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中国史

我を知る者は

作者: 子志

 手渡された布袋が、じゃら、と重い音を立てる。


「今日のお前の取り分だ」


 袋の目方を量ってみると、今日一日の売り上げを等分したにしては明らかに少ない。しかし()は何も言わず、ただ頷いて袋を受け取った。



 友人と二人で商売を始めてから暫く経つ。友人の才覚はなかなかのもので、売り上げは悪くない。

 牙は渡された銭を懐に入れ、友人と別れた。邸へ帰って銭を広げると、その手元を覗き込んだ兄が顔をしかめる。


「一日留守にしていたのに、その程度か。道楽の商売などやめた方がよい」

「商売がうまくいっていないわけではありません」


 銭を勘定しながら、牙は静かに言った。


「その稼ぎではうまくいっているようには見えないが」

「私の取り分はこれだけですが、友がもっと多く持ち帰っていますから」


 牙の答えを聞き、寸時首を傾げた兄は、さっと表情を険しくした。


「稼ぎを等分しないような強欲な友人と付き合っているのか?尚更やめた方がよい」


 ろくな男ではないに違いない、と言う兄に、牙は微笑んでみせる。


「不満はありません。私は生活の為に商売をしているわけではありませんし」


 牙の家は大夫の家である。長男ではないとはいえ、商売などに手を出している牙のほうが寧ろ異常なのであった。


「彼の家は、ずっと貧しいですから」


 彼の家も士大夫階級に属する筈だが、どういう事情があるのか、懐は豊かではないらしい。

 生活がかかっているので、彼のやり方は少々がめつい。だが、牙はそれに慣れていたし、仕方の無いことだと思っていた。


「だがお前は損をしている。そのように扱われてなお付き合う価値のある男なのか」

「私はそう思います」


 牙は断言する。その声音には一点の曇りも無かった。

 兄は肩をすくめ、その場を去って行った。



 牙の友人は、名を夷吾(いご)という。牙は彼のことを賢人であると思っているのだが、端から見ると、その男はけちで高慢で、しかもしばしば派手な失敗をやらかす男だった。

 仕官したと思ったら主の不興を買って追い出され、戦に出たと思ったら手柄を立てるどころかすたこらさっさと逃げ帰ってくる。牙が災難を蒙ったことも少なくない。困り事を夷吾に相談して、彼が自信たっぷりに勧めた通りにしたら、更なる苦境に立たされたことすらあった。

 それでも、牙は彼を見放すことはしなかった。


「運が悪いのだ。時が味方しなければ、どんな良策もうまくはいかないものだよ」


 そう穏やかに言う牙を、周囲の人々は呆れたように見ていた。



 そんな若者時代も今は昔、二人はそれぞれ仕える主君を決め、輔佐していた。

 二人の暮らす(せい)の国には、当時あまり評判のよくない君主が君臨していた。斉君の妹は隣国()の君主に嫁いだのだが、その妹と不倫関係にある、などという噂がまことしやかに囁かれている。それも、あながちただの噂ではないらしい。


「やれやれ、どうなることやら」


 近く、魯君が夫人とともに斉国を訪れることになっている。何事も起こらなければいいが、と呟いて、牙は夷吾の顔を覗き込んだ。


「どんな様子だ、そちらは」

「良くないな。大変悪いと言ってもいい」


 夷吾の表情は険しい。彼の仕える主は斉君のすぐ下の弟で、つまるところ最も斉君に睨まれやすい人物だった。


「君公は残忍な性格だ。公子が国に居続けるのは危ないかもしれんな」

「国を出る気か」

「必要があれば、そうする」


 牙は黙り込んだ。牙の仕える主君もまた、斉君の弟だ。しかしまだ少年であることもあって、さほど斉君に睨まれてはいない。


「私も、考えてみねばならんな」


 このまま成長すれば、いずれはまだ若い公子の身も危うくなる。かといって国を出れば、今の斉君が亡くなった時に帰国して君位を継げる保証は無い。難しいところだった。


 彼らの心配に拍車をかけるように、斉君はその残虐性を知らしめるような事件を起こす。

 魯君を宴会に招いてともに酒を飲んだ斉君は、酔った魯君を送るよう、彭生(ほうせい)という公子に命じた。この公子彭生は、力自慢の男である。易々と魯君を担ぎ、車に乗せた。そしてそのまま、介抱するふりをして魯君を抱いた腕に力を込め、魯君の肋をへし折ったのである。


 この凶行に、斉君の意志が働いていたことは明らかだった。夫人と斉君の不倫関係を知った魯君が夫人を叱り、それを夫人が兄であり情夫でもある斉君に訴えたのである。妹であり情婦でもある夫人の訴えを聞いた斉君は、いともあっさりと一国の君主を殺してしまった。


「これはいかん」


 牙も夷吾も、己の主君の身を思って青ざめた。隣国の君主をあっさり殺させる斉君が、弟を殺すのに躊躇う筈が無い。その上、君主を殺害されてさすがに黙っていなかった魯の人々への弁明の為に、斉君は下手人の彭生をもさっさと殺してしまったのである。

 明日は我が身、と誰もが緊張した。


「君公は気ままに人を殺す」


 牙は嘆息した。


「君が放埒では民も放恣になる。いつ変事が起こってもおかしくない」


 心を決めた牙は、主君である公子小白(しょうはく)に亡命を勧め、主君と供回りの者達とともに(きょ)という小国に亡命した。



 そして、人を人とも思わぬ斉君には、その報いが待っていた。


 斉の大夫に、連称(れんしょう)管至父(かんしほ)という者達がいた。彼らは斉君の命で葵丘(ききゅう)という土地の守備についていた。この種の兵役は、一年で交代となるのが普通である。斉君もまた、彼らに「瓜の季節になったら交代させよう」と約束していた。

 瓜の実る季節が来た。だが、斉君からは何の音沙汰もない。焦れた二人は、斉君に交代を請う使いを送った。ところが、斉君は「許さぬ」とにべもない。


「約定を破る気か。君公ともあろう者が」


 怒った二人は、斉君の暗殺を計画する。だが、相手は一国の主である。殺せば済むというものではない。


公孫(こうそん)無知(むち)を担ごう」


 そう決めるのに、さして時間はかからなかった。公孫無知は、斉君の従兄弟にあたる。先君の僖公(きこう)はこの甥をたいそう可愛がり、格別の待遇を与えていた。しかし今の斉君の代になると、斉君はその特別待遇を全て撤回させたのである。公孫無知はそのことを恨んでおり、斉君とは折り合いが悪かった。血筋から言っても彼は先君の同母弟の息子だから、充分君位に即く資格がある。


 結論から言えば、彼らの計画は成功した。命を捨てて斉君を守ろうとした近臣達がいたことは少々意外だったが、結局斉君は殺された。近臣達に庇われて身を隠したのだが、戸の下から足が見えているのを見つかったのである。襲撃のしばらく前、斉君は嘗て死に追いやった彭生の亡霊に遭ったという。報いを受けたということなのか、斉君は死に、公孫無知が斉君の位に即いた。


「もはや、猶予はない」


 ここに至って、斉君の次弟である公子(きゅう)も、斉の国を出て母の生国魯に身を寄せることに決めた。

 先君に与えられていた特別待遇を撤回されたことを根に持って斉君を殺してしまうくらいだから、公孫無知もあまり質の良い男ではない。

 血筋から言って公子糾は彼の位を脅かし得るのだから、国に留まっていればどうぞ殺してくれと言っているようなものだった。

 公子糾に仕えている夷吾も、同僚の召忽(しょうこつ)とともに、主君に従って魯へと出奔した。



 公子が逃げ出し、公孫無知が誰の邪魔も入らぬまま晴れて斉君の位に即いたのが、十二月のことであった。

 ところが翌年の春には、無知もまた殺されてしまったのである。嘗て虐げた者に恨まれて殺されたのだという。

 高慢に馴れた男の、短い栄華であった。


 斉から公孫無知が横死したという知らせが来るや、牙と公子小白は素早く行動を開始した。

 小白は利発な質だ。急がなければならないことを、よく理解していた。


「兄上よりも先に帰国せねばならん」


 馬車に乗り込んで、小白は言った。


「兄上には魯の後ろ盾がある。もたもたしていると、魯師が来る」


 師とは軍制上二千五百人の隊を指すが、この場合は軍隊を意味している。

 魯は公子糾を斉君の位に即ける為に軍を出すだろう。一方の莒には、後ろ盾としての力は期待できない。魯の軍隊が来る前に斉に入って軍備を整えておかなければ、小白の生きる道は断たれてしまう。


「急げ!」


 公子小白の号令一下、一行は一路斉を目指した。


 ——しかし、このまま無事に着けるだろうか?


 牙の脳裏を、ちらりと不安が掠める。今も公子糾の傍に居る筈の夷吾の顔が思い浮かんだ。


 その夷吾は、僅かな手勢を連れて疾走していた。魯の軍隊を引き連れている公子糾が斉に着くまでには、まだまだ時間がかかる。その間に小白が帰国してしまえば、生きる道を失うのは公子糾の方なのだ。

 兄弟の苛酷な争い。その傍に仕える者達もまた、争わずにはいられない。


 夷吾は街道に兵を伏せ、間もなくやってくる筈の小白の一行を待った。深く息をしながら、弓に矢をつがえる。

 やがて、小白の乗る車が見えた。小白の姿も、車に従う牙の姿もよく見える。彼らは夷吾達が待ち伏せていることには気づいていない。


 ——好機だ。


 夷吾は弓を引き絞った。きりきりと引き絞られる弓弦とともに、心も張りつめてゆく。

 微かな音を立てて、矢が放たれた。それは狙い過たず、小白の体へと突き刺さる。小白が腹を押さえ、車中に倒れた。牙が慌てて駆け寄るのが見えた。


 ——ついに天はおれに味方した。


 ぐったりとして動かない小白。慌てふためく侍従達。青ざめた牙の顔。


「公子が……!」

「なんということだ」

「誰か、医者は、医者はおらぬか!」


 騒ぎを尻目に、夷吾は兵士達に退却を命じる。


「公子は死んだ。もはや障碍はない。いたずらに人死にを出すこともあるまい」


 成功を確信した夷吾は、成功の使者を公子糾のもとに走らせると、早々に引き上げた。



 牙は真っ青になって小白を抱き起こした。その腹に矢が突き立っているのを見て、目の前が真っ暗になる。


「なんということだ」


 この場にいる者達、全員の希望が潰えてしまった。誰の仕業か、などと憤る気力も無い。だいたい、誰何せずともわかっていた。今、小白を殺して得をするのは、公子糾と魯の手の者である。そして牙は、矢が放たれる寸前、道端の茂みに懐かしい顔を見出した気がしていた。


「なんという、ことだ……」


 続く襲撃を警戒して車の中に身を屈めながら、牙は足元が崩れ落ちるような無力感に襲われた。とにかく傷を診ようと、矢柄に手をかける。


「おっと、いきなり抜こうとする奴があるか。それでは生きていても失血死するではないか」


 小声の叱責がどこから降ってきたのか、牙は一瞬認識できなかった。


「ぼうっとするな。嘆け、騒げ。誰が見ても私が死んだように見せねばならん」

「な……」


 ぼうっとするなと叱られたにも関わらず、牙は寸時呆然としてしまった。彼の目の前で、小白の片目がぱかりと開く。


「騒げと言っておろうに」


 睨まれて、はっと我に返る。咄嗟に外から小白が見えないよう覆い被さりながら、牙は出来るだけ悲痛な声を出した。


「公子が……!」


 その声を聞いて絶望した侍従達が立ち騒ぐ。成功を確信したのか、続く襲撃は無かった。

 周囲に兵の気配が無くなったのを確認した牙は、ともあれそのまま車を出すよう命じて身を起こす。すると小白も、何事も無かったかのようにひょいと身を起こした。


「公子、お体は……」

「何ともない。死んだふりだ」


 あっさりと答える小白の腹には、未だ矢が突き立っている。牙が怪訝な目を向けると、小白は矢の刺さっている場所を指し示した。


「亡霊を見るような顔をするな。よく見てみよ」


 その手元をよくよく見れば、矢は小白の腹ではなく、帶の留め具に刺さっているのだった。咄嗟に死んだふりをしてみせた小白の機転に、牙は舌を巻く。


「さて、これで兄上は私が死んだと思い込んだに違いない。魯軍の到達は遅くなろう。少し、楽になったな」


 にやりと笑う小白を見ながら、牙は内心呟いた。


 ——あやつは本当に、ついていない男だ。



 主を亡くした葬送の車を装ったまま、小白の一行はついに斉に入った。公子糾と魯は安心しきっており、到着が大幅に遅れる。その間に、小白は斉君の位に即き、軍備を整えた。


 秋。準備万端の斉軍の前に、公子糾を擁する魯軍は大敗した。

 兄弟の苛酷な帰国競争を、小白が制したのである。


「敗けたな」


 夷吾は嘆息した。矢が帶の留め具に当たるという小白の強運もさることながら、死んだふりとはしてやられたものである。


 斉からの使者は、魯君に向かってこう要求した。


「公子糾は兄であり、手を下すに忍びません。どうか、魯で始末をおつけください。その供の者達には晴らしたい恨みがありますので、どうかこちらに引き渡していただきたい」


 魯君はその言に従い、公子糾を殺した。召忽と夷吾は斉に引き渡されることとなったが、召忽はそれを潔しとしない。


「おとなしく斉へ行くつもりか。惨たらしく殺されに行くようなものだぞ」


 自死を決めた召忽が、夷吾に言う。夷吾は茫洋とした表情で、東を眺めた。脳裏には、牙の顔が浮かんでいる。


「おれは、殺されまいよ」


 それは確信だった。牙がいる限り、夷吾が殺されるようなことは絶対にない。

 それを聞いて、召忽は鼻を鳴らした。


「生き恥をさらすのは尚更ご免被る」


 吐き捨てるように言って死へと向かう召忽を見送りながら、夷吾は呟いた。


「生き恥ならば、さらし慣れている」




 果たして、斉に到着した夷吾を待っていたのは刑死ではなかった。それどころか、一躍宰相に抜擢するという厚遇である。


「時さえ味方に付ければ、お前は素晴らしい才能を発揮できる。私はそれを知っているからね」


 牙はそう言って微笑んだ。夷吾は肩をすくめる。礼を言う気にはなれなかった。この友人の望むものは、それではないからだ。


「お前はいつも俺を信じているのだな」

「ああ、そうとも」


 危うく主君を殺されかけたのに、牙が夷吾を見る目は、いつもと変わらず暖かい。


「お前なら、君公を輔けてこの国を豊かにしてくれると信じているよ」


 夷吾は鼻を鳴らした。それから、腕を大きく広げる。


「みくびられたものだな。俺はこの国を豊かにどころか、君公を諸侯の盟主にしてみせるぞ」

「それは頼もしい」


 手を叩いた牙は、まさか夷吾が本当に、小白を諸侯に君臨する覇者にまで押し上げるとは思ってもみなかった。



 夷吾の氏は管、字は仲。牙は普通、鮑叔、或いは鮑叔牙と呼ばれる。


 遥か後世、三国の世に諸葛亮が「毎に自ら管仲、楽毅に比」したという、春秋時代随一の名宰相の誕生であった。




 彼は後に、こう述懐する。


「私が困窮していた時、鮑叔とともに商売をし、自分の方が多く利益をとっていたが、鮑叔は私を貪欲だとは言わなかった。私が貧しいのを知っていたからだ。

私は鮑叔に知恵を貸して、更なる苦境に追い込んでしまったことがあるが、鮑叔は私を愚かだとは言わなかった。時に有利不利のあることを知っていたからだ。

私は三人の主君に仕えて三回とも追い出されたことがあるが、鮑叔は私を無能だとは言わなかった。私が時宜を得ていないことを知っていたからだ。

私は三度戦場に出て三度とも逃げ帰ったことがあるが、鮑叔は私を臆病だとは言わなかった。私に老いた母のあることを知っていたからだ。

公子糾が敗れ、召忽も死んだのに、私は生きて囚われるという辱めを受けたが、鮑叔は私を恥知らずだとは言わなかった。私がつまらないことを恥と思うのではなく、天下に名を馳せられないことをこそ恥じると知っていたからだ」


 その昔語りは、感謝と賛嘆の籠った一言で締めくくられた。



「我を生む者は父母、我を知る者は鮑子なり」



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