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スライド:1の2『ドッペラー』

「そいつは蝶が飛ぶな」とは上司の口癖だ。

 上司は四十路にしては白髪の目立つ髭面で、クマのような体躯が薄手のシャツから窺える男だ。木の幹のような首筋には入れ墨があって、どんな模様なのか知らないけども、それで古傷を隠しているのだという。場数を踏んだ彼はいつも意地の悪そうな笑みを浮かべていて、歴戦の兵士といった見てくれに似合わずこの仕事に心酔している。なにが彼を惹きつけているのか訊いたことはないけど、髭面が苦悩に歪んだのは一度だって見たことがない。

 その日はまた、誰かが不幸な事故で死んだので片づけた。もうひとりが後から湧いた事務仕事を終わらせて戻るのを、車のなかで待っていると上司が話してくれた。これはとても簡単なことだ。でも、簡単だからといってすべての物事をたったひと言で表すことを誰もが避けるようにして、訳の分からない単語と理論を並べ立ててしまう。

 ただことカオスを言葉で表すには、誰によっても説明それ自体がカオスでなければならない。というかそうでないと困る。でなければカオスとは言えないから。もちろん、カオスがどんなことを示していて、なにを主観として語られるのかも含めて。

 ひとえに、蝶が羽ばたく程度で世界はほんとに変わるのかということ。

 あらゆる定数がまったく同じ、七つの世界が足並み揃えて時間の上を歩いているとして、もちろんこれはたとえなのだけど、どれかひとつの世界で誰か一人のあなたが死ぬとする。そしたらふつうは他の世界のあなたとあなたもみんないっしょに死んでしまって、そうして世界は歩幅を合わせるはずなのに、いったいどういう風の吹き回しか他の世界ではあなたが生きてしまっている。飲んで食べて、命を紡ぐ。

 あなたの生きている他の世界に合わせようと必死な、あなたを失った世界がどういった対処法をとるのかはようとして知れない。ただあなたに似た者を創り出してみたり、たとえばあなたは死んでないふうに振る舞うにしたって限界があって、いつかはぼろが出てしまうものだ。そうした小さなミスがどんどん積み重なって、やがてドミノ崩しのように世界はどんどん変容していって、まぁ千年くらい経つ。となるとそこはたぶん、何もかもがほかの世界とは違ってしまっているだろう。

 それはだいたいみんな、大変なことだと共通して認識している。


「まったくですよ」アルトは言う。じっさいそうであるし。


 事故にしてはとても凄惨な現場に入った。精緻で意匠を凝らした像がひとつ、現場には鎮座していた。血と肉とか、そういったものの臭いがまったくなくて、代わりに薬品の鼻を突く臭いが充満していた。現代版「メメント・モリ」とはチーフの言葉であるけど、あれはまったく常軌を逸脱した代物だったことにちがいない。まるで羽根でも伸ばしているつもりなのか、背中を丁寧に開いて骨で固定し、なのに臓器は垂らし放題で。三つの顔がひとつになっているのを見ると自分たちはほんとに必要なのかと、思わずチーフに訊いてみたことがある。

 チーフは三人のうち、もっともベテランで落ち着きがある初老の男だ。目の細い仏のような顔をした彼は若いころからこの仕事を生業としていて、いままで生きたヒトより死んだヒトを見たことのほうが多いという。上司はああ見えて、結婚してるし子どももいる。家族の写真をオフィスの机に置いているところなんかは少し可愛げがあるのだけど、いっぽうチーフは彼と違って結婚はしていない。友好関係も広くない。そしてそのことを憂いはしていないし、これからもしないだろう。どこまでも趣味に生きていて、生粋のガンマニアでもあって、いつでも箱のような銃身のリボルバー拳銃を脇下のホルスターに挿している。

 そのチーフは、なんのことはないと笑って言った。


「俺達が動こうが動かまいが、誰がどう死のうがどっちみち蝶は飛ぶ。ようはどうやって蝶を飛ばしてやるか。そこが問題なんだよ」


 セブンライフ、セブンストック制は観測し得ない秩序と称されるように、様々な仮定と無数に広がる可能性を内包した理論じみたものによって構築されている。あなたがどう解釈して、どんな答えを出すのかはまったくの自由であるし、自由であるのは答えがないからとも言えるけど、あなたが言った答えはすべて真実になり得る。

 実際問題、あなたはどんな風に死んでも死なないし、あなたが死んだらドッペラーは現れるし、あなたがドッペラーをみることはできない。触ることはできない。それはあなたから見たらドッペラーは存在していないからだし、他の誰かから見たらドッペラーは存在しているからだったりする。

 なんとなく、むずがゆい違和感が拭えないのは当たり前。

 ないがあって、あるがない。

 この違いは、いまのヒトが生きるにあたってとても大事なことだ。

 アルトとチーフと上司の三人はそこにドッペラーがいる限り、たとえ火の中水の中、踏み入り分け入って処理していかなければならなくて、暗い冬空の下溺死体を探すのはなかなかに骨が折れる。


「あの俺、ボンベとか使い方わからないんですが」

「そうか。じゃあ今憶えろ」


 感覚がなくなってダメになるのはまず足の小指からで、次に遠く離れた両手の親指なのはどうしてかといつも思うけど、ライトを照らして見渡した。銀の小魚。河底の砂利。藻。光を反射する粒子。ドッペラー。脚に鎖がぐるぐる巻きにされて、落書きされた肌。まったく愉快な気分になれはしないし、むしろ身体といっしょに沈んでいった。同年代の友達が街角のきらびやかなカフェにしゃれこんでいる間、いつもこんなことをしている自分に嫌気がさして、それでも辞めようという気にはならない。

 根拠なんてない。

 バイトにしたって、ドッペラーにしたって。

 みんなそうだ。お金の話を抜きにすれば、妻子持ちの上司も趣味に生きるチーフも学生のアルトもどうしてこんな仕事に従事しているのか、追及されれば答えない。というより答えられない。

 そもそも彼らが取り扱うドッペラーも、どうして自分がいるのか知らないし、世界もドッペラーが現れた理由を知らずにいる。

 当時は、それでも誰もが「ないがある」のだけはまずいと直感した。

 懸命だと思う。いったいどういうわけか七つの命を手に入れて、ヒトがほんとうの不死に熱狂している間に世界の多くが消滅して「  」になった元凶が、ほかでもないドッペラーだったのだから。

 認識の違いで他世界と不和が生じて、それでなんとか正そうといろいろ試行錯誤してみたらクニひとつ消えてしまったなんて考えもある。たしかに失敗なんて誰にだってあるけども、だからといったってもし一夜にして億人規模のヒトが死んでしまったら、とてもお茶目な失敗だなんて慰めてあげられないだろう。

 腐ったり、血反吐をばらまくドッペラーたったひとりが世界に及ぼす影響の度合いは、どういった理由で現れたのか判らない以上、仮になにか思いついたとしてそれを検証する手段がなくて、まったく天井知らずで底が見えない。

 もう、古く昔の話ではあるけども。

「蝶を飛ばそうぜ」


 ヒトは死ぬと蝶になる。

 だからドッペラーは蝶にした。


 アルトは知っている。これは比喩ではなくて、実際に体験した現実。


「これはマッチ。マッチングの略だ。ないものをないものに整合させる役目をもつが、あるものをないものにはできない点でマッチと異なる。こいつじゃ煙草は吹かせんからな。だからマッチと間違えるな、後輩くん」


 上司がマッチを擦って、ドッペラーに投げた。

 少し黒っぽくて白い炎は、とてもこの世のものとは思えない。それが持つ独特な妖艶さで、中年のドッペラーに乗り移る。これは脂も水気も気にせず直ぐに燃え広がって、あっという間に血肉も骨ごと焼き尽くしてしまった。途中嫌な臭いとか、変に折れ曲がって弾けたり変形とかはしなくて、本当に眠ったまま燃え尽きていくのでなんだか不思議な気分に囚われた。

 やがてドッペラーは跡形もなくなると、陽炎のように床を舐めていた炎が無数に分裂して、途端に色を変え二対の羽根をもった真紅の断片となって舞い上がる。

 彼らが一般に蝶番と言われ、一部で知られるのはこの様子に動転したヒトによるものだと思っている。


「そりゃ誰だって命は尊いもんだし、死ぬよか生きたいと願っているがね」


 蝶番はみんながみんな自分の流儀に従って、古今東西いろんな哲学を持ちあわせている。

 そのうちのひとり、踊り狂う深紅の蝶に囲まれながら、上司は馴れたしぐさで煙草を吹かして言った。


「それにしても俺たちは、あまりに死に慣れてしまった」



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