を返してお礼に豆大福を貰っていたし、もはや日常生活に必要な体力と武力は十二分に備わっているはずなのに、一対多数の格闘術まで学んで、彼はどこを目指しているのだろう。
目指す先は分からないが、大学帰りに地元で迷子になる恋人の捜索のために、脚力と体力を磨いている訳ではないことは確かだろう。
こんなことに鍛錬の成果を使わせて申し訳ない気持ちである。
家に着いた。
わたしは正座、千くんは仁王立ちである。
定番のお説教スタイル。
冬の山での孤独死を救出された身としては、小一時間は続くであろうお説教を甘んじて受け入れるべきなのだけれど、怒った千くんは怖い。怖い。断じてお説教を受けたくない。
なお、人生で初めて千くんを怒らせたのは、一緒に住み始めてしばらくの頃、実家から持ってきた私物をせっせと整理していた時のことだ。
「あ、木田くんに住所が変わったって教えなきゃ……」と、年賀状を見て呟いたら、それまでよどみなく荷物整理を手伝ってくれていた千くんの動きが、ぴたりと止まった。
「木田って、亜子が北海道に引っ越しする前の同級生だよね?」
「うん。小学生の時から年賀状のやり取りしててね、引っ越した後も続いてて。引っ越しと旅行を間違うとか馬鹿だなあって呆れられたよ」
「へえ」
千くんの声のトーンが、急に真冬の阿寒湖並みの冷たさになった。
「そいつとは連絡取り続けてたんだ?」
「え、う、うん……」
「俺には連絡くれなかったくせに?」
「うっ、それは、じじょ、事情が違って……ほら、中学の友達には学校経由で引っ越しってばれてるし、ね?」
「……引っ越しの後、連絡くれなかったのって、俺だけ?」
「う……お、お、怒ってる……?」
「うん」
「ひい」
その日が、人生で初めて、ついに、千くんを怒らせた日だった。
それまで、「千くんに怒られること」は未知であり、途方もない恐怖の対象だったけれど、実際に怒られてみると、はい、とても怖かったです。
というわけだから、断じてお説教を受けたくない。
晩御飯のおかず抜きも、撤回に持ち込みたい。
ので、千くんが口を開く前に先手を打つことにした。
謝罪の奥の手、土下座である。
「心配かけて! ごめんなさい! 許して下さい!」
まさかの先制土下座、こちらの勢いに千くんはやや引いていた。
よし!
その心の隙に付け入るように、謝罪を続ける。
「靴でも何でも舐めますからぁっ!」
「どこでそんなこと覚えたんだ……」
ちらっと見上げると、やや心配そうな顔で見下ろされていた。
「許してくれる?」
千くんは優しいので、そこまで言うのなら許す、と折れてくれる計算である。
「うん。靴舐めるなら許す」
まさかの返答だった。
「じゃあ、ちょっと泥道のとこを走ってくるから、そのあとでランニングシューズを舐めてくれたらいいよ」
と、鬼みたいな宣言をして、踵を返して玄関に向かう。
「待って! せめて! 舗装された道を走って! 泥で口の中じゃりじゃりしたら辛いから!」
背中にしがみついて必死に懇願したら、立ち止まってくれた。
「分かった。アスファルトの上を走る」
そして再び歩み出す。
「待って! ごめんなさい! 無理です! やっぱり靴舐めれません!」
てけてけ方式にしがみついて離さないわたしを数歩分、引き摺ってから、千くんはまた立ち止まった。
「ちょっと離して」
「うん」
千くんはこちらに向き直った。
「もう一回しがみついて」
「うん」
何の要求か分からないが、しがみついて顔を見上げていると、何かに満足したようで「うん」と微笑んだ。
あ、許してくれそう。
「どうして嘘吐いたの?」
勘違いだった!
「靴舐めるって言ったのは亜子なのに。嘘だったの?」
えっ、もしかして、靴を舐めさせられないことが残念なのだろうか。
千くん、いつからそんな性癖に……。
「なんか失礼なこと考えてない?」
「考えてないです」
「できないことをどうして言うの?」
「はい、ごめんなさい、本気感だして靴舐めるから許してくれって言えば、言われた人間はたいてドン引いて許してくれるぜって、涼ちゃんに教えて貰ったから……」
泣く泣く白状すると、千くんは許してくれるどころか、「りょう……? 誰そいつ亜子のアドレス帳にいなかったけど」と、いつになく険しい顔で問い詰めてきた。
靴を舐めると言えば舐めなくても許してくれるだろう、という打算がばれたのだから、それはまあ怒るだろう。
ちなみになぜ千くんがわたしの携帯電話のアドレス帳を把握しているかと言うと、千くんは心配性なので、わたしの携帯電話にコンピューターウイルス的な何かが入っていないかを心配して、定期的にデータをチェックしてくれるからである。
「涼ちゃんは、あの、同じサークルの友達……。古式ゆかしい女の子で、電子機器の類は持ってないから、アドレス登録してない……。連絡を取りたいときは狼煙を上げな、って言ってた」
自分で説明しておきながらそんな人間がいるかと突っ込みたくなるが、実在するのだ。ちなみに涼ちゃんの水筒は竹筒である。
「そう、女の子の友達……」
急に険しさが消えたかと思うと、いまだ膝をついてしがみついているわたしを抱き上げて立たせた。
「どうしたの?」
「ううん。てっきり、亜子が俺の知らない男と連絡取り合ってるのかと思って。……ねえ、亜子は浮気なんて絶対にしないよね……?」
「うわき?」
なぜ急にそんな心配をされたのだろうか。
そういえば、このあいだ木田くんが、「彼女が美人過ぎて言い寄る人多過ぎて浮気されないか心配で辛い」と泣いていた。これだ。
千くんはどうにも、わたしに対する評価が激甘な傾向がある。
「亜子は世界で一番可愛い」と真顔で断言されたことがある。犬を飼っている人が、「うちの柴犬は世界で一番可愛い」と断言する、あれと同じ現象なのだと思う。
そんな感じだから、「亜子はひとたび街を歩けば人々の視線を攫う系の美女である」と、思って心配しているのかもしれない。
ここは、浮気が心配で辛くて泣くかもしれない千くんのため、頼れる感じを演出して安心させねばなるまい。恋人として!
両手を広げて、決め顔で言ってみた。
「千くん一筋縄だから、安心していいんだぜ」
「……」
琴線に触れたらしい。抱き締められた。
震えているので、感動で泣いているのだろうか。
「……っふ、どや顔で……。言い間違えてる……。縄いらない……」
笑われていた。
「……。千くん一筋だぜ?」
屈せずに言い直した。
「うん。もう一声」
「千くんが世界で一番好きだぜ」
「うん」
「……。遭難したこと許してくれるぜ?」
「うん。可愛い。許す」
やった。許してくれた。言質取った。
「でも次、心配かけるような真似したら、すり潰すから」
「すっ……?」
千くんの言葉選びは怖い。
遭難には気を付けよう。
許してもらえたので、その日の晩御飯はちゃんとおかず付きだった。
メインは鮭の揚げ焼き・自家製タルタルソース添えである。こんなおかずを抜かれた日には死にきれない。危ないところだった。
晩御飯を食べて、ごろごろして、柚子湯に入って、今はベッドの上。
遭難した時の心細さが嘘かのようないつも通り。
毛布の中でぬくぬくしている平和を、しみじみと噛み締める。
わたしのパジャマは青と白の極太の縞々の上下で、昔の映画の囚人服みたいである。仮装パーティ風で楽しいから買った。毎日がパジャマパーティである。
一方、千くんのパジャマは、てろてろした肌触りで、真っ黒で、なんかスタイリッシュな悪役という感じがする。これから組織のビルに不法侵入し大事な情報を盗み出し世間を混乱に叩き落とす系の大犯罪を決行する予定のダークヒーローに見える。
つまり犯罪者(事後)と犯罪者(予備軍)が並んで寝ているわけだから、なかなかの絵面だ。
ということを話すと、千くんは笑った。
「囚人って、亜子は何して捕まったの?」
「あさりの殻を資源ごみに出した罪で独房に入れられました」
「厳しい世界だね」
だって貝殻って到底、燃えるゴミには見えない。千くんが後で正しく分別してくれたけど。
「俺は今から何の罪を犯すの?」
「タイムマシンで過去に行って地球上の芋類を絶滅させた罪です」
「急にSFになるんだ……」
千くんは芋類が苦手と言う珍しい御仁だ。じゃがバタもフライドポテトも焼き芋もポテチもタピオカも、絶対に食べない。タピオカも芋類判定するあたりに本気さを感じる。
「それで、時空保安警察に追われた千くんは、慌てて別の時代に逃げるんだけど、千くんが焼き払った芋畑の跡地が監獄になってて、ちょうどわたしの独房にタイムマシンが着地するの。で、わたしはこれを機に脱獄して、『組みましょう、兄貴!』って感じで、一緒に逃げることに。最初は、たまたま逃走仲間になった囚人のことなんて、利用するだけして邪魔になったら処分しよう、くらいに考えていた孤独なダークヒーローも、行動を共にするうちに絆が芽生え、映画の終盤、銃弾から囚人を庇って倒れるの。そして、泣き縋るわたしに、『相棒がいるってのも、悪くねえな……』と、微笑むのです……」
「終盤で死ぬ役なんだ……」
「大丈夫、胸ポケットの飴玉が弾丸を受け止めてたから、命に別状はなかった」
「飴玉の材質が気になるな」
囚人とダークヒーローの妄想も大団円に落ち着いたし、そろそろ寝よう。
今日は木曜日なので、平和的に眠る日である。
ちなみに水曜日は「寝る前にテレビゲームをしてもいい日」なので、昨夜は格闘ゲームで対戦をして、ボロボロに負かされた。悲しいので「接待プレイしてください」と頼んだら、ものすごく気持ちよく勝たせてくれた。弄ばれている。
「おやすみ、亜子」
「うん。おやすみなさい」
千くんは眠る時、たいてい手を繋いでくる。
寝ている間にわたしがどこかに行かないか、心配らしい。千くんは寂しがり屋である。
今日も手を繋ぐと思ってスタンバイしていたら、そうではなく、抱きつかれた。
たぶん、遭難事件の後だから心配レベルが上がっているのだろう。千くんは寂しがり屋である。
千くんが頬をすり寄せてきたので、腕を伸ばして頭を撫でてみる。千くんはおとなしく撫でられている。ひとしきり撫でたら、苦しくないように、柔らかく抱き締める。
一緒に住むようになって、変わったことがひとつ。
千くんが、甘えてくれるようになった。
これまでわたしは、千くんにおんぶに抱っこで一方的に甘えて生きてきたけれど、そう、少しは、千くんにお返しできるようになったのである。
できると豪語して実際におんぶをしてみたら秒で潰れたけれど、今みたいに、抱き締めることならできる。
こうして触れていると、千くんは案外、すとんと眠りに落ちる。
わたしがこの世に存在する限り、千くんの心配事は尽きないのだろう。
けど、わたしが手の届く範囲にさえいれば、千くんは安心してくれる。
明日は寄り道をしないで真っ直ぐに帰ってこようと決めて、目を閉じた。
終
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
連載はこれにておしまいですが、番外編もいくつか掲載予定です。