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モンマルトルのヒバリのため息 ~夜の歌姫がおぼっちゃん育ちの伯爵の恋の手助けをしたら色々こじらせた~

作者: ローズリリー

わりと正統派のヒストリカルです。ルノワールの「舟遊びをする人々の昼食」をイメージしています。もし楽しんでいただけましたら幸いです。

モンマルトルのヒバリのため息

 ナイト・ショーをやり終えた後は、派手な化粧を落としてすっぴんのまま、いつもガンゲットに寄る。さんざん劇場で歌った後に何でまたダンスホールに行くんだって言われるけど、ショーは仕事。プライベートとは違う。

 私が働いているモンマルトルのバラエティ劇場『淑女のため息』には、パリの上流の紳士はもちろん、外国の名士なんかも来る。

 白と黒のレンガ造りの気の利いた建物の中には、中々立派なバーもある。ダンスホールを兼ねた中庭には、色んな種類の木や花が植えられ、美しい水蓮の咲く池が常に水を湛えている。

一番人気の演目は、衣装とセットも楽しい歌とダンスのスペクタクル・ショーだ。猿が出たり、ロシアのサーカス団員を呼んだり、バラエティ劇場の名前にふさわしく、様々な趣向が凝らされる。パリにあるたくさんのキャバレーやバラエティ劇場の中でも、ちょっとした劇場だ。

対してガンゲットは安いお酒に夜空が仰げる吹きっさらしのダンスホール、いかにも大衆の店って感じ。飲んで食べて歌って踊って、頭の中が空っぽになるまで騒ぎまくる。

ダンスホールでは、胸ポケットにお金をパンパンに入れた紳士が、ダンスをしながら好みの娼婦を物色して、二人で夜の街角に消えていく事もある。

でも、どんなにお金がよくても、私はお客は取らないって決めている。母さんが死ぬ時に、約束したから。

 母さんは貴族のお屋敷で奉公をしていたけど、そこの主人の御手付きになって私を身籠った。母さんは、嫉妬に狂った夫人に裸同然で屋敷を追い出され、それから父さんと会うまでの事は、誰にも話さなかったそうだ。

 母さんはその時の無理がたたって体を壊し、私が13歳の頃に亡くなってしまった。この話は、母さんが亡くなってしばらくして、父さんから聞いた。

 その後、父さんも病気になって、私は14歳でパリに出て行く事になったのだ。

 母さんの約束の意味が今はよくわかる。

 つらい時とか寂しい時は、優しかった母さんの笑顔を思い出す。そうすると元気が出る。ま、その後もっと悲しくなる事も多いんだけど。でも、負けちゃいけないって思えるんだ。

 とにかく仕事の後は、仲間とパーッと一騒ぎしないと、すっきり眠れない。

 でも、今夜は違う意味で寝付けそうになかった。

「どうしよ」

「アルエットのどうしよを聞くと、月末って感じがするな」

 アンリ。人の苦悩をカレンダーがわりに使うとは洒落た事をしてくれる。

「残念でした。もう10日家賃を滞納してるから、今は月初めよ」

「なるほど。明日の朝までに家賃を払わないと、本気で大家に追い出されるってことだな。それは大変だ」

 アンリは私の真下の部屋に住んでいる。18歳の私より4つ年上の22歳で、絵描きをしている。前はきれいな衣装のバレリーナなんかを描いてたけど、最近はキャバレーや劇場のポスターとか、何が面白いのか、酒場の飲んだくれとか、トドみたいに寝そべって休憩している娼婦ばっかり描いている。

 私も時々モデルになるけど、私を描いた絵は絶対に見せてくれない。きれいに描かないと怒るとでも思っているのかもしれない。もちろん、ちょっとでもブサイクに描いたら、アンリの首を絞め上げて、つやつやのブルネットを丸坊主にしてやるけど。

「『淑女のため息』の売れっ子歌手が、何で毎月そんなに金に困ってるんだ?」

 アンリはクロッキー帳から目を離して、ちらっと私を見た。狼のような琥珀色の瞳は、切り込むように鋭い。

「ちょっと…急な出費があって」

「アルエットの突然の出費は割と定期的だな」

 よくまあ他人の収支をいちいち覚えているもんだ。

「アンリはいいわね。何だかんだ言ったって、実家は金持ちなんだから」

「金持ちには金持ちの悩みがある」

「一度でいいからその苦しみを味わってみたいわ」

 ランプの光できらきら光っている緑色のアブサンをじっと見る。これが本物の宝石の塊だったら、家賃や仕送りに悩む生活から抜け出せるのに。例え今月を乗り切っても、ノルマンディーの田舎にいる父さんの薬代は、これからもっとかかるだろう。最近発作の回数が増えている。良くなるどころか悪くなっているような気がする。それに、さくらんぼみたいな双子の弟を、きちんとした学校に行かせてやりたい。

 グラスのふちに穴あきスプーンをのせて砂糖を置き、聖水を注ぐようにしてアブサンを水で薄めた。アブサンは乳白色のガラスのように濁った。

現実は厳しい。上を向いてグラスをあおる。太陽を飲み込んだみたいに喉がジュワッと熱くなり、グラスの底に真ん丸い月が見えた。

 本当は、喉に悪いからって、劇場のマダム・ポンヌフに強いお酒は禁止されてる。でも、節約しなくちゃいけないとか、日焼けしちゃいけないとか、稽古をさぼっちゃいけないとか、我慢ばっかりも体に悪いし、やってられない。

 空のグラスを置こうとして、一人の若い紳士が目に入った。遠目ではっきりとはわからないけど、真っ白いスーツが場末の店には全くそぐわない、品のいい紳士だ。

こういう店に来る紳士は刺激を求めてくる人がほとんどだ。金持ちの楽しみっていうのは奇妙なもんで、したたかな娼婦や、どんな悪事を働いているか知れないようなゴロツキの隣で酒を飲むのは、なんとも言えない生々しい興奮を覚える、のだそうだ。

 が、あの紳士はどうも様子が違う。テーブルをじっと見つめたまま、酒も飲まず、言い寄ってくる胸の大きな娘にも、きれいな顔立ちの少年にも、返事どころか見向きもしない。

 背筋を伸ばして、一人ぼっちで座っている。田舎からパリに来たばっかりの頃を思い出した。家族と離れて、慣れるまでは毎晩泣いてたっけ。いいのか悪いのか、今は随分たくましくなっちゃったけど。

「ねえ、あの客どう思う?」

「どれ?」

「ほら、あのブロンド。背が高くて真っ白いスーツ着た、いかにもお坊ちゃんて感じの」

 アンリはクロッキー帳から目を離し、私が指した方を見て目を細めた。

「アルエットの嗅覚には感心するな。ラウル・ド・カモンド伯爵、22歳。パリで5本の指に入る大銀行家の跡取りだ。あいつ、何でこんな所にいるんだ?」

「銀行家か…。じゃ、お金持ってるわね」

「持ってるだろうな」

「ちょっとお話してくるわ」

「待ーて」

 アンリは私のスカートの端をつかんだ。

「何よ」

「あれはやめとけ。赤毛の婚約者に夢中だ」

「知っている人?」

「社交界の有名人だ。知らないのはアルエットくらいだよ」

「別に、ちょっとトランプ遊びをするだけだよ。明日までに、あとこれだけあればいいんだから」

 クロッキー帳の上から、人形劇みたいに5本の指をのぞかせた。

「つまり家賃ほぼ全額ってことだな」

 アンリは呆れたようにクロッキー帳を閉じて、アブサンを飲んだ。

 ここは一つ、家賃をかけて気合を入れていこう。私は唇を指でこすって赤くし、ハンガリー風ドレスの胸元の紐をきつく締めた。

「あばら骨を寄せ上げてどうするんだ」

 うるさい。

「見ーつけた!」

 酔っ払った女がキャンディをぶちまけるような声を上げて、アンリと私の間に勢いよく倒れこんで来た。グラスが派手な音を立てて転がる。

 またか、もう。

 近くの娼館のクレーム・シャンティーだ。引っ張り起こそうとすると、クレーム・シャンティーはテーブルに仰向けに倒れたまま、派手に笑い出した。大きな胸がババロアみたいに揺れている。

「アンリ、今夜は逃がさないわよ」

 この人はアンリにご執心だ。アンリはハイハイと返事をしながら、クレーム・シャンティーを抱え起こした。

「こんばんは、オレの美の女神様」

「あらぁ伯爵、ありがと。愛してるわ」

 クレーム・シャンティーはアンリの首に腕をまわして熱いキスをすると、テーブルの上のグラスを拾って、勝手に飲み始めた。

 アンリはモテる。大体絵描きとか彫刻家ってのは手が早い。体力がない代わりにセンスがある。さらにアンリは外面がいい。

 獣のような琥珀色の瞳と、深い艶のあるブルネットの髪が、遊び好きの性格をミステリアスに包み隠してしまう。何かをじっと見る時、目を細めてかすかに唇を開くクセが、また変に色気がある。デッサンのモデルをしている途中、アンリと目があった拍子に気を失った娘もいるくらいだ。

 しかし面倒くさい人が来てしまった。アンリとよく一緒にいるというだけで、クレーム・シャンティーは私を目の敵にしている。

 ここはやっぱり、アンリを置いて逃げるのが得策だろう。

 それに、あの紳士とお話がしてみたいし。

 酔っ払いをかき分け、どうやってきっかけを作ったらいいか、あれこれ考えながら歩いていると、突然腕を掴まれた。

「姉ちゃん、ちょっと待ちな」

 しまった。

「今忙しいの。放して」

 男は卑しい笑みを浮かべ、怒った私を面白がるように、太い指を私の腕に食い込ませた。

 アザでもできたら、マダム・ポンヌフにギャラを下げられる。

「放してったら!」

「金がいるんだろ? 今晩つきあってくれたら家賃分くらい弾むぜ」

 アンリと私の話を聞いていたのだ。私が一人になるのを待っていたに違いない。赤い顔をした男は私を引きずり寄せ、脇腹にナイフを当てた。酒臭い息が首筋にかかり、全身にゾッと鳥肌が立った。

「誰が、あんたなんかと」

 参ったな。

 目だけを動かして何とかアンリを見ると、奴はクロッキー帳を開いて、べろんべろんのクレーム・シャンティーを描いていた。

 それ今描かなきゃいけないわけ?! 肝心な時に役に立たないんだから!

「このまま大人しく店の外に出るんだ」

 どうしよう。ちょっとやそっと声を荒げても大音量の音楽にこの騒がしさだ。気付いてもらえるかどうか。大事な腹筋にナイフを刺されるのは嫌だ。

 落ち着け。どうしたらいいか考えなきゃ。嫌な汗がじっとりと首筋を流れていく。

「僕の連れに、何かご用ですか?」

 弓のようにしなやかな腕が、私と男をスッと切り離した。

 アンリ…じゃない!

 見上げると、突き抜ける空のような瞳が男を睨んでいた。

「誰だ、お前…」

「それはこちらがお伺いしたい」

 その紳士は、男のナイフを持った手首を一瞬でねじり上げた。

「やめろ!」

 男の手から滑り落ちたナイフを、紳士は靴の踵で蹴り飛ばした。

「勘弁してくれ!」

 男は紳士に向かって私を突き飛ばし、ネズミのように逃げ出した。

 助かった…。

「大丈夫ですか?」

 私を受け止めた紳士は、優しい声で尋ねた。

「ええ。助けてくれてありが…」

 最後まで言えなかった。それは、心臓が止まりそうなほど、端正な紳士だった。

 煌めくシャンパンのようなブロンド、きゅっとしまった口元は知的で堂々としている。

 一際目立つのは、すべらかな真珠色の肌に輝く、空色の瞳だった。

 こんな人がいるなんて。

 まるで光の国の貴公子だ。

「おっと」

 ふらついた私をサッと支えた腕は、強く頼もしい。

「一人で来ているのですか? あなたのような方が、遅い時間にこんな場所にいたら危ない。家まで送りましょう」

 この人と一緒ならどんな場所だって、恐い事はないだろう。頭の中に天使が駆け巡るような気がした。

 今日はツイてないけど、すごくいい夜になる気がする。

 頭の中の天使にキスをすると、その中に一匹、堕天使が混じっていた。ああ、ものすごく不本意なものを思い出してしまった。

「いえ、そういえば連れが…」

 全然役に立たないアンリがいるんだった。でも、いると思うと期待しちゃうから、この際いないと思って置いて行った方がいいのかもしれない。

「いませんでした」

「お前、オレのアルエットに何をしている!」

 アンリ。今頃やって来てその上誰の私だふざけるな。

「なんてな。ラウル、久しぶりだな」

「アンリじゃないか! どうしてこんな所にいるんだ?!」

 この人、ラウル・ド・カモンド伯爵?!

 やっぱりアンリは知り合いだったのだ。

 何となく、できればそうであって欲しくなかったな…。

「それより、このお嬢さんはアンリと一緒だったのか? ちゃんと見ていなきゃダメじゃないか。さらわれる所だったんだぞ!」

「ああ、すまない。ちょっと目をはなした隙に勝手にいなくなるもんだから。ラウルこそ何でこんな所にいるんだ?」

「ちょっと、一人になりたくてね。でも、アンリに会えるとは思っていなかった。嬉しいよ」

 背の高い二人が肩を叩き合う姿はとても様になる。が、しかし。

「知り合いなら、最初に言ってよね!」

 危うくポーカーでお金を巻き上げる所だった。私が小声で耳打ちすると、アンリはニヤニヤしながら近くの椅子に座った。

「ラウルとは、オレが子供の頃ニースで療養してた時に会ったんだ」

「家の別荘が近くでね。アンリは昔から人気者だったよ。いつも看護婦や近所の女の子達が遊びに来ていてね。僕はなかなか友達が出来なかったから、アンリが羨ましかった」

 その光景、とてつもなく鮮やかに目に浮かぶ。というか、一昨日くらいにも似たようなものを見た気がする。アンリは子供の頃からそんなだったのか…。三つ子の魂百まで、というのは本当なんだ。

「みんなアンリの顔と外面に騙されるのよ。本性はただの遊び好きの女好きなのに」

「人をダメ人間みたいに言うな」

 ラウルは白い歯を見せて軽やかに笑った。

「僕はラウル・ド・カモンド。ラウルと呼んでくれるかな」

「私はアルエット」

「ヒバリ? 小鳥のような君にぴったりの名前だね」

「これはアンリがつけたのよ。私、『淑女のため息』で働いてるの」

「『淑女のため息』で働く…? シャンパンを開ける仕事を?」

「バラエティ劇場の名前さ」

 アンリが笑いながら説明した。

『淑女のため息』とはシャンパンを開ける時の音のことを指す。劇場の名前はそこからつけられた。やっぱり、ラウルはこういう劇場には行かないんだな…。

「私、歌手をしているの」

 アルエットは私のステージ・ネームだ。気に入っているし、お客に覚えてもらう為にも、普段からこの名前を使っている。

「ああ、それでヒバリ…そうか、君がアンリと婚約したという、噂の黒鳥か!」

「いえ、違うわ」

 即座に否定したのに、ラウルは私の話を聞いていなかった。噂の黒鳥って何のことだろう。この自由気ままなボヘミアン気取りが、婚約なんてするわけないと思うけど。

「あの話は本当だったのか。でもこんなに可愛いらしいお嬢さんだとは、聞いていたのとは大分違うな。確か黒髪の」

「ラウル。残念ながらオレは妖艶な黒髪の伯爵令嬢とも、強暴な野鳥とも婚約していな…痛って!」

 隣に座りながらアンリの足を思い切り踏みつけてやった。まったく誰が野鳥だ、この野良貴族が。

「何だ、やっぱりデマだったのか。それにしても、こんな魅力的なお嬢さんと一緒だなんて、アンリは本当に幸せ者だな」

「ラウルは昔から女を見る目がないな」

 アンリはため息をついた。

「まさか。カフェオレのような柔らかい髪と、若葉のような緑色の瞳が、こう…知らない間に心の氷を溶かすようだ」

 ラウルは珍しい動物でも見るように私をのぞき込んだ。ラウルの首筋から、目眩がするような香水の匂いがした。

「…ありがとう」

 劇場で働いていれば、どんな娘だって褒め言葉とかお世辞には慣れている。穴が開くほど見つめられたって全然平気だ。でも、ラウルたった一人の目は何千人の客より緊張する。息苦しいほど鼓動が早くなった。

「それより、人の100倍寂しがり屋のラウルが一人になりたいなんて、何かあったのか?」

 アンリは注意深く眉をひそめた。

「いや、別に大したことじゃない。僕にだってそんな時もあるよ」

「いや、ラウルにそんな時があるわけない。何かあったんだろ。こんな場所に来て、お前カードでアルエットにカモられる所だったんだぞ」

「ばっ、バカ言わないでよ! その、何か悩んでそうだったから話っていうか、カード…占いでもと思って!」

 アンリは頬杖をついてニヤニヤ笑っている。

「ま、とにかく座れよ。ラウル、オレに意地張っても仕方ないだろ」

「そうよ! それに何か飲んだら? ガンゲットでシラフでいるなんてヤボだわ」

「じゃ、おすすめをもらおうかな」

ラウルは背中を真っ直ぐ伸ばしたまま椅子に座った。まるで大統領が場末の酒場に視察に来たようだ。けど、例えローマ法王が来てもここで飲むなら決まっている。

「モンマルトルの緑の淑女をお試しあれ」

 新しいグラスに妖しくきらめくアブサンを注いだ。薄めようとしたら、ラウルは中身も見ないで一気に飲み干した。

 これ、アルコール度数50なんだけど。

 ラウルの顔色は少しも変わっていない。酒に強いらしい。

 ついでなので料理もいくつか頼んだ。

「実は、イレーヌの事でね」

「そんな事だろうと思ったよ」

「イレーヌって?」

「イレーヌは僕の婚約者なんだ。歳は16」

 アンリが言っていた赤毛の婚約者のことか。

 さっき聞いた時は何とも思わなかったのに、今は青アザを触られたかのように、胸が鈍く痛んだ。

 何だろ、これ。

「…イレーヌは僕を愛していない。嫌っているんだ」

「ラウルを?!」

 ラウルを気に入らないなら、もう男が嫌いだとしか思えない。

「元々政略結婚なんだ。彼女の家は僕と同じ銀行家でね。両家が血縁を結べばお互いにとって得になる、そういう結婚だ。愛がなくても仕方がない」

 政略結婚か。なるほど、金持ちもそれはそれで大変というのは、少しはある話なのかもしれない。でもそんなの、チーズもろくに買えない貧乏に比べたら何でもないと思うけど。

「けれど、時折見せる、あの天使のような微笑み…。それだけで僕はイレーヌに夢中になってしまった。残念ながら、そんな風に想っているのは僕だけのようだが」

 ラウルは空になったグラスをテーブルに置いた。

「僕はイレーヌが何を考えているのか、よくわからないんだ。わかるのは、イレーヌは僕といる時は、いつも苛立っているという事くらいだ」

 ラウルがため息をついた。

「わからなくて当然だ。そもそも男と女は、違う世界の生き物なんだからな」

 アンリは気だるそうに目を伏せ、タバコの灰をテーブルの下の地面に落とした。

「男と女…。それだ!」

 ラウルは、神の啓示を聞いたジャンヌ・ダルクみたいに突然天を仰いだ。急に生き生きとして嬉しそうなラウルの眼差しは、恐いくらい眩しい。

「アルエット、君に頼みたいことがある」

「えっ? でも今私、貸せるお金なんて本当にないわ」

「どこの世界にモンマルトルの小娘に金を借りる銀行家がいるんだよ」

 アンリは憐れむようなため息をついた。

 そこの絵描き、勝手に人を気の毒がるな。頼み事って聞くと、反射的にお金が大変なんだと思ってしまう、自分の生活苦が情けない。

「そうじゃなくて、これは君にしかできない事なんだ」

 ラウルは真剣そのものだ。

「同じ女性なら、イレーヌが何を考えているかわかるだろう?」

いや。こんなに素敵なラウルに苛立つなんて私にはさっぱり理解できない。それなら私と代わって欲しいと思うだけだ。

「イレーヌが僕といる時、何を考えているのか、探ってくれないだろうか?!」

 はあ?!

「ラウル、同じ女でも野鳥と白鳥じゃ全然違うぞ」

「誰が野鳥よ。あのねラウル、残念だけど」

「どうしてもダメかな?」

 ラウルは子供のように唇を噛みしめ、澄んだ空色の目ですがるように私を見つめた。

 その顔、卑怯だと思う。

 これで嫌だと言える娘がいたら、それは人間じゃないだろう。助けてもらった恩もある。

仕方ない。

「わかった、やるわよ。私がばっちりイレーヌの心を見抜いてあげるわ」

 ラウルは両腕を翼のように広げて私を抱きしめた。

「ありがとう! 君は僕の希望だ!」

 肌触りのいいシャツに一瞬で鼻も口もふさがれて息が出来なくなった。細身なのに本当にすごい力だ。芳しい香水と厚い胸板と腕力に頭がうっとり、いや、ぼんやりしてきた。

「おいラウル、アルエットが窒息するぞ」

「あ、ああすまない」

 ラウルの腕が緩み、私はやっと解放された。

「だけど、具体的にどうしたらいいだろう」

 ラウルは眉をよせ、長い指で顎をつまんで考え込んだ。

 そうだな。どうせ会うなら、こっちの気分も上がる方がいい。何か面白いこと。

「もうすぐパリ祭じゃない!」

「そうだったね。最近イレーヌのことで頭が一杯で、すっかり忘れていた」

 私も日々の暮らしで精一杯で忘れていた。

 パリ祭は7月14日、バスチーユ監獄襲撃と、建国記念日をあわせた休日だ。街中がトリコロールで飾られ、絢爛豪華な花火が上がり、パレードが出たり、とにかく朝から晩までパリ中が大騒ぎになる。

「その時にどこかで、私達と偶然会う事にしたらどう?」

「私達? ちょっと待て、まさかオレもその茶番に混ざるのか?」

「当たり前でしょ」

 下手すると、私よりアンリの方が女心がわかる場合がある。こんな人材を放っておく訳にはいかないのだ。

「アンリ、悪いな。君にはいつも助けてもらってばかりだ」

 早くも浮かれ気味のラウルに肩をがっしりと抱かれ、アンリは渋々承諾した。

「じゃ、そろそろお開きにしよう。ラウルももう帰らないとまずいだろ」

「そうだな。今夜は本当に楽しかった。ありがとう」

 ラウルは太陽のような笑顔で私とアンリの手を握った。文句を言っているけど、アンリも楽しそうだ。どうせその時になれば、アンリの方が面白がるに決まっている。

「さ、アルエット、家に帰るぞ」

 家に帰る、と言われて酔いが醒めた。

「私、もう少しいるわ。その、ダンサーのリーザと一緒に帰りたいから」

 すっかり忘れてたけど、今夜中に家賃を確保しないといけないんだった。誰か別の紳士相手にカードで一稼ぎしないと、帰れない。

「それはダメだ! またあんな酔っ払いに絡まれたら大変じゃないか。それなら僕も付き合おう」

 本当に、ラウルは何て優しいのだろう。家賃を稼がなくてよければ、そう願いたいのに。

「大丈夫よ。女同士で話したいことがあるし。邪魔しないで」

「その通りだ。アルエットのお喋りにつき合ってたら夜が明けるぞ」

 アンリは胸ポケットから小さくたたんだクロッキー帳の切れ端を出して、私のスカートのポケットに入れた。

「何よ、またゴミなんか入れて…」

 ふくれながらポケットに手を入れると、クロッキー帳の切れ端の中に、お金が入っているのがわかった。

「オレの真上の部屋で、あの大家と揉められると迷惑だからな。モデル料の前払いだ」

 アンリは私の耳元で冷ややかに言い放った。

 アンリの胸ポケットに入っていたお金は温かくなっていた。

隠しているけど、アンリは生活費を自分で稼いでいる。そもそも絵を描くことを家族に反対されているから、お屋敷を出て一人でモンマルトルに住んでいるのだ。そりゃ元々が違うから、私みたいにかつかつの暮らしじゃないけど、伯爵家の実家にいる時のように余裕があるわけじゃないだろう。

 スカートのポケットをぎゅっと握り締めた。

「ありがとアンリ、大好き!」

 アンリは、飛びついた私の額をうっとうしそうに平手でペチンとはたいた。

「はいはい、現金な愛が嬉しいよ」

「あああ!」

 ラウルがシェークスピアのお芝居みたいに叫んでバタリとテーブルに突っ伏した。グラスやお皿が音を立てて転がり落ちる。

 やっぱり酔い潰れちゃったか…じゃない!

「残りの料理、持って帰ろうと思ってたのにー!」

 アンリがクロッキー帳の角で私の頭を鋭角に殴った。

「痛った、何すんのよ?!」

「ちゃっかりしてる場合か。ああ君、王子様に水を頼むよ」

 そうだった。痛さを堪えてラウルの背中をさすってやると、ラウルはゾンビみたいにギリギリギリッと首だけ起こした。

「一度でいいから僕もイレーヌにそんな風にされてみたい。そんな笑顔を向けてもらいたい…」

 こりゃ重症だ。私とアンリは顔を見合わせて笑った。

けど、こんなに端正で優しいラウルが、ゾンビみたいになるまで想う娘って、どんなお嬢様なんだろう。きっと、たくさんのことに恵まれていて、毎日幸せなのに違いない。

口の中に残っていたアブサンが急に苦くなった。


「アンリー!」

 翌日。家賃を払って、アンリの部屋に行くと、アンリはベッドの上で丸くなっていた。長い足が片方だけベッドから突き出ている。

もうすぐ昼になるというのにカーテンは閉まったままで、北向きの部屋はなおのこと薄暗かった。床には空のボトルが転がっている。

 ゆうべ家に帰ってからまた飲んだのだ。

 まったく。

 ボトルを蹴飛ばしてアンリを揺さぶった。何の反応もない。まるで死んでるみたいだ。この分だと革命が勃発しても起きないだろう。

「アンリってば!」

 シーツの端をつかんで思い切り引っ張ってやった。アンリはクレープの中身が出てくるみたいに、ボトッと床に転がった。

「目、覚めた?」

「…あのなあ、いつも言ってるけど、もう少し静かに起こしてくれないか。アルエットと違って、オレは蝶のように繊細なんだ」

 アンリは青ざめたいも虫みたいに、もそもそベッドに這い上がった。アンリは凄まじく寝起きが悪い。

「飲み過ぎなんだよ。また入院したいの?」

 アンリは元々身体が弱いのに、酒を飲み過ぎて倒れ、家族によって強制入院させられていた事があった。病院嫌いのアンリを退院させる為に、私たちがどんなに大変だったかなんて全然わかってないのだ。

「何で次の日動けなくなるまで飲むわけ?」

「…金持ちの悩みを忘れたいんだ」

 アンリは枕に突っ伏したまま答えた。服のまま寝ていたせいで、仕立てのいいシャツの背中がくしゃくしゃになっている。

「それ聞き飽きたよ。たまにはバリエーションつけてみたら?」

 出会ったばかりの頃、アンリはこうじゃなかった。最初は他の娘にしているみたいに、私にもすごく優しかった。でもそのうち私には皮肉ばかり言うようになった。洒落た事とバカ騒ぎが好きなのは同じだけど、お酒を飲む量がどんどん増えて、きれいなバレリーナを描かなくなった。

慣れて本性が出ただけかとも思ったけど、気になったからアンリと仲のいい絵描き仲間のエミールに聞いたことがあった。エミールは何か知っているみたいだったけど、教えてくれなかった。全く芸術家ってやつは、何をするにももったいぶるんだから。

「今日はムーラン・ド・ラ・ギャレットに行かなきゃならないでしょ。さっさと起きて」

 今日の午後、ラウルと約束をしているのだ。

 白馬のようなラウルと、真昼間に一人で会うのは恐い。薄暗い月明かりの下ならいいけど、明るい太陽の下では、全てがはっきり照らし出され過ぎるから。

 黄色いリボンをあしらった若草色のドレスの裾を、靴の爪先でなぞった。この服は舞台で使った衣装だ。それを、衣装係りのオーバンが仕立て直して私にくれたのだ。可愛くてお気に入りだけど、さすがに少しくたびれている。

 ラウルの仕立てのいいスーツを思い出した。

 何もかも、あまりにも違う。

「…こんな朝っぱらから?」

「もう昼だよ」

「一人で行って来られるだろ。オレは今日一日忙しいんだ」

「ウソつけヒマ人が。ラウルと会うんだから、一人じゃ嫌だよ」

「わかった」

 アンリは急にむっくりと起き上がった。何だ。やれば出来るんじゃないか。アンリは近くにあった絵の具のチューブをつかんで私を飛び越え、洗面台に走った。

「もう、ケガしても知らないからね!」

 私が怒ると、アンリは洗面台からぽこっと顔を出した。機械工みたいな素早い手つきで歯を磨いている。

「すぐ支度するから待ってろ」

「アンリ…ちょっとそれ、大丈夫?」

「バカ言え、オレはいつでも大丈夫だ。アルエットと一緒にするな」

 アンリは油絵の具で真っ赤になった歯を見せてニヤッと笑った。

 まあ、約束までちょっと時間があるから、酔いも覚めるだろう。口をすすいだアンリの叫び声を聞きながら、部屋のカーテンを開けた。

「アルエット! 舌を切った! 医者を呼んでくれ! いややっぱり呼ぶな!」

 今日はいい天気だ。

 絵の具を落すのに30分もかかって、結局待ち合わせに間に合わなくなってしまった。油絵の具って毒があるとかで、飲み込むとナントカ中毒になって大変らしい。だから大丈夫かって聞いたのに。人をバカにするからだ。

 それにしても、あんな薬臭くて油っぽい物を口に入れても気付かないとは。寝起きが悪いじゃ済まされないものがある。

 ケンカしながらムーラン・ド・ラ・ギャレットに走ると、ラウルは一人で庭のカフェに座ってコーヒーを飲んでいた。広く真っ直ぐな背中は清らかで堂々としていて、木漏れ日が美しい影を描いている。

 テーブルの間を忙しく回っている女給が、時折呆けたようにラウルに見とれていた。ラウルがいるだけで、いつものカフェが、王族が遊びまわるプチトリアノンの庭のように見えた。

「良かった。遅いから、何かあったんじゃないかと心配したよ」

 こんな爽やかな笑顔を向けられたら、赤い絵の具で歯を磨いたせいでというくだらない理由なんてとても言い出せない。

 育ちがいいと人を疑わないのだろうか。いや、アンリは全然人を信用しない。やっぱり人によるってことか。

「昨夜は酔ってしまって、失礼したね」

 ラウルは恥ずかしそうに笑った。そんな姿も絵になる。

「では作戦会議を始めよう」

 アンリが軍隊の参謀のように両手を顎の下で組んでニヤリと笑った

 やっぱり面白がっている。

「アルエット、最初に確認するが、パリ祭当日は仕事があるんじゃないのか?」

 そうだった。稼ぎ時なのでショーがあるし、普段はしないパレードもあるから忙しい。

「でも出番は午後までだから、夜は空くわ」

 毎年、花火を見ることが出来ないので残念に思っていたら、マダム・ポンヌフが今年は夜を空けてくれたのだ。

「よし、それなら昼間はアルエットのショーを観に行って、終わった後に会おう」

「イレーヌを劇場に連れて行くのか?!」

「そうだ。何か問題でも?」

「イレーヌはオペラくらいしか観た事がないんだ。人が騒いでいるような賑やかな場所は苦手だし、バラエティ劇場に行って驚いたり恐がったりしないか、心配だ」

 まあ、そんなお嬢様は仰天するに違いない。舞台に立っている私だって、びっくりするような事がしょっちゅうあるんだから。

「驚いてもらわなきゃ困るんだ」

 アンリは人差し指を振って片目を閉じた。

「作戦は以上だ」

 私たちの3人の間を1匹の蜂がぶわーんと鈍い羽音をたてて、へろへろ通り抜けた。

「…え、それだけ?」

「それだけだ」

「アンリ、せっかく作戦を練って来てもらって悪いけど、とても不安だ」

 いや、今思いついたんだと思う。さっきまで寝てたし。アンリは面倒くさがりなところがあるんだった。

「こういうことはゴチャゴチャ考えれば考えるほど失敗するんだ。後は自然に任せろ」

「自然に任せていて上手く行かないから、頼んでいるんだぞ」

 ラウルは必死でパトロンを説得する劇場の支配人のようになっている。

 でもよく考えてみたら、イレーヌのラウルに対する気持ちを探るだけだ。そんなに細かい作戦なんて必要ないのかもしれない。もちろん、最終的には上手くいくようにしてあげたいけど。

 二人が上手くいくように…。

 イレーヌの気持ちをつかんだら、ラウルはどんな顔をするんだろう。

 天使のようなお嬢様に優しく微笑みかけるラウルを想像したら、知らない町で迷子になったような気分になった。

 そんな場面、できればあんまり間近では見たくないな…。

 何の気なしにそう思った自分に焦った。

 やだな、これじゃ嫉妬してるみたい。

「そうね、自然に任せましょ」

「そんな大雑把な」

「だってラウル、あなた女心を計算して答えが正しかったためしがあるの?」

 それを言ったら私だって人生計算間違いばっかりだけど。

ぐっさり言いあてられたラウルは、折れたバラのようにうなだれた。

「わかった。君達と、自然に任せよう」

「よし。そうと決まったら、ゲームの勘を磨くために競馬に行くとしよう」

 アンリはタバコをくわえながらウインクをした。

 

「次は赤い鞍の白毛の馬にするわ」

「オレはあの栗毛だ」

「ラウルは? まだ一度も当ってないじゃない。次こそ頑張って」

 私達は広場のベンチに座ってふわふわのコットン・キャンディを食べている。これは賭けに負け続けているラウルのおごりだ。私達は、回転木馬が回り終わって止まる位置を賭けているのだ。

「僕は…そうだな、あれにしよう!」

 ラウルは青い鞍をつけた白い木馬を指した。

 ラウルの声に合わせたかのように音楽が鳴り、回転木馬が回り始めた。金色の木馬に乗った小さな女の子が、パパとママに手を振っている。

「ラウル、外れてばっかりなのに楽しそうだね」

 ラウルの空色の瞳には、カラフルな木馬がくるくる映っている。

「子供の頃、ずっと回転木馬に乗ってみたかったんだ」

「へえ。どうして乗らなかったの?」

「さあ…とにかくダメだと言われてね、乗れなかった」

 ラウルは懐かしそうに目を細めた。ラウルの家はきっととてつもなく躾に厳しかったのだろう。全身から常に漂う貴公子そのものといった雰囲気は、そのせいなのかもしれない。

「それなら、今日乗ればいいじゃないか」

 アンリは立ち上がって、木馬に向かって歩き出した。アンリは長い脚を回して木馬に乗った。

「月の女神の下に止まったヤツが負けだぞ」

 腰の曲がった係りのおじいさんが、木馬を動かそうとした。

「ムッシュ、待って! 私たちも乗るわ」

 が、ラウルは戸惑った顔でベンチに座ったまま動こうとしない。まあ、無理もない。

「子供の乗るものだ」

「いいじゃない、やりたいと思ったことは何でもやってみなきゃ損よ」

 ラウルの手を引っ張って立ち上がらせた。たまには決まり事から外れないと面白くない。

「今度負けたら凱旋門の上でラ・マルセイエーズを歌ってもらうわよ。冗談じゃないからね、本気よ」

 ラウルの真珠色の頬が桜貝のように染まった。

「よし、わかった」

 ラウルは私の手を握り、走り出した。

「アルエットはどの馬にする?」

「これにするわ」

 ラウルは軽々と私を抱き上げると、黄色い鞍のついた木馬に横座りさせてくれた。そして自分も斜め前の木馬に乗った。おもちゃの馬に乗るのにも背筋が伸びているところがラウルらしい。本物の馬を走らせる姿はどんなにかっこいいだろう。

「次こそ勝つからな」

 ラウルが真っ直ぐな背中をくねらせてアンリに向かって叫ぶと、回転木馬が回り始めた。

 爽やかな風が頬にあたって心地いい。流れるパリの街を眺めるラウルの横顔は、心から楽しんでいるのがわかった。ふとラウルがちらりと私を見て何か言った。

「なにー?!」

 ラウルは光に透けるような金髪を風に躍らせて大きく振り返った。

「君の言った通りだ。何でもやってみるものだな!」

 胸にしみるような笑顔だった。息をするのを忘れてしまいそうになる。

「でしょー?!」

「大変だ!」

 アンリが突然木馬を飛び降りて、前から走って来た。こんなに慌てているアンリは珍しい。

「何よ、危ないわね」

「クレーム・シャンティーだ!」

「はあ?」

「昨夜、今日の午後は付き合うって約束したんだった。アルエットがいるとオレがいるのもばれる。早く降りろ」

 アンリは私を抱え上げて木馬から降ろした。

「やだ、ちょっと」

「クレーム・シャンティーは反対側にいる。逆向きに走れ」

 アンリに腕を引っ張られて、やむなく逆方向に歩き出した。

「アルエット。それは新しいルールかい?」

 一周回って追いついたラウルが、不思議そうに私達を見た。

「しっ! クレーム・シャンティーに見つかっちゃう」

 運動神経のいいラウルはヒラリと降りた。

「クレーム・シャンティー? 彼女のことか?」

 ラウルの目線の先を見ると、私達に気付いているのかいないのか、全身ババロアみたいなクレーム・シャンティーが、こっちに向かってのしのし歩いてくるのが見えた。

「参った、意外と足が速いな」

「アンリが遅いのよ、手は早いのに」

「それは言えるな」

 そうこうしているうちに、回転木馬がゆっくりと止まった。

「今だ、降りろ」

 アンリに急かされて降りると、クレーム・シャンティーはすぐそこまで来ていた。

「あーら、アルエット。今日は珍しくあんた一人なの?」

 クレーム・シャンティーは明らかにうさんくさそうに私を見ている。後ろの方で、靴の踵がキュッとなる音がした。アンリが反対側に隠れたのだろう。

「いいえ、今日は私と一緒ですよ」

 ラウルが滑るように現れ、私の手を取って並んだ。

 太陽のように堂々としたラウルの笑顔に、クレーム・シャンティーは毒気を抜かれたような顔になった。

「そう、そうでございますですの」

クレーム・シャンティーは使ったことのない気取った言い回しのせいで、声が1オクターブも高くなっている。笑いをかみ殺すのが大変で、必死で嫌な事を思い出して我慢した。

「ねえアルエット、あんた、アンリがどこにいるか知らない?」

「さあ。昨夜もかなり飲んでたから、どっかでまだ寝てるんじゃないの」

「そうだね…寝起き、悪いもんねえ」

クレーム・シャンティーはため息をつくと、大きな胸を揺らしながら帰って行った。

ちょっと罪悪感を感じないでもないけど、とりあえず助かった。クレーム・シャンティーは基本的には頼りになる姉御だけど、怒ると長いしやっかいで困る。

「今の人はアンリのお友達かい?」

「そんなとこ。よく絵のモデルになってるのよ」

「なるほど」

「アンリ、もう大丈夫よ」

 返事がない。どうしたんだろう。

「お連れさんなら、もう帰ったよ」

 係りのおじいさんが教えてくれた。

 私達を置いて逃げるとは。アンリは本当に面倒くさがりだ。大事なことやちょっと複雑な問題に対しては斜に構え、猫のように身をかわす。

 まあ、怒ったクレーム・シャンティーなら誰だって受け流したいかもしれない。

「どーしよ。放っておけばいいか」

 困ってラウルを見上げた。逃げたアンリを探すっていっても、パリは結構広いし大変だ。

「そうだな…」

 ラウルは突然何か思いついたように目を見開いた。

「アルエット、もう一つお願いしてもいいかな」

「え、何を?」

「一緒に来て欲しい所があるんだ」

 ラウルは兄のように優しく微笑んだ。

 連れて来られた所は、ガラス張りの屋根から落ちる光が幻想的な、パサージュ・ジュフロワだった。迷路のような小路に、たくさんのお店が軒を連ねるショッピングモールだ。歩く度に知らなかったお店が見つかるような、不思議な空間だ。

「パサージュに来たかったの?」

 ラウルはシャンパン色の金髪をサラッと揺らせて首を振った。

「今日の記念に、アルエットにプレゼントがしたいと思ったんだ。アルエットは何が嬉しい?」

「私の嬉しい物?!」

 欲しい物を聞かれることなんて滅多にないので、つい我を忘れて喜んでしまった。

しかし欲しいものがあり過ぎて、何か一つこれと選べない。その上、お店を見て歩いていると、そうだ石鹸がなくなるとか、ミルク壺のヒビ割れがもう限界だとか、ただの必要な物が思い浮かんでしまう。

「決められないわ。ラウルが選んでくれたら嬉しいな」

 欲しい物一つ言えないとは情けない。

「アルエットはなかなか可愛いのに、色気がないからパトロンがつかないねえ」

と、マダム・ポンヌフに残念がられる度に反論していたけど、あながち間違いじゃないかもしれない。欲しい物がミルク壺じゃなあ…。

「じゃ、最初に会った時、アルエットに似合うと思ったものにしよう」

 何だろうと首を傾げる私に、ラウルは悪戯をたくらむ子供のように歩き始めた。

 ラウルは小さなアクセサリー店のドアを開けた。こぎれいで品のいい店内には、たくさんの簪や櫛がきちんと並べられている。色鮮やかなガラス、真鍮、まばゆい輝きを放つ金、銀、白金、色とりどりの七宝。どれも夢のように綺麗で、この中からなんてますます選べない。

「これがいい」

 ラウルはガラスケースを一目見ると、繊細な銀細工の小さな櫛を指した。ジャスミンの花をかたどったシノワズリ風のデザインで、花の一つ一つが動く度に揺れる細工になっている。花の真ん中には真珠が施され、葉は翡翠で出来ている。

「きれい…!」

「こちらは中国のものです。皇帝が最愛の寵姫の為に作らせた、一級のお品ですよ」

 ラウルは店主のマダムから櫛を受け取ると、私の髪に挿してくれた。

「とてもお似合いですわ」

 マダムが鏡を見せてくれた。顔を動かすたびに銀の歩揺がきらきら光って、額を華やかに照らしている。

「アルエットには、花の飾りが似合うと思ったんだ」

 ラウルが鏡を覗き込んだ。鏡に映ったラウルの空色の瞳が、鏡の中の私を見ている。

「気に入ってくれたかな?」

「とっても! ラウル、ありがとう」

「良かった!」

 ラウルは光が弾けるように笑った。

 家まで送ってくれるというラウルを断って、モンマルトルまで一人で歩いた。石畳に伸びる影に、櫛が揺らめいているのを見ているだけで、自然と足が躍ってしまう。こんなに楽しい気分で街を歩いたのは、パリに出てきて初めてだった。

 鼻歌を歌いながら部屋に戻ると、アンリが階段の手摺りに頬杖をついて本を読んでいた。不機嫌そうに眉を寄せ、長い脚を持て余すように爪先で軽く床を蹴っている。

「アンリ。どこ行ってたのよ」

「パサージュ・ヴェルドーで本を見てた」

 ドキリとした。ヴェルドーとジュフロワは続いている。アンリは私とラウルが一緒にいる所を見ていたのだろうか。

「何だ、私達ジュフロワにいたのに。アンリは…」

「アルエット」

 いつになく真剣なアンリの声が私を遮った。

「何よ?」

 アンリは獣のような瞳でじっと私を見た。感じたことのない気まずい空気の壁が出来ていく。この緊張感、喉がイガイガする。

「言いたい事があるなら、はっきり言って」

 沈黙に耐えられなくてつい口調がきつくなった。アンリは怒ったような顔で口を開いたが、それでもなかなか声にしなかった。

「アンリらしくないじゃない」

 アンリはハッとしたように顔を背け、言葉を飲み込んだ。うつむいたアンリの顔は暗い陰に包まれ、心の中も隠れてしまった。

「いや…。今朝はアルエットのお蔭で寝不足だからな、明日は起こさないでくれよ」

 何だそれ。

 アンリはいつものように不敵な笑みを浮かべて本を閉じた。すれ違いざまに、ラウルがくれた銀の歩揺を、繊細そうな指で弾いた。

「アルエットにはリラの方が似合うな」

 狼のような琥珀色の瞳が私の目を射抜いた。

 アンリの部屋のドアが閉まる音が聞こえると、大きなため息をついてしまった。

 何だかわからないけど、すごく疲れた…。

 やっぱり、アンリは私とラウルがいる所を見ていたのだ。

でも、だからって別に、責められるような事はしていないのに、この後ろめたさは何なんだろう。

 夜、眠る前にラウルがくれた櫛を月明かりに照らしてみた。銀の歩揺が煌めいて、古ぼけた壁に星のような輝きを映しだす。

 光が弾けるようなラウルの笑顔を思い出すと、煩わしい事も、いつもどこかにこびりついている寂しさも、泡のように消えた。

 ラウルを好きにならない娘がいるなんて信じられない。

 そんな石みたいな娘の心を知ったからって、どうにもなるもんでもないと思うけどな。

 櫛を眺めているうちに、いつの間にか寝てしまった。

 ラウルの事ばかり考えて眠ったのに、アンリが夢に出て来た。

 変なの。


 翌朝、仕事に行こうと部屋のドアを開けると、向かい側の壁にアンリがぐったりとうずくまっていた。

「…ウソでしょ」

 心臓が破裂しそうな程強く打ち始めた。幕が引き剥がされるように嫌な記憶が蘇る。

「アンリ、どうしたの? 起きて。しっかりしてよ!」

 アンリの肩をこれでもかと揺さぶった。

 アンリはぐったりしたまま、ぴくりとも動かない。

 このまま起きなかったらどうしよう。最後に見たのが昨日の不機嫌なアンリじゃ嫌だ。アンリが入院した時の事が、洪水のように溢れた。頭の中が真っ白になって、気付いたら力任せにアンリの頬を引っ叩いていた。

「ん…」

 アンリは茶色い睫毛を震わせ、まぶたを重そうに開けた。

「…起こすなって言ったろ」

「え? 大丈夫?!」

「…せっかくいい気分で眠っていたのに。台無しだ」

 アンリはぐしゃっと髪をかいてあくびをした。

 まさか。

「こんな所で寝るなー!!」

 アンリの耳をこれでもかと引っ張って、声の限りに叫んでやった。

 あーっイライラする!

「痛って…二日酔いに響くだろ…。アルエット、廊下で発声練習はまずいぞ」

 酔っ払って廊下で寝るなんてヒド過ぎる。死んでるのかと思ったじゃないか。心配して大損だ。一週間は絶対に口きいてやらない。

「…どこに行くんだ」

「稽古!」

「そんなに着飾ってか?」

 アンリはいぶかしげに私をジロジロ見た。

「別にいつもと同じだよ。時間だから行くね。さっさと自分の部屋に戻りなさいよ」

 立ち上がろうとすると、アンリが私の腕をつかんで強く引っ張った。当然私はアンリの上に倒れ込んでしまった。

 ああもう邪魔くさい! 稽古だって遅刻したら罰金なのだ。

「ちょっとアンリ、寝ぼけるのもいい加減にして」

「いい加減にするのはアルエットの方だ。オレを起こすなという約束を破るとは、許し難い蛮行だ」

「はあ?!」

「罰としてこれは没収する」

 アンリは、手練れたスリのように、私の髪からラウルがくれた櫛を引き抜き、胸ポケットに素早くしまい込んだ。

「やだ、返してよ」

「嫌なこった」

 アンリはニヤリと笑った。

 こいつ。朝からこんなに心配させただけでも許せないのに、その上熱が出そうなほどイライラさせるとは。

 力ずくで取り返そうとすると、アンリは猫のようにするりと身をかわして立ち上がった。体力なら絶対負けないけど、背の高さ分、手足の長さで敵わなかった。

「もうっ、ばかアンリ!」

「バカで結構。モデルの約束は忘れるなよ」

 さっきまで酔い潰れて寝ていたとは思えない、軽やかな足取りで階段を降りて行った。

 何これ。

 朝っぱらからこんなに疲労困憊して、追い剥ぎまでされなきゃいけない理由を、誰か教えて欲しい。

 アンリがうずくまっていた所には、酒瓶ではなく本が落ちていた。

おや。

 どうやら酔っていた訳じゃないらしい。

 昨日、私の髪に挿した櫛を見た時の、不機嫌なアンリの顔を思い出した。

 …まさかあの櫛が欲しかったとか?

 ほんと謎過ぎる。


 ラウルが、おいしいショコラと芳しいオールドローズを大きなカゴいっぱい、劇場に送ってくれた。差出人のカードを見た仲間の娘達は大騒ぎだった。

「ラウル・ド・カモンドだって! 誰?」

「あたし知ってる。大金持ちで男前の紳士だよ」

「リーザ、あんた台詞はちっとも入らないのに、そんな事はよく覚えてるね」

 マダム・ポンヌフが呆れると、皆が一斉に笑った。

「それにしても何であんたばっかりいい事があるわけ?」

「本当よ。ショコラだけじゃなくて、そっちも少しはよこしなさいよ」

「ラウルはアンリの友達だよ。今度、婚約者を劇場に連れて来たいって言ってたから」

 劇場の皆は基本的には仲がいいけど、ちょっとした誤解や噂がトラブルになる事もある。ラウルはパトロンでも恋人でもない事をはっきりさせておかないといけない。

「じゃ、この男にとってあんたは何なのよ」

 ショコラに手を伸ばしながら、リーザが鼻を鳴らした。

「それは…私も聞きたい」

「あんた、バカじゃないの」

 そんな事、言われないでもわかってる。


 それから二、三日して、ラウルがカサブランカとクグロフを持って劇場にやって来た。

 マダム・ポンヌフに案内されて楽屋に来たラウルは、私を見ると嬉しそうに微笑んだ。

「イレーヌを連れて来る前に、一人でショーを観てみたかったんだ。アルエットにも会いたかったし」

「なーんだ。私は下見のついでなの?」

 タコのように思いっきりむくれて見せると、ラウルは吹き出した。

「アルエットといると、笑ってばかりで顎が痛くなって困る」

「何それ。いいの悪いのどっち?」

「いいに決まってるじゃないか」

 ラウルが私の鼻を指で弾いた。

「アンリは劇場には来ないのかい?」

「ポスターを頼まれている時はよく来るけど、普段はあまり来ないかな。アンリが来ると劇場の娘達が集まって来て大変なんだよ。ほんと、得な性格よね」

「本当に」

 ラウルは小さくため息をついた。ラウルの真珠色の肌は心なしか青ざめていて、元気がないように見えた。

「何かあったの?」

 ラウルはびっくりしたように私を見た。

「いいや、別に…」

 ラウルは長い睫毛を伏せた。

 全然「別に」って感じじゃない。ラウルはわかりやすいな。

「ウソばっかり」

 ラウルは困ったように笑った。

「イレーヌのこと?」

 ラウルは黙ったまま何も答えなかった。

「当りね」

「この所、ますます悪くてね。昨日、パリ祭で会う約束をしに行ったんだけど、あまり口もきいてくれなかった」

「そう…何でだろう」

 ラウルは黙って首を振った。シャンパンのような金髪が頬にさらりとこぼれ、寂しそうな影を作った。

「でも、アルエットの顔を見たら、元気が出たよ。ありがとう」

「本当? 良かった。でも当然か。私はラウルの希望だもんね」

 私が胸を張ると、ラウルは笑って頷いた。

「ショーを観たら、きっと気分が晴れるわよ。これでも結構流行ってるんだから。待ってて、マダム・ポンヌフに一番いい席を空けてもらうように頼んでくる」

 勢いよく楽屋のドアを開けると、ダンサーの娘達が3、4人なだれ込んできた。

「ちょっと、皆こんな所で何やってんの」

「盗み聞き」

 一番前にいたリーザがニッコリ笑った。

 しまった。浮かれてつい忘れてた。

 急いで皆を追い立てると、背中でドアを閉めて廊下に出た。

 黙ったまま、ずっとニヤニヤ笑っているリーザを睨む。

「中に入らないでよ」

「どーしよっかな」

 リーザはとぼけた顔で舌を出した。

「もう、マダム・ポンヌフに罰金してもらうからね!」

 本気で怒って見せると、リーザは「こわぁ~い」と悲鳴を上げて走って行った。

まったくもう。

 幕が開くと、ありがたい事に今日も大入り満員だった。

 客席にラウルがいると思うだけで、いつもの劇場が虹の宮殿のように思える。

 ボックス席から私を見つけたラウルが、子供みたいに大きく手を振った。さすがに舞台の上から手を振りかえす事は出来ないので、ウインクを返した。

 楽しそうに舞台を観ているラウルの心から、片時もイレーヌの事が離れなくても構わない。

 こうやって、ラウルの笑顔が見られれば嬉しいし、満足だ。

 本当はイレーヌがどんな娘なのか気になって仕方がなかった。でも、想像しようとすると、魔法がかけられているかのように頭の中がぐちゃぐちゃになって出来なかった。そもそもラウルを嫌うような変わった娘なんて、想像つくはずがない。それこそこっちによこして欲しいくらいだ。

 ま、パリ祭になれば嫌でも会える。本音は全然会いたくないけど。


 が、願いも空しく時は刻々と過ぎ、あっという間に楽しいパリ祭当日になった。

 パリ祭の日は忙しい。朝早くから劇場に入って衣装を着け、午前中に大通りでパレードを終える。午後は劇場で公演だ。

 劇場に戻って、幕の内側から何度も客席を確かめたけど、三人が来た様子はなかった。

「アルエット! 恋人探しは出番が済んでからにしておくれ」

 マダム・ポンヌフにどやされて、一旦探すのはあきらめ、気合を入れて舞台に立った。

 私のメインの演目は、名前もそのまま「ヒバリの手遊び」だ。

 密かにお互いを想い合う男女の上で、ヒバリの精に扮した私が木の枝に座って歌を歌う。二人は歌の歌詞に操られるように、周りを巻き込み大騒ぎをしながら、最後はめでたく結ばれるという内容だ。

 歌に合わせて大暴れするダンサー達の踊りに腹を抱えて笑い、最後のシーンではうっとりと舞台に魅入ってもらわないといけない。

 セットの木の枝に腰かけて、深呼吸をした。

 幕が上がり、明かりが入る。

 一番好きな瞬間だ。緊張を楽しさに作り替える。

 この仕事は好きだ。

 誰かの前で歌う時だけ、私は何者でもなくなるから。ギリギリの暮らしも、妾の子供とバカにされた自分も関係ない。ショーを観ている人達の為だけの存在。

 相手が誰であっても平等に、その人の為にただ歌うだけの私でいられるのだ。

 その為の苦労も犠牲も多いけど、プラス・マイナス、ちょっとプラスで十分だ。

 幕が下りたら急いで楽屋に戻って、今度は、中庭で招待客への挨拶と、紳士のダンスの相手をする為の準備だ。

 舞台の上からボックス席をさらっと探したけど、よくわからなかった。今日は特に人が多かったから、見逃したのかもしれいない。

 それとも、イレーヌに会いたくないという、私の強烈な願いが天に通じてしまったんだろうか。それならギャラが上がるとか、他の願いを叶えてもらいたかったのに。失敗したかな…。

 自分勝手な願いを唱えながら次の衣装に着替えると、アンリが現れた。

「今来たの? あの二人は?」

「いや、それが連れて来るには連れて来たんだが…」

 アンリの歯切れが悪い時は、絶対にとんでもない失敗をしている。

「どうしたの? 怒らないから早く言っ…」

「こちらが楽屋ですの?!」

 アンリの脇から、ラファエロの描いた天使のように可愛い娘が現れた。

夕陽のような赤毛を、ロイヤルブルーの絹のリボンで可憐に結い上げ、ウエストに白いバラをあしらった、青いストライプのドレスを身に纏っている。粉砂糖のようにまっ白い肌に、よく動く大きな瞳は、太陽に輝くマルセイユの海を想わせた。

 イレーヌだ!

 ハンマーで力いっぱい後頭部を殴られたような気がした。だってまさかここまで可愛いとは思わなかった。花の妖精とか天使とは、こんな姿に違いないと断言したくなる。

 これじゃ、ラウルが酔ってゾンビになるのも無理はない。

 イレーヌは、アンリの腕に恋人のように寄り添って、珍しそうに楽屋を見まわしている。

「アンリ、これご覧になって! モーツァルトのカツラですわ」

「アルエット、ちょっと想定外の手違いが」

 青ざめているアンリを押しのけてイレーヌが私の前に躍り出た。

「あなたがアルエットね! 舞台を拝見しましたわ。こういう劇場は初めてだけれど、こんなに 面白いと思いませんでしたわ。近くで見ても、本当に綺麗な方」

 イレーヌは、柔らかくふくらんだ蕾が開くように微笑み、私の手を握りしめた。

 その仕草の愛らしいことといったら。もう、女としても生物としても、とても敵わない。

 アホみたいに見とれていると、イレーヌの瞳が一瞬鋭く光った。

 おや? この目つき、よく知っている気がする。いつどこで見たっけ…。

 私の顔色が微妙に変わった事に気付いたのか、イレーヌは羽のような睫毛を動かして瞳を隠した。

「紳士なら、どなたも放っておかないでしょうね。そう思いません?」

 アンリの腕に、百合の花のような手を添えて見上げる姿は、完全無欠の可憐さだ。

「どうかな。理想の女というものは、男の数だけあるものだからな」

 アンリは眉を片方上げて肩をすくめた。

 アンリの場合は、女の数だけ理想が増えるんだな…納得。

「そうかしら。私には、紳士の好き嫌いは、いつも一所に偏るように思えますけれど」

 イレーヌは白鳥のような首を傾げた。気ままそうに開いた口元が、清楚な中にほのかな色気をにじませる。

 この娘、本当に16歳のお嬢様?

 売れっ子の女優だって、こんな表情はそうそう作れない。何か、舞台に立つ者としても負けそうな…。

「あら、あのドレス、インドのお姫様のようですわ!」

 イレーヌはアンリの手を引っ張って楽屋の中を探検し始めた。

「ねえ、アンリ。あなたはこのドレスと、今着ているドレスと、どちらの私がお好き?」

 イレーヌはインドのサリーを体に当てて、誘うようにアンリに尋ねた。

「難しい問題だ。どちらかと言えば何も…」

 着ていないイレーヌが好きだ。と、答えようとしているであろうアンリの足を靴の踵で思いきり踏んで阻止した。

 それにしても気になるのは、イレーヌのアンリのお気に入りっぷりだ。確かにアンリは女に好かれるけど、そればかりとは思えない、この蜂蜜のように甘い雰囲気。

 ラウルはどうしたんだろう。

 と、入り口に目をやって、悲鳴を上げそうになった。

 そこには、亡霊のようなラウルが立っていた。吸血鬼に、血を吸いつくされのかと思う程生気がなく、光の貴公子の見る影もない。

「一体どうしたのよ?」

 ラウルに駆け寄ると、衣装の帽子を被って遊んでいたイレーヌが振り返った。

「私、アンリと婚約する事にしましたの!」

 何故そうなった。


 今日は、ダンスホールを兼ねた劇場の中庭を、トリコロールで飾り付けている。ダンサーの娘達は、それぞれ赤、白、青のドレスを身に纏って人々の間を練り歩き、紳士相手にダンスをしている。中庭は楽しそうな笑い声や音楽が溢れていた。

 私は、皆とお揃いの赤いドレスを着てアホみたいに突っ立ったまま、アンリとラウルの小競り合いを聞いている。

「違う! 別にオレは、いつものように、案内をしていただけで」

「いつものように? そうか、僕はその方法を教われば良かったんだな…」

 ラウルは遠い故郷の空を見つめる旅人のように、天を仰いだ。

 イレーヌは、鼻の下を伸ばし切った劇場の支配人と、ピエロ達に中庭を案内してもらっている。花びらを撒き散らして歩いているようなイレーヌは、どこにいても目立つ。中庭を飾っている小道具の説明を聞いたり、ピエロの手品を見たり、楽しそうだ。

「慣れない場所で、ラウルの頼もしさに気付けばいいだろうと思ったんだ。それなのに、ラウルの説明と実際のイレーヌのタイプが全然違うじゃないか」

 そういう意図があったのか。意外とちゃんと考えていたんだな。

 けれど、ラウルの頼もしさより、イレーヌにとってとても目新しい、遊び好きのアンリに興味がいってしまったという訳か。

 今のラウルは、予想外の頼りなさを発見させるようなものだ。

「僕だって、こんなに楽しそうで明るいイレーヌは初めてだよ」

 ラウルは芝生にめり込みそうだ。

「ああわかったから、背筋伸ばして! 落ち込んでる場合じゃないでしょ」

「アンリ!」

 水色の透ける羽を背中に付けたイレーヌは、花の妖精そのものだ。

「劇場の屋上に上がれるんですって! 行ってみましょうよ」

「だめ、あそこは危ないわ」

 人気の割にはあちこち手入れが雑な劇場だ。手摺りや床が傷んでいるかもしれない。そんな所をウロウロして、ケガでもされたら一大事だ。

「あら、アンリと一緒ですもの、大丈夫ですわ」

いや、だから心配なのだ。

「ねえ、いいでしょう?」

 イレーヌは甘えるようにアンリを覗き込んだ。こんなに愛くるしくお願いされたら、ロレーヌに攻めてきたドイツ軍だって、喜んで頼みをきいてくれるだろう。

 もはやラウルは、そこだけ日食が起こっているかのように暗くなってしまっている。

 とりあえず、今この二人とラウルを一緒にしておくのはダメージが大きいので、支配人を呼んで、三人で屋上に行ってもらった。

 エウリュディケを失ったオルフェウスのように落ち込んでいるラウルを、ピンク色のサルスベリの下のガーデンベンチに座らせた。

「大丈夫?」

 背中をさすってやると、ラウルは低い声で「ありがとう」とつぶやいた。

 ダンサーやコーラス仲間が、私とラウルに気付いてからかいに来た。が、ラウルの憔悴ぶりを見ると、皆青ざめ、気付かなかった振りをして行ってしまった。

 待って。別に不幸の神とかがうつる訳じゃないから安心して、落ち込んでるだけなんだってば! と、大声で釈明したかったけど、もちろん無理だった。

 ああ、今頃陰で皆に何と言われてる事か。

「アルエット、ムッシュに」

 マダム・ポンヌフがビール入りのレモネードを2つ持って来てくれた。

「マダム、ありがとう」

「あんたのには酒は入ってないからね」

 マダム・ポンヌフはウインクすると、黒いレースの扇をあおぎながら行ってしまった。

 本当に細かいんだから。マダムが生きている間は劇場は絶対安泰に違いない。

「はい、これ飲んで」

 ラウルは力なく頷いてレモネードを飲んだ。アブサンをストレートで飲んでも平気な人が、これで酔えるかわからないけど。

 ラウルは大きくため息をついた。

「最後に、イレーヌのあんなに楽しそうな顔が見られただけ、良かったのかもしれない」

「そんな、大げさな」

「大げさで済んでくれればいいんだけど」

 私達の頭の上から、イレーヌの楽しそうな笑い声が、甘露のように降って来た。

「いや、まあでも、アンリだってその辺ちゃんとわかってるし、これ以上は」

「イレーヌ、動いたらダメじゃないか。逃げたモデルはこうしてくれる!」

 続いてアンリの犬の鳴き真似が聞こえてきた。二人は屋上で追いかけっこしているようだった。

 アンリ…頼むよ。ついうっかり楽しく遊んでいる場合じゃないんだよ。頭痛がしてきた。

 今なら、不出来な息子を持った母親の気持ちがわかる。この計画、やっぱりアンリを混ぜるんじゃなかった。

「考えたら、僕はイレーヌの事など、何一つ、好きな色さえわかっていなかったんだな。それでイレーヌの気持ちを知りたいなんて、虫のいい話だ」

「そんなバカな。もし相手の事を知りつくしていたら、何も始められないじゃないの」

 いい具合に恋焦がれる為には、知らない方がいい事がたくさんあると思う。真実っていうのは、いつも無神経で容赦ないもん。

「でも、相手の愛を得たいと思ったら、そういう訳にはいかないだろう」

 ラウルはベンチに落ちたサルスベリの花を長い指で弄んだ。

「街を歩いていると、時々、人を羨ましいと思ってしまうことがあるんだ」

「ラウルが?」

「とても仲良さそうにしている恋人同士がいるだろう?」

 そういう事か。うつむいたラウルの横顔が私の胸をちくりと刺した。

「どんなに地位や財産があっても、手に入らないものは手に入らない。僕は生活に困ることはないけれど、彼らと僕と、本当に幸せなのはどちらだろうと思うんだ」

 それじゃ、家柄もお金もなくて、自分の想いを口にする事さえできない人間は、人生いいとこなしじゃないか。

 私の方がよっぽど地面にめり込みたいわ。

 現実っていうものは、いつでもたやすく乙女の心を打ち砕いてくれる。

 レモネードをぐいっと飲んだ。甘酸っぱい液体で胸にこみ上げる気持ちを押し戻した。

「贅沢な悩み! アンリと同じだわ」

「アンリと?」

「泥酔するとね、金持ちの悩みを忘れたいんだーって暴れてるわ。ここじゃ、ロミオとジュリエットだって、貧乏のせいで憎しみ合ってあっという間に別れるんだから。お坊ちゃまが生活苦を舐めると恐いわよ」

 ラウルの胸を人差し指でトントン小突いた。

「ロミオとジュリエットが? それは大変だ。覚えておこう」

 今日初めて、ラウルは白い歯を見せて笑った。

 良かった、笑顔が出てきて。

 ふと強い風が吹き、ラウルの指から花びらを吹き上げた。

「今日は風があるね…」

「あ、動かないで」

 ラウルが私を見つめ、長い指を私の目元にそっと伸ばした。

「何?」

 息をするとラウルの指が頬に触れそうだ。ラウルの空色の瞳に私の瞳が映っている。

 顔が勝手にカンカンに熱くなる。真っ赤になっているに違いない。厚化粧していて助かった。

 ラウルは睫毛に絡んだサルスベリの花びらを器用に取ってくれた。

「この花は南では見るけど、パリじゃ珍しいね。確か、インドのリラと言う名前だったかな」

「ジャポンでは、猿が滑る木って言うんだって。幹がツルツルしているでしょ?」

「へえ、なるほど。面白いね」

「前にアンリが教えてくれたの」

「アルエットとアンリは、本当に仲がいいんだね」

 仲がいいというか、腐れ縁というか…。

「やっぱり、アンリは幸せ者だな」

「どうして?」

「こんな笑顔を向けてくれる人が、いつも横にいるからさ」

 ラウルは桜貝のような唇を噛み、空色の瞳を曇らせた。ラウルの痛々しい姿は胸を締め付ける。

「ラウル…」

 青ざめた頬に手を伸ばすと、ラウルは長い睫毛を伏せた。私の手に、小鹿のように重みを預ける。

 手の平に感じるラウルの温かさを、このままずっと感じていられたらいいのに…。

 一瞬演奏が止んで、パキッと小枝を踏み折る乾いた音が響いた。

「イレーヌ…!」

 眉間を少し寄せ、苺のような唇を噛んだイレーヌが立っていた。

 最悪だ。

 すっごく怒っている。

 ここだけ別世界のように空気がビシッと張りつめ、夏なのに凍えそうに寒くなった。

 これは揉める。

 ラウル、私ノルマンディーに帰りたくなっちゃったな…。

「ラウル、私もう帰りますわ」

「あ、ああ…。わかった」

 デスマスクのように青ざめたラウルが立ち上がると、イレーヌは避けるように身を引き、つっと顔を背けて拒んだ。

「アンリに送って頂くから結構ですわ。あなたは、その踊り子さんと好きなだけ楽しんでらして」

 イレーヌは私を蔑むように一瞥した。

 イレーヌの冷たい声が私の喉に刺さり、一瞬声を奪った。

 こんな目つきにも言葉にも慣れっこだ。

 けど、ラウルの前では自分の立ち場を思い知らされたくなかった。この二人とは何もかも違う、私。

「…わかった」

 ラウルの硬い声が低く響いた。

 ラウルは知的な口を真一文字に結び、眉間を険しく引き寄せた。

「君の好きにするといい」

 えっ?!

 つい数秒前まで、まるっきりイレーヌの奴隷だったのに。この毅然と撥ねつけるような態度は何だろう? 今日の建国記念日に乗っかって、独立運動でも始める気だろうか。

 こんなに優しいラウルが怒るなんて。

 ついに限界に達したのかもしれない。愛されてるからって、何をしても許されるなんて事はないもの。

 ラウルに突き放されたイレーヌは、息を飲んで後ずさった。

 信じ難いものを前にしたように、大きな目をさらに見開くと、くるっと後ろを向き、背中につけた羽を震わせながら音もなく走り去った。

 どうしよう。

「ちょっとラウル」

「いや、いいんだ」

 イレーヌを見送るラウルの横顔は凛々しく、太陽神のように気高かった。

「僕はバカだった。たった16歳の女の子にこんなに振り回されて」

 その上一人で勝手に我に返ったりして。

「今、気が付いたんだ」

 ラウルは私の手を取って隣に座った。

 真っ直ぐなラウルの心が全部私に注がれ、息がつまりそうになった。

 ラウルは緊張した面持ちで、ゆっくりと口を開いた。

「僕が本当に好きなのは、アルエット。君だ」

 え…?

「一緒にいて、こんなに楽しいと思った人は初めてだ。アルエットを傷付けることは、絶対に許せない」

 ラウルは、すぐに隠れてしまう野うさぎを囲むように、私の頬を両手で挟んだ。

「アルエット、君は僕が嫌いかい?」

ラウルの指は熱病を患っているかのようだった。空色の瞳は、逃げる事を許さない熱を放ち、私の喉を乾かせた。

「それは…」

 大好きだ。ガンゲットで、一人ぼっちのラウルの背中を見た時から、放っておけないと思った。

 光が弾けるようなラウルの笑顔の為なら、何でもしてあげたい。

 頬を挟むラウルの手を握り返して、私も想いを伝えたい。

 でも。

 気持ちを伝えて、それからどうする?

 私は決してイレーヌにはなれない。

 どうあがいても、パサージュでラウルが私にくれた、銀の櫛の持ち主と同じ存在だ。

 バラの花軸のように細く頼りないイレーヌの後ろ姿と、イレーヌを想ってテーブルに突っ伏していたラウルの姿が、まぶたの裏で重なった。

 身重の母さんを吹雪の中へ叩き出した、想像の中でしか見たことがない、嫉妬に狂った女の鋭い瞳も。

 ラウルの本当の笑顔を奪う。

 それだけはしたくない。

「大好きに決まってるじゃない」

 ラウルの瞳が太陽に照らし出されたように光り輝き、私を潤した。

「ラウルの為なら何だってできるし、恐くない。私には、別に失くすものなんてないもの」

 ラウルの温かい手をつかんで、私の頬から外した。

「イレーヌとは違って」

「今、イレーヌは関係ない。アルエット、君の気持ちを聞いているんだ」

「関係ある」

 私は立ち上がってラウルの肩に手をおいた。

「私は女だから、イレーヌの気持ちもわかるの」

「そ…う、だ…ぞ…」

 行き倒れた兵士のような声が飛び込んできた。アンリが真っ青な顔で両手を膝につき、苦しそうに息をしていた。

「アンリ! 大丈夫…って、今までどこにいたのよ?」

「オ、レを」

「え?」

「走らせるな…」

「走って来て今追いついたの?!」

 聞けば、イレーヌは中庭を見ていて、突然屋上から走って出て行ったんだそうだ。アンリは慌てて追いかけたけど、あっという間に見失い、劇場の中を探し回ってやっとここに来たらしい。

しかし、イレーヌにまで瞬く間に距離を離されるとは。アンリの体力のなさは情けないのを通り越して、胸が痛くなってくる。

「その、前に…追い…かけっこ。して…たから」

「そんなに息切らして何言ってんのよ。じゃ、今イレーヌは一人きりって事じゃないの」

「だ、から…」

「ああもういい、時間かかるから。ラウル、アンリをお願いね。私はイレーヌの所に行ってくる」

 ラウルはうろたえた様子で頷いた。

「だけど、イレーヌがどこにいるか…」

「わかるわよ、女だもの」

 二人を置いて、真っ直ぐ自分の楽屋に向かった。

 イレーヌが一人で帰れる訳がない。この劇場で、屋上でも中庭でもなければ、あそこに決まっている。

 音を立てないようにそっと楽屋のドアを開けると、絹張りの衝立の陰から、すすり泣く声が聞こえた。

 やっぱり。

 中に入って静かにドアを閉め、化粧台の前の椅子に座った。

「泣くくらいなら、何であんな事するのよ」

 すすり泣きがピタリと止んだ。

「…どなた?」

「ここは私の楽屋よ。決まってるでしょ」

 衣擦れの音がして、衝立から、真っ赤な目をしたイレーヌが出てきた。

 本当にプライドが高いんだな。泣き顔を見られるのも嫌だけど、隠れているのはもっと許せないのだ。

「泣いてなんていませんわ」

 吹き出してしまった。

「お嬢様はウソが下手ね」

 イレーヌはつんと横を向いた。

「その椅子、座って。一応、お姫様役の小道具よ」

 イレーヌは横を向いたまま素直に座った。まるで蝶が花にとまるように綺麗だった。

「本当にアンリを好きになったの?」

「もちろん。アンリも私をとても気に入って下さっているわ。私、あの方が大好きですの」

「私にはそうは見えないけど」

「それは、アンリがあなたの恋人だからでしょう? 現実を認めたくないだけですわ」

 イレーヌは勝ち誇ったように鼻で笑った。

「アンリは私の恋人じゃない」

「ウソですわ。だってアンリは…」

「本当にアンリがそう言った?」

 イレーヌは自信を失くして視線をさ迷わせ、力なくうつむいた。

「どうしてラウルに冷たくするの。ラウルが嫌い?」

「…嫌いな訳、ありませんわ」

 やっぱりね…って、ちょっと待てよ。

「あんなに素敵な人が他にいると思って? 好きにならない筈ないでしょう」

 そうなんだろうなと思ったからここに来たけど、よく考えたらこれ、そもそも何も問題がない話じゃないか。

 ラウルはイレーヌを愛していて、イレーヌもラウルを想っている。それで済む話じゃない?

真夏に凍えるような思いまでして、アンリは行き倒れの兵士のようになってまで、一体私達は、何の為にこんな事しているんだろう。

「じゃ、何が気に入らないわけ?」

「何が、ですって?」

 イレーヌは私を睨むように見上げた。見事なレースのハンカチを指先が白くなるほど握りしめる。

「ラウルは、私のことを愛していないのです」

「ええ?! どこからそんな一方的な…いやずれているというか、そんな事は、ないでもないと、思うんだけど」

 一瞬、私が伝えてはいけないという思いが頭の中をよぎったら、変な感じに口ごもってしまった。どーしよ。今私、打ち消したのか認めたのか、どっちだろう?

「それ、憐れんでいるつもりかしら?」

「違うわ! そうじゃなくて、えーっと」

 これ以上は私には説明できない、言えば言う程しくじりそうで。

「…愛しているって、一度も言われた事がないわ」

 虚空を見据えて、海から零れる真珠のような涙を溜めた。

「ラウルはいつでも優しくて、私の為に気を使って下さって。でもそれだけ。家の為に、私の機嫌を取っているだけなのですわ」

 イレーヌは苺のような唇を強く噛みしめた。

 愛されていないと思い込んでいたから、イレーヌはラウルに心を開かなかったのか…。というより、開けなかったのか。

「私、見ましたのよ」

 イレーヌはかすれた声を喉に詰まらせた。

「え?」

「あなた達が、広場で回転木馬に乗っているところを」

 ああ、この広いパリで、よりによってわざわざ同じ時同じ場所に出くわさなくても。

「私、ラウルのあんな笑顔を見たことがないわ。あなたといる時の、あの楽しそうな笑い声…」

 イレーヌは、粉砂糖のような頬を溶かすように涙をこぼした。

「イレーヌ…」

 振り返ると、入り口にラウルが立っていた。

「…ラウル。いつからそこにいらしたの?」

「イレーヌ。聞いて欲しい、僕は」

 ラウルが問われるままに言葉を続けそうになったので、慌てて椅子を蹴って立ち上がった。

「そうだ! 私これからまだパレードに行かなくちゃいけないんだった。悪いけどそのまま帰るから、楽屋の鍵かけておいてね。鍵は支配人か、マダム・ポンヌフに渡してくれたらいいから」

 我ながらすっごく唐突で不自然だ。雰囲気ぶち壊しだ。

 おまけに、お客に向かって楽屋の鍵をかけておけだなんて、支配人やマダム・ポンヌフに間違いなく怒鳴られる。

 でも、これから交わされる二人の会話を聞くのは、やっぱり嫌だった。多少の事くらい、許されるはずだ。

 入り口に立っているラウルに鍵を握らせた。

「じゃあね、ラウル」

 がんばって、と、唇だけで伝えた。

「…アルエット」

 ラウルは刻み込むように名前を呼ぶと、温かい手で私の手を固く包んだ。

「ありがとう」

 ラウルの目が、朝焼けのようにうっすら赤く染まった。

「これは高くついたわよ。花とお菓子じゃ足りないから」

 ラウルはいつもの笑顔で頷いた。

 楽屋を出て、背中でドアを半分閉めた。

 ラウルの靴音が聞こえ、イレーヌの前に跪くのがわかった。

 もう、大丈夫。

 今日の仕事は全部終わった。

 ドアをぴったり閉め、大きくため息をついた。

「ため息つくと1歳老けるわよ」

 隣の楽屋のドアに寄りかかって、ダンサーのリーザがブランデーを飲んでいた。またこんな所で飲んで。

「あんたって、本当にバカね」

 リーザは私を見て鼻で笑った。

「ありがと」

「だから、アホのいい男が寄ってくんのね」

「ありがと」

「鍵はあたしがもらっといてやるわ。差し入れ、期待してるよ」

 リーザは、手に持っていた小さなブランデーボトルを私に渡すと、自分の楽屋に入っていった。

 リーザがいつも大事に飲んでいるボトルだ。

 もう出番は終わったし、いいか。

 ブランデーを一口飲もうとすると、後ろからボトルを取り上げられた。

「アルエット、お前は劇場にいる間は飲酒禁止のはずだよ」

 やばい見つかった! 罰金取られる! と思ったら、タバコをくわえたアンリが、マダム・ポンヌフの真似をしていただけだった。

「ここ、禁煙なんだけど」

「オレは客だぞ」

「罰として没収するわ」

 アンリはため息をついて、吸っていたタバコを防火バケツに投げ捨てた。

「ポケットの中のもよ」

「仕方ない」

 アンリは胸ポケットから、ラウルがくれた銀の櫛を出して、私の髪にそっと挿した。

持ち歩いてたのか。

 廊下で寝ていたアンリを思い出すと可笑しくなった。こういう所は変に律儀だ。

「さ、花火を見に行くぞ」

 アンリは出口に向かって歩き出した。夜の上演の為に、ダンサーやコーラスの娘達が楽屋に戻り始め、廊下は進むにつれて騒がしくなった。

「この櫛、急に飽きちゃった」

「惚れっぽくて飽きっぽいと、幸せをつかみ損ねるぞ」

「なら、アンリは幸せになれないじゃない」

「オレは惚れっぽくて、飽きないから大丈夫だ」

 それじゃ、いつぶつかり合って爆発するかわからない火薬庫を、ずっと両腕に抱えてるようなもんだ。バカな奴。

「本当にリラの方が似合う?」

「ああ…でも、今は花の時期じゃないからな」

「え、生花のことだったの?」

「アルエットに作り物の花は似合わない」

 アンリは外に出るドアを開けながら、タバコをくわえた。

「まだここ禁煙よ」

 アンリの前に回り込んで、タバコを取り上げた。アンリはふんと鼻を鳴らして、ブランデーボトルを私によこした。

「どうぞ、お客様」

 アンリの口にタバコをくわえさせてやった。

 劇場の外に出ると、どこも人でいっぱいだった。

 夏は日が長い。ようやく太陽が陰り始めたかな、というくらいだった。

 シスターに連れられた孤児院の子供達が、私達の横を転がるように通り過ぎた。どの子も小汚い格好をしているけど、元気いっぱいでとても楽しそう。田舎にいる弟達を思い出した。あの子達がパリの花火を見たら、きっと大喜びするだろうな。

 いつか、父さんや弟達をパリに連れて来てあげたい。いつになるか、さっぱり見通しがつかないけど…。

 ふと、ため息を漏らしてしまった。

「あいつはやめとけって言ったろ」

「別に、そんなんじゃ」

 ない、と言おうとしたけどやめた。どうせアンリには全部わかってる。

「ラウルは昔から女を見る目がないんだ」

「そう? 私がラウルでもイレーヌを好きになると思うわ。わがままで感じ悪いけど、一途でいじましくて、可愛い」

 アンリは黒いコンテをポケットから取り出して、粉々に砕き始めた。人に話しかけておいて作業なんて始めて、本当に自由な奴。

「いや、見る目がない。オレの野鳥の本当の価値を、わかっていないんだからな」

 アンリは琥珀色の瞳に、不敵な笑みを浮かべた。

 アンリはいつもこうだ。アンリと友達の娘は誰でも「オレのマドモアゼル」。確かに、そう言われて嫌な顔をしている女の人は見たことがない。でもその絶対の自信は一体どこから来るのか。

「誰が誰の野鳥よ、ふざけんな」

「ふざけてない。ほら、これを見てみろ」

 差し出されたアンリの手のひらを覗き込むと、真っ黒なコンテの粉がスプーン一さじほど乗っていた。

「何よこれ」

 アンリはニヤリと笑うと、突然私の顔に黒い粉をぐしゃぐしゃっとこすりつけた。

「ちょっと、何すんのよ?! まったくもう、ばかじゃないの?!」

 頬に触ると、手のひらが真っ黒になった。きっと炭鉱で働く鉱夫のような顔になっているだろう。

「こんな顔じゃ、家にも帰れないじゃない…せっかくのパリ祭なのに」

 アンリに怒りながら、涙がにじんできた。

 私、本当にバカで惨め過ぎる。

 ただ、ちょっと憧れてただけだ。それだけなのに。

 アンリは片手で私の頭を荒っぽく抱え込んだ。

「ハイハイ、悪かったよ。家までこうやって隠してってやるから、どんな顔しても問題ないぞ」

 アンリは、もう片方の手で私の涙をそっと拭った。アンリの指は温かく、少し震えていた。

「アルエット、涙が真っ黒だぞ」

「誰のせいよ」

「ラウルのせいだな」

「アンリのせいだよ」

「そうか、アルエットはオレの為に泣いているのか」

「違うわよ」

「違わない」

 アンリは両手で私の頭をぎゅっと抱えた。アンリの心臓の音が私の頬に響く。

 母親に泣きつく子供のようにアンリのシャツで涙をふき、思い切り鼻をかんだ。

「…やってくれるな」

「これじゃ、結局今年も花火を見に行けないわ」

「代わりに見といてやるよ」

「自分だけ見に行ったら、セーヌ川に浮かべてやる」

「安心しろ。オレはどこにも行かねーよ」

 というかこんなシャツじゃオレの方がよっぽど家まで帰れない、とブツブツ言いながら、私の後ろ髪をくしゃっとかいた。

 でも、どうしても花火を見たかったから、モンマルトルの丘まで行ってみた。パリ一番の高台からなら、少しは見えるかもしれない。

 人影はまばらだった。

 冷たい鉄の足場に囲まれた、造りかけのサクレ・クール寺院は、廃墟のようにも見えた。でも、完成したらきっと立派な寺院に変身するんだろう。一体いつになったら出来上がるのかはわかんないけど。

 私とアンリは、石段に座って花火が始まるのを待った。

 艶やかなアンリのブルネットが、爽やかな風になびいている。

「今日は風が気持ちいいな」

「ほんと」

 しばらく無言で、暗くなっていくパリの街並みを見ていた。

 あの家々の一つ一つに知らない誰かが暮らしている。皆、やっぱりこんな風に、毎日泣いたり笑ったりしているんだろうな。

 ほどなくして、遠くの夜空に鮮やかな花火が弾け、雷鳴のような音が風に乗って聞こえた。

「ほら、花火が上がったぞ」

「本当だ! でも、ミニチュア花火だね」

 紺色の夜空に、次々と光の花が咲くように花火が広がっていく。

 花火を見つめるアンリの瞳は、星のように煌めいていた。

「きれいだな」

 少年のようにあどけない、楽しそうな横顔だった。初めて会った時のアンリの笑顔だ。

 少しの間、花火じゃなくて、こっそりアンリを見ていた。

 アンリといると心配ばっかりさせられる。

 急に優しくなったり、皮肉屋に戻ったり、何考えてるのかよくわからないし。

 ただの腐れ縁かもしれないけど。

「ねー、アンリ」

「何だ?」

「ありがと」

 アンリの首に手を回して、頬にキスをした。

「うわバカよせ!」

 一瞬で顔を赤く染めたアンリの叫び声が夜空に響いた。

「オレの顔まで黒くなるだろ!」

「顔より腹の黒さを心配したら?」

 ほんと、意地っ張りだ。

 私もアンリも。

 アンリの熱い手が、私の手をそっと握りしめた。

 いかがでしたでしょうか? もし感想などお聞かせ願えたら嬉しいです。

 アンリのモデルは画家のロートレックです。とっても粋で、作風もエピソードも大好きな作家の一人なんです。

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