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ずっとおぼえてる   作者: ことり あきこ
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プロローグ 東京 2015年3月 ①

                  2015年3月 東京


「卒業生代表、深瀬葵ふかせあおい


 はい、と講堂に我が子の声が響き渡るのを、眞子まこほこらしく、そしてどうしようもなく心細い思いで聞いていた。


 卒業生がいっせいに立ち上がり、その中から一人、しっかりとした足取りでステージに向かう娘の姿を夫と、あるいは自分の親とでも一緒に見ていたのなら、このような心細さは味わっていなかっただろうか。


 舞台へと続く階段の中央で、我が子がぴたりと足を立める。講堂中の視線が集まる中、自分の娘がステージ上で起立する教職員に向かって一礼をし、各々の座席で立ち上がっている卒業生一同、男女256名があとに続いた。




「今日は葵ちゃん、大役を任せられたそうじゃない」


 講堂に入ってから席に落ちつくまでの間に、眞子は何人かの母親から声をかけられた。


 挨拶あいさつがわりに、又は純粋に「すごいじゃない」と言ってくれる場合はいいのだが、便乗セレブ嫁(娘のクラスメイトAの母親を、眞子は心の中でこう呼んでいる)のように、

「やっっぱり葵ちゃんは~、んもう、優秀だから…ねぇっ…」

 などと、まつエクをバサバサさせながらねばつく声で言われると、なんと返すのが正解なのかわからず、眞子は失語症におちいる。


 この学校に子供を通わせる親の中には、政治家や芸能人、スポーツ選手などの有名人も少なくないが、この便乗セレブ嫁は、夫の父親が有名作家なのが自慢なようで、事あるごとに、

「また葵ちゃんに、麻布の父の家に遊びに来てもらってくださいねぇっ」

 と、なぜか自宅や自分の実家ではなく、しゅうとの家に娘の友達を招待してくれる。


 この母親に話しかけられると毎回失語症に陥いる眞子は今、便セレ嫁の盛りまくったまつ毛と定規で整えたような眉毛を見ながら、自分は今朝、眉毛を描いただろうかと不安になる。

 



 今朝、眞子は6時きっかりに起きて朝食を用意し、朝食後は夫がテーブルにこぼした醤油をうんざりした思いで拭き取り、食器を洗い、洗濯機を回しながら身支度をした。


 20代、30代、そしてついに40代になり、年々塗るものが増えていくベースメイクを丁寧に、しかし厚塗りにならないよう仕上げ、ビューラーにまつ毛をはさんだところで、夫の

「いってきます」

 に、まつ毛に集中したまま棒読みで

「いってらっしゃい」

 と返し、ダマができないよう注意してマスカラを塗った。


 チークを頬に乗せたところで洗濯機が脱水を終えたので、手についたファンデーションをきれいに洗い流し、洗濯物を干した。


 洗濯の後は浴室の掃除もさっとすませてから、卒業式のために買った新しいブラウスと、4~5年前に仕事のために買った黒のスーツ―――新しいものを見にマルイや伊勢丹を回ったが、今の流行なのかキラキラ素材のセットアップばかりが並んでいて、それらを買う気にはなれなかったのだ―――に着替え、口紅が歯についていないことを確認してから、普段は存在すら忘れかけているのに昨夜からスーツといっしょに出しておいた結婚指輪を薬指にはめた。


「名門私立中学に通う優秀な娘の母親」一丁上がり。


 鳥かごの温度計が20度以上なのを確認し、

「寒くないよね、行ってくるね」

 と、夫にかけたよりも1オクターブ高く100倍優しい声で文鳥に言ってから、家を出た。




 眉毛は描いていない、という事実確認が眞子の頭の中で終了する。


 メイクの途中で出発してしまったことは無念。だが大勢に影響はない、と自分に言い聞かせる。


 幸い眞子の眉毛は行儀よく生えている。描く、といっても眉尻を少し整えるぐらいである。


 それになんといっても、今日の主役は自分ではなく、娘なのだから。


 眞子は気を取り直して、父兄で埋まった大劇場のように仰々しい講堂を見回した。


 時間に余裕をもって家を出たというのに、到着したときには座席はほぼ埋まっていて、なるべく前の方の空席に腰を下ろして振り向けば、不運なことに斜め後ろには便乗セレブ嫁が座っていたのだった。


 彼女の隣に座っているのが、同じ大学付属の小学校に入学したと聞いている末娘のりんちゃんにちがいない。


 りんちゃんと目が合い、眞子は、

「こんにちは」

 と笑顔をはりつけて挨拶したが、返事はない。


 便セレ嫁は、通路を隔てた向こうに座っているママ友の着物姿を褒めそやすのに忙しい。


 式が始まってからも便セレ嫁は、りんちゃんに話しかけられても私語をつつしむよう注意するでもなく、気のない返事をくり返していたが、卒業証書授与で我が子の名前が呼ばれるや否や、禁止されているシャッター音もフラッシュもはばからずパパラッチ並みに激写の連写をくり返した。


 あきれながらも眞子は、彼女の夫がアジアのどこかに単身赴任中だということを思い出す。


 この母親も眞子と同じく「経済的支援を受けるシングルマザー」なのだろうか。




 大手メーカーに勤める眞子の夫は、有給というものをまったく取らない。


「あ~~~あ、ごみ収集でもして今と同じ給料がもらえるなら明日にでも転職するよー」

 などと、ごみ収集の人が聞いたら首根っこをつかまれて収集されそうな発言をするぐらいだから、仕事が特にすきなわけでもないみたいだが、たった一人のわが子の入園式にも卒園式にも入学式にも卒業式にも会社を休んだことがなく、無遅刻無欠勤。


 葵はそんな父親にすっかり慣れているとは言え、卒業生代表にまで選ばれたのだから、今回だけでも一緒に出席してほしい、と眞子は夫にたのんだのだが、やはり無駄だった。


 夫は理由を説明することもなく

「その日は無理だね」

 とだけ告げてから、テレビの音量を上げた。


 夫が最近夢中になっているアイドルグループのキンキンした喋り声がリビングに響き渡り、眞子はその場でそれ以上話を続けるのをあきらめた。


 このアイドルたちは、いくつぐらいなのだろう? 話し方などは娘より遥かに幼稚だけど、と忌々しく思いながら、忌々しい夫の洗濯物を乱暴にたたんだ。


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