スライド:8の横倒し『死んでしまった時間さん』
意味がわからないのは、その文書を書いているとうの本人が意味をわかっていないからで、あなたのせいではありません。そんな物語を目指してます。
私は時間だ。
以下のすべてはその前提のもと物語られていくことになっている。
さしあたっては。
わたしは時間だ。
あなたが言うところの。
猫のように気ままで身勝手に風の吹くまま気の向くままに放蕩し、あなたやあなた以外の誰かとすれ違って、あそこに向けてこっちに向けて歩いている。とはいえわたしが後ろ向きにせよ前向きにせよ、どこか一方向に向けてしか歩けないのは、わたしを取り巻いて生きるみんなが、そうでなくては困って途方に暮れてしまうからだ。
そんなわたしをみんなは相対的なものって睨んでいる。
だから、わたしは絶対的であるけど、誰も信じようとはしてくれない。
みんな、知ったかぶりして言うのだ。おまえはひとりで生きていけやしないんだって。寄りかかって、自分以外の誰かに依存しなくては存在せずにいられないんだって。
でもわたしは相対的で見えかけのものだって、いったい誰が言い出したの?
医とか科とか、哲とか頭にくっついた学者が偉ぶってわたしをあるとかないとか、とうの本人を差し置いて種々様々自分勝手に定義してきたわけだけど、わたしは少しもそうは思っていない。
わたしは私だ。他でもない、わたし。
「わたしは時間。わたしは今からやってきました」
「俺はヒトだ。えっと……俺は過去からやってきました。名前はアルトネリト、よろしく。時間さん」
アルトは時間さんに向けて、手を差し出した。
もちろん彼女は時間さんなんかではなくて、もっときちんとした名前があるに決まっている。ハナコとか、メイメイとか、アレーシアとか、エミリーとか。時間かジカンか定かでないけども、たとえば彼女が時間だとして、少なくとも、彼女の姉の名前が空間であるなどと聞いたことは、一度もない。
そもそも時間に手足がついているわけがないし、喋るわけがないし、もっと言えば黒髪の艶やかな可憐な少女であるなんてことがあるはずない。
きっとのっぴきならない事情があって偽名を使わざるを得なかったのか、そうでなければ少し気を違えているかのどちらかだ。アルトとしては、後者のほうで合点がいっている。
「医者にしては面白いことを言うのね。アルトネリトさん」
差し出した手は握られず、顔に出そうな落胆と一緒に奥へと引っ込めた。
「医者が来てるのか?」
「医者も、来ているわ」
「呆れたな。国家反逆罪だ」
「でも、気にならない? 可哀そうだって思わない? 誰も死なない……誰も死ねない不死の世界で、不死の技術を受けられず、不治の病で死んでいく。世間も知らない、無知で無垢な深窓のお嬢様」
「まぁね。気になる、あぁ気になるとも」
「だったら話しましょう。せめてわたしが死ぬ前に。わたしがたしかに生きていて、ここにいたんだって、誰かに知ってて欲しいから。忘れられたくなんて、ないのだから」
時間さんはともすれば、触れれば崩れてしまいそうな微笑を湛えた。
息が詰まって、胸が引きつるような痛みに襲われて、いっぽうでアルトは思ってしまう。羨ましい、なんてことを。
時間さんは環境からしても、とくべつ物知りというわけではない。時間さんは多くの時間をきっと想像もつかない痛みに耐えている。忘れ去られた、太古の苦痛を伴う手術を試した。カビの生えてそうな、薬効は気の持ちようなんじゃないかと思われる様々な薬を呑んだ。ナノマシンアレルギーの彼女は、最新の医療を享受出来ず、書きかけの論文によって効果を裏付けされた怪しげな医療技術の数々を試すことで、時間に追われた。そうでない僅かなひとときは編み物なんかをやっている。いったいあんなに長いマフラーを、誰が首に巻くのだろう。
だから時間さんが考え事をするときは、僅かに見聞きした事実や虚実をもとに、想像のうえから想像を重ねるほかない。
時間さんの話が良くも悪くもひとつふたつ頭を抜けているように感じるのは、子どもにありがちな決めつけに溢れていて、そのくせよく考えられているせいで凡人のアルトには予測不可能だったからだ。
「私は今からやってきました」
「俺は過去からやってきました」
「わたしは時間です」
「俺はヒトです」
「あなたは順序的に言ってしまうと、あなたが死んだ千年後にいます」
「順序的にしては、脈絡がないな」
「それでは、紙芝居をイメージしてみるといいわ。あなたの輝かしい人生の一ページが、いまわたしによって抜き取られてしまいました」
「うん」
「すると私は、そうね……千枚くらい白紙を挟んでようやくその一ページを挿し入れてみるとします」
「すると?」
「あなたの過去は切り離されて、未来も過去になって切り離されて、あなたは今からやってきたことになります」
「でも俺は、昔のことを覚えてる」
「でもあなたは、未来のことも覚えているはずよ」
「まさか」
「ほんと。思い出せないのは、あなたが常識的に辻褄をあわせようとしているからよ」
「だったら非常識になれば、俺は未来予知ができるのか?」
「ある意味ではそうね。もっとも、いまとなってはなんの役にも立たないわけだけど」
会えばいつもこんなやり取りをして、時間さんは悲壮な感じをいっさい漂わせはしなかった。
とはいえ時間さんは断じて、強がりなんかではないし、だからといってヒト一倍強いということもない。年相応の弱さを持ったひとりの少女だった。
けれども時間さんは他の誰より諦めを知っている。
それは誰だって諦めることはできる。ちょうど誰かが、財布と相談しこの物語の購入を諦めたように。でも世の中にはどうしたって諦めきれないものがあって、だからヒトは不死になってまで生きているわけで。
時間さんはそうはなれなかった。それだけのことだ。
「技術的にヒトは不老にもなれたけど、そうはならなかった」
「なれるのは優秀なヒトばっかりだからね。望めばみんながみんな、不老不死になれるわけじゃない」
「能力給みたいに、お金の代わりに寿命を支給するのはどうかしら。ヒトは皆、生きるために自分を磨いて働くということをはっきり意識できるはずよ。それにわざわざ機械を押しのけてまで、もともと必要のない職場を提供する必要もなくなるかもしれないのだし」
「ぞっとしないね」
「ヒトは技術的に不死にも、不老にだってなれはしたけれど、でもヒトは死んだ」
「交通事故とか?」
「だってヒトは、風が吹いただけで死んでしまうデリケートな生き物じゃない。交通事故で、自然災害で死んでしまうし、背中を刺されて頭を撃たれて死ぬことだってあるわ。生きている限り、常にあらゆる死のリスクと隣り合わせになっている。生きているというのは、いつか死ぬということと同じ意味だと思わない?」
「この世界には死んだヒトと、これから死んでいくヒトしかいないって。検屍官のヒトも言ってたよ」
「だからヒトは、わたしを産み出した」
「時間として、それとも『ドッペラー』として?」
「どちらも」
時間さんはふたつの理由から、なかば幽閉状態にされている。
ひとつに治る見込みのない病気から。
彼女の身体のなかはいま疑心暗鬼に駆られた細胞たちで溢れていて、いまもナノマシンと勘違いした細胞がただの細胞を攻撃して、細胞が細胞に反撃して、反撃にたいして新たな攻勢をかけるといった泥沼の戦争状態に陥っている。それが身体のあちこちで日常的に起こっているわけだから、もう誰の手にも負えない。
そしてふたつに『ドッペラー』という奇怪な存在として。
「ゾウとネズミのお話」
「ゾウとネズミは俺から見て、ぜんぜん寿命が違って見えるけど。でも、みんな同じだけの時間に生きている」
「時間は伸びたり縮んだりしないのではない?」
「伸びたり縮んだり、止まって早送りになったり巻き戻ったりはしないけど、そう思い込むっていうのは可能だ」
「わたしは伸びても縮まないわ」
「俺からは、すこし縮んだように見えるよ」
「それはアルトネリトさんの背が伸びたからよ」
時間さんは木の実を頬張るリスのようになった。
その頃にはもう、時間さんは少々やつれていて、もともと細かった体躯は枯れた冬の木枝みたいだった。
「世界から見た時間、ヒトから見た時間……時間から見た時間。ぜんぶ違う、だから時間さんが産まれた」
「時間として」「ドッペラーとして」
「アルトネリトさんには、ドッペラーがそう見えるのかしら?」
「セブンライフ、セブンストック制。時間さんも知ってるんだろ? 俺達は他の世界の俺達七人に理不尽な死を押し付けて、代わりに生き永らえる。俺は正直、俺自身わからくなってきた。俺がやってるのは処理じゃなくて、殺人なんじゃないかって……」
時間さんは沈黙と、いつも浮かべる儚げな微笑で反応した。
「俺は、時間さんが動かなくなったら、いつもと同じふうに、ヒトのスケープゴートとしての、ドッペラーとして処理する。それで、終わりだ。その後もその先もない、それで終わりだ」
「かまわないわ。今まで生きてしまってごめんなさい。話してくれてありがとう、あなたが理解のあるヒトで良かったわ。それから、さようなら」
春の盛り。
サクラの舞う世界も知らずに、時間さんは静かに呼吸を止めた。
首を刎ねたニワトリは、自分が死んだことも知らずにしばらく庭を走り回る。
時間さんも同じだ。
時間さんは誰にも見せずに消してしまった。
明らかな職権の濫用で、蝶が飛ぶ恐れがあったため事態を可及的速やかに処理する必要があったと嘘をついて。
嘘は直ぐに暴かれた。
嘘は直ぐに正された。
だからアルトネリトは、時間さんとは出会っていない。
ちゃんと更新したいなぁ……。