京都 1985年4月~ ④
なんとか新しい指導者を見つけることができた眞子が次に着手すべき課題は、英語だ。
母親が生きていた小学校三年生までに身につけた基礎学力のおかげか、ここ何年もまともに勉強していないわりには授業で困っていなかったが、中学から始まった英語だけはあやしい。
どうせ外国へ行く機会なんてないのだから英語などわからなくていいと開き直ってきたが、意識を変えなくてはならない。
眞子はバレエで培った集中力(依子先生に常々「ふりつけは一回で覚えなさい」と脅されていた)を発揮して、今までとは別人のように熱心に学校の授業を受けるようになった。
モチベーションをもって授業を受けるうちに英語のメカニズムを理解しはじめた眞子は、勉強がおもしろくなっていき、母親が生きていたころまでは勉強が得意だったことを思い出す。
すると、他の教科も集中して授業を受け、宿題をこなし、提出物を期限までにしあげる、という本来当たり前にやるべきことが当たり前にできるようになっていった。
その結果、この中学二年の2学期は、中学入学以来もっとも良い成績表を受け取ることができたし、5段階評価で3しかもらったことがなかった英語で初めて4をもらえたが、この延長線上にクラッセンに留学できるだけの英語力を身につけた自分がいるとは想像しにくかった。
この案件を相談できる人物との出会いは、冬休みに訪れた。
初枝が死んでから、眞子はあらゆる休日を親戚や近所の人の家ですごしてきた。
一度だけ、母親が死んで初めての冬休みに、正月ぐらいは家で迎えたい、と眞子が拙い言葉で姉に訴えたところ、
「ふうん、じゃ家にいたら」
と言って朱実は、眞子を家に残して自分だけさっさと恋人と出かけていった。
学校で仲間外れにされた、あの冬のことだ。
その正月に何を食べてどう過ごしたかを眞子はまるっきり思い出せないのだが、正月が来ない我が家にいるよりは、よそで年を越すほうがましだと悟ったことは覚えている。
それからすぐ後に朱実は結婚して家を出ていき、以来、眞子は盆も正月もあらゆる親戚や近所の人や涼子の家ですごしてきた。
そのあらゆる親戚や近所の人たちとも年々疎遠になっていったが、涼子だけは相変わらず眞子を気にかけてくれた。
この日も、年末年始を涼子の家ですごす荷物をかばんに詰めていたところに、涼子から電話があった。
「眞子ちゃん来るの明日やったな?聡ちゃんが急に来ることになったんやけど…あれっ?眞子ちゃん、聡ちゃんに会うたことなかったかいな?ニューヨークに住んでる甥やがな」
と言う。
涼子には子供がいないが、大勢いる甥姪の話はよく耳にする。
なかでも、パイロットと結婚して今は品川に住んでいるという涼子の姉の子供たちについては、イタリアに永住することになったとか、旦那さんがトルコに転勤になったとか、フランス人と結婚したとか、洋風なものとは無縁そうな涼子からは想像できないほど国際色豊かな話が多く、眞子の印象に残っていた。
会ったことはないが、聡がフランス人と結婚してニューヨークで働いている甥だと、眞子は承知している。
「休暇で日本に戻ってきてるんやけど、元旦の夜からこっちで二泊ほどしたいんやって」
と話す涼子は嬉しそうだ。
頻繁に他人の家に預けられてきた経験から、自分の存在が誰かの邪魔になることに敏感な眞子は、今年はいくのを遠慮すべきかと即座に考え始める。
しかし年末年始を寒々しい団地の部屋に一人で、または酔っぱらった父と二人きりで過ごすのが、いかに惨めかも知っている。
口ごもる眞子に涼子は、
「知らんお兄さんと一緒でもかまへんやろ?や、眞子ちゃんから見たらおっさんかいな」
と言って豪快に笑う。
電話の向こうで玄関のチャイムがピーンポ-ンと鳴るのが聞こえ、
「ひやっ、誰か来はった。はあーい」
と涼子は玄関に向かって叫んでから、
「ほな眞子ちゃん、明日待ってるさかいなっ」
とあわただしく電話を切った。




