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ずっとおぼえてる   作者: ことり あきこ
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京都 1981年 ③

 眞子の母、初枝はつえは長女の朱実あけみを産んだ後、度重たびかさなる流産で2人目はすっかりあきらめ、おてんばな朱実を一人っ子として自由奔放じゆうほんぽうわがまま放題に育てていたところ、12年ぶりに思いがけず授かったのが眞子だった。


 久しぶりの妊娠出産、乳児検診などの諸々を通して、自分が他の母親よりひどく年寄りじみた気がしてならなかった初枝は、眞子がすぐに風邪をひいたり熱を出したりする子供だったことも手伝って、あまり積極的に眞子を外で遊ばせなかった。


 初枝の趣味は、当時はまだ珍しかった家庭用ガスオーブンでパンやケーキやクッキーを焼くことだったので、眞子も一人で人形遊びをしたり、母が作った焼きたてのアップルパイやパウンドケーキなどを食べながら家で昼メロやワイドショーを見て過ごすうちに、社交的で無邪気な姉の朱実とは真逆の、内気で思慮深く大人びた少女に育っていった。


 幼稚園に通い出すと眞子は、同年代の子供たちが意味不明に走りまわったり、

「さら粉(この近辺の子供たちはさらさらの白い砂をこう呼んでいた)を集める」

 という、やはり意味不明な目的で一心不乱に地面をはたいたりするのを見ても何がおもしろいのか理解できず、ひしめく子供たちの中に野放しにされるのが恐怖だった。


 眞子がバレエと出会ったのは、ちょうどその頃だ。


 それまで眞子はバレエではなく、ピアノを習いたいと母にせがんでいた。


 姉の持ち物がつまったカラーボックスの最下段に鎮座していた百科事典を、こっそり小さな手で物色していたときに、「音楽」の巻の裏表紙に張り付いているレコードを発見したのがきっかけだった。


 姉の持ち物を勝手に触ると叱られるのを知りつつ、好奇心を押さえられずにレコードを取り出してしまった眞子は、

「そのレコード…」

 と母親に後ろから声をかけられ、びくりと体を震わせたのだが、初枝は、

「涼子さんから入学のお祝いにもらったのに、朱実ちゃん、百科事典なんて全然開かないんだから」

 と誰にともなく呟き、

「聴いてみる?」

 と、あっさりレコードに針をのせてくれた。


 レコードにはバロックから古典、ロマン派、印象派など様々な時代の代表的なピアノ曲が収められていて、といっても合計4曲だったが、それまでクラシック音楽などじっくり聴いたことがなかった眞子の耳を捉えた。何度も聴きたがる眞子に、初枝は、

「まだ聴くの?」

 と、あきれながらも嬉しそうな顔をした。


 そのうちに眞子は、

「ピアノでこういうの弾けるようになりたい」

「ピアノ習いたい」

「ピアノがほしい」

 と、せがむようになったが、

「ピアノみたいな大きいもの、置くとこないでしょ」

 と初枝が言うとおり、家具がびっちりと詰まった2DKの団地にはピアノを置く隙間すきまなどなかった。


 それでも、眞子があまりに熱心にたのむので、

「じゃあ、朱実ちゃんが高校卒業したら机捨ててそこに置く?」

 と初枝も真剣に考えてみるのだが、

「その頃は眞子ちゃんの勉強机置くことになるわよね」

 ということで、やはりピアノを置く場所など捻出ねんしゅつできそうになかった。


 そんなときに眞子はバレエとめぐりあった。  


 その日、干していたふとんを取り込もうとベランダに出た初枝は、何気なく見下ろした田んぼに広がるれんげの絨毯の美しさに息を呑んだ。いつもなら昼メロを見ながらほうじ茶でも淹れて一息つく時間なのだが、幼い娘と両手いっぱいにれんげを摘みたい気分に駆られた初枝はエプロンをはずし、眞子の手を引いて穏やかな春風の中へと出かけていった。


 田んぼに入ってしばらくれんげを摘んでいると、小学校一年生のたっちゃんをおぶった山本さんが、田んぼの前の道を険しい表情で歩いてくるのが見えた。


 同じ団地に住む山本さんは、

「あー眞子ちゃん、いつ見てもかわいいなぁ。おばちゃん怒ってたんやけど、眞子ちゃん見たら優しい顔になってしまうわぁ」

 と言ってから、息子のたっちゃんをお医者さんへつれていくところだと説明した。


 たっちゃんの膝にきつくしばりつけられたタオルは血に染まっていた。


「両手離して自転車乗る練習してたんやって。あほやろ。今からお姉ちゃんのお迎えやのに」

 と苦虫をかみつぶしたような顔で言う山本さんに、それなら、と初枝がお迎えに行くことを申し出て、そのまま眞子も一緒に、たっちゃんのお姉さんが通うバレエ教室へと向かった。


 道に迷いやすい母親の隣を速足で歩いていた眞子は緊張していたのか、無事バレエ教室に到着したとたん、ほっとして、両手いっぱいに握っていたれんげを地面にばらまいてしまった。


 しかし、なにやってるの、と母親にたしなめられたことも、急いで拾い上げたれんげがしおれていてがっかりしたことも、バレエ教室に一歩足を踏み入れた瞬間に、不思議な感覚に包まれて忘れてしまった。  


 おなかに響くピアノの音、お団子頭、ピンクや黄色のレオタード、ひっそりとそこにある木製のバー、そのバーに触れたときの感触…バーになど触れたこともないのに、バレエスタジオに足を踏み入れるのなんて初めてなのに、すべてがなつかしいような奇妙な感慨におそわれて、眞子の胸がざわついた。


「バレエ習う?ピアノはいつになったら始められるかわからないけど、バレエなら今すぐ習えるわよ」

 と初枝が言ったのはその場の思いつきだったのだが、眞子はその週のうちにスタジオに通い始めた。

 

 音楽に身をゆだねる気持ちよさに、音楽と合わせて動く楽しさに、眞子はすぐに夢中になった。


 このバレエ教室の主、木内依子きうちよりこの厳しい指導や辛辣しんらつな舌におそれをなした子供たちが定期的にごっそりと辞めていくなか、眞子は一度も辞めたいと思わなかった。


 三年生で初めてトゥシューズを履くことが許されたときは、ついに!と胸が高鳴った。


 しかし週3回だった稽古を週4回に増やしたいと母親にせがんでいたところでその母親がいなくなり、眞子はもう何ヶ月も稽古けいこを休んでいた。



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