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ずっとおぼえてる   作者: ことり あきこ
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東京 1999年 ①

 初めての妊娠出産を経験する眞子にとって、近辺にある産院の評判はもちろん、ベビーグッズがなんでもそろうというアカチャンホンポという店の存在から各社紙おむつの特徴まで、あれこれと教えてくれる先輩妻たちの存在は心強かった。

 井戸端会議やお茶の風習があるおかげで、たやすく情報を仕入れられる。


 ただ、

「里帰り出産するの?」

 と聞かれて、母親をすでに亡くしているので東京で産むと答えるたびに、気まずそうな顔をされたり、涙ぐんだりする人までいて閉口する。



 妊娠後期に入っても細身なまま、お腹だけが見事にふくれ上がった眞子は、まるで洋服の下にスイカをひと玉隠し持っている偽妊婦のようなありさまだった。


 路上ですれちがう人々、特にうしろから追い抜いてくる人たちは、後ろ姿と側面と前から見るフォルムのギャップに意表を突かれ、たいてい眞子を二度見した。


 定期健診のたびに、つわりで食べられなった頃は点滴を受け、その後も毎回のように貧血の検査にひっかかって鉄剤が処方されたり鉄剤注射を打たれたりしたが、胎児の成育だけはすこぶる順調だった。


 臨月に入ると、医者から、

「胎児も大きいし子宮口が開いてきてるから、このまま入院して陣痛促進剤を打って出産したほうがいいんじゃない?」

 と勧められたが、なるべく自然に生みたかった眞子は断った。


 それでも医者は、

「子宮口がもともと開いていると急なお産になることも多いから」

「初産だからってのん気にかまえてたら間に合わないかもしれないよ」

「いざ陣痛が始まったときにはタクシー呼んでる余裕なんてないかもよ」

 と、週に1度(暑いさなかの頻繁な通院は荒行だった)の検診のたびに圧をかけてきた。

 しつこい。



 8月4日、予定日の早朝5時前に腹部の張りと痛みで目を覚ました眞子は、これはもしかして陣痛の始まりだろうかと身構えた。


 その後はしかし、しばらく何も感じない。


 再び眠ることもできないまま横になっていると5時半ちょうどに、今まで感じたことのない強い張りと痛みで陣痛だと確信した。


 病院に電話を入れると、検診で会ったことのない助産婦が眠そうな声で対応したが、カルテには急なお産になる可能性があると記されていたようで、

「じゃどうぞ。来てもらっていいですよ」

 と不愛想に来院を許可した。


 その間にも痛みの感覚はどんどん短くなっていく。


 いびきがうるさいので新婚早々別室で寝るようになっていた健一を起こして病院へ向かおうとしたが、陣痛の波が次々にやってくる。


 玄関を出る前にも、社宅の階段を3階から1階まで下りる間にも、もちろん病院へ向かう車中でも、激しい痛みの間隔はどんどん短くなってくる。

 もはやちゃんと計る余裕がないが、すでに3分間隔ぐらいではないか。


 しかし眞子が立ち止まろうと体を折り曲げようと、健一は手も貸さなければ声をかけることもなく、さっさと駐車場へ向かい、まっすぐ前を見つめたまま目的地めざしてハンドルを握る。


 病院に着くとすぐに、寝ていたところを起こされた感あふれる医者(元々の垂れ目がいっそう激しく崩れるように垂れている)の診察を受ける。


「子宮口全開ですから即分娩台へ」

 と告げられるが、分娩室へ向かう間にも陣痛がくるので速やかに移動できない。

 それなのに健一はやはり、眞子に手も貸さず自分一人真っ先に分娩室へ向かう。

 おまえが生むのか?

 と蹴りを入れてやりたいが、痛くて追いつけない。


 どんどん増す痛みを裏づけるように、眞子の体に取りつけられたモニターの数値がはね上がる。


 ドラマの出産シーンなどで目にしたこのある、泣きわめいたり、お母さん!と叫んだり、といった妊婦の絵が脳裏に浮かぶが、眞子は無事に子供を産むのだという使命感から、泣き言も叫び声ももらさず任務遂行に励む。


 分娩台に乗ってからわずか1時間ほどの8時ちょうどに、眞子は3550グラムの女児を出産した。


 初めて見る我が子に「葵」と、胎児が「ほぼまちがいなく女の子」であると医者に言われてから決めていた名前―――健一も「いいんじゃない」と同意していた―――を呼びかけるが、9ヶ月間自分の体内で育まれた我が子の顔が、自分にまったく似ていないことに不意打ちを喰らい、感動の涙が出ない。


 夫も呆けたような顔で突っ立っている。

 分娩中も健一は直立不動のまま、たったの一度も眞子が痛がるところをさすったり手を握ったりすることはなかった。


 医者は取り上げた赤ん坊を見て、

「いやぁ~大きい! 丸々太ってる」

 と感心しているが、新生児など見慣れていない眞子には、十分小さく心もとなく見える。


 しかし、助産婦や看護婦にも、

「お母さんはこんなに痩せてるのに」

「よっぽど胎盤がよかったのかしらね」

 と声をかけられる。


 おまけに目に入った時計の針はまだ9時前を指しており、ということは、この医者は通常どおり朝一番から外来診察にあたれると眞子は考え、健康そうな子を至極速やかに産み落とせた達成感にしばし満たされる。


 しかし辛い。

 開きっぱなしになっている股を閉じて休みたい。

 股関節はまちがいなく柔らかいはずだが、ずっとこのままの状態でいるのは辛い。


 いつまでこの姿勢でいなくてはならないのだろう。


 急激に進んだお産で子宮に卵膜が残ってしまったらしく、それを医者の手ですべて掻き出して、最後に止血、というところで手間取っている。


 外来の受付から内線がかかってきて、受話器を取った若い看護婦が、

「診察開始は何時ごろになりそうですか?」

 と医者に尋ねる。


「ちょっと、まったくわからない―――出血がまだ全然止まりそうにないから」

 と医者が答え、垂れ目ながら険しい顔で処置を続ける。


 大量出血のせいか細くなった血管に「点滴の針がどうしても入らない」と、先ほど内線に答えた若い看護婦が困り顔で言い、電話で眠そうに対応した助産婦が針を刺すが血管に入っておらず液漏れして、眞子の腕は曲がらないほどパンパンに腫れあがる。

 点滴が漏れていれば痛みで気づくものらしいが、眞子の意識は朦朧もうろうとしてきている。

 体がガタガタと震えだすのを止められない。


「おかしいな、なんで出血が止まらないんだ」

 と、医者がつぶやくのが遠くで聞こえる。


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