9話 研ぎ澄まされる悪意
「アラ? 航一さん? もう帰られるのですか? ワタクシはてっきり……」
階下に降りると、台所から顔を出した佳奈のお袋さん――神成朱鷺子さんに声をかけられた。
この人……話し方はおっとりしてるんだけど本質的にウチのお袋に似てるんだよなぁ……。
「てっきり……何ですか?」
「若いのですから三回戦くらいされるものと思っていたのですが」
「だから何の話ですか! 朱鷺子さん!」
「アラアラ、何時になったら『お義母さん』と呼んでくださるのかしら?」
「質問に答えて貰えない上に、ぶっ飛んだ要求された!」
こういうトコ……本当にウチのお袋に似てるよなぁ。
因みに、俺がこの人を名前で呼んでるのは、佳奈がウチのお袋を名前で呼んでいるのと同じ理由である。
「まさか……若い男女が二人っきりで薄暗い部屋にいて、何もなかったのですか?」
「朱鷺子さんが期待しているようなことは何も……つか何を期待していたんですか?」
「初孫」
……ストレート過ぎて言葉が無ぇ。
しかもニコニコと笑いながら、その実、瞳の奥になにやら黒いものを感じるのは気のせいでは無いだろう。
「まあ、冗談ですけど」
ホントか?
「でも、当面はあの娘の傍に居てあげて下さいね。あの娘も……佳奈も本当にそれを望んでいるから……」
「あ……まあ……はい……」
柔らかくも少し寂しげで、それでいて何処か真剣な口調でお願いされ、気圧される様に頷いてしまう。
「まあ! 今、オーケーなさいましたね? 早速佳奈に報告しなくては! 航一さんが『一生』傍に居てくださると」
「いつの間にか期間延長されてる!」
「まあ、冗談ですけど」
クソ……相変わらず何が冗談で何が本気なのか解らん人だ。
ニコニコ笑いながら、しれっと条件を変更してくるなど、本当に油断がならない。
「ただ……『取って代われる存在じゃない』というのはちゃんと証明してくださいね」
き……聞き耳たてられていただと?
いや、だが、そんな大声では話していなかったし、そもそも廊下にそんな気配も感じなかったぞ? それとも、一般人には絶対に悟られることのない隠形術でも取得してるのか? はたまた市ヶ谷並の地獄耳の持ち主だったのか?
そんな俺の驚愕を余所に、「アラアラお鍋が吹き零れてしまうわ」などと言いながら台所に戻って行った。
玄関先にポツンと残された俺は、これ以上話がややこしくなる前にとっとと退散することにした。
「じゃあ、お邪魔しました~」
返事はない。
ふと……この家には誰も住んでないんじゃないかといった感覚に囚われる事がある。
いや、勿論たった今も台所から調理の音と匂いが伝わって来るのだが……何故かそう感じることがあるのだ。
きっと……俺は怖いのだ。この時間をいつか失ってしまうんじゃ無いかと。
そんな考えを消し去るようにかぶりをふりながら、俺は佳奈の家を後にした。
ホント……自分が弱くて嫌になるな。
■■■
「どうだった?」
家に戻るとお袋が含み笑いを隠しきれない顔をして聞いてきた。
「別に……いつも通りたが?」
そう答えると、心底残念そうに肩を落とす。
「はぁ……その様子じゃあ、進展無しかぁ……」
「朱鷺子さんと似たような期待すんな……ネシャートが何かと思うだろうが」
ネシャートはリビングに通じるドアのあたりから――話し掛けるタイミングを伺っているのか、小さな身体を引き戸の陰に隠しぎみにしてこちらを観察している。
そちらに目配せすると、一呼吸置いてから、おずおずと近づいてきた。
「あ……あの……」
「そんな顔しなくても大丈夫だから……ただ、自分の居場所が無くなりそうで、ちょっと不安になっていただけだから」
「嫉妬? 嫉妬なのね!」
お袋が言うと、多分に余計な意味を含んでいそうだが、今は取り敢えず無視する。
「嫉妬……? よく解りません」
「え?」
「言葉の意味は解ります。ですがどの様な感覚なのか……魔人である私には感情で理解出来ないんです」
そういうものなのか?
まあ、人間と異なる存在である魔人が人間を好きになったりしないだろうし、誰かに呼び出されないと外にも出れないのであれば、他の魔人に会うことも無いのだろう。
……だけど……寂しくはないのだろうか。
俺の表情から何かを読み取ったのか、ネシャートが少し慌てたように付け加える。
「あ、いえ、ご主人様のことは好きですよ? 出会えたことも嬉しく思っています。ただ、私達はあくまでご奉仕する立場として主人様に対して好感を持つことがあっても、ご主人様を独占したいと思うほど好意を抱くことは本来は無いんです」
この言葉に、俺は僅かな疑問を抱いた。
昨日からこのかた、俺はネシャートを喜ばせるような――ましてや好かれるようなことはした覚えがない。
さらには、現時点においては何らかの阻害要因によって願いが叶えられない状態にあるため、ネシャートが言うところの『御奉仕する事』が出来ないのであれば、好意を感じる事もないように思える。
契約者に対し、そうなるよう制御されているのはないかとの考えが過ぎるが、それを否定するようにネシャートは続けた。
「ご主人様は、例えば誰かを傷つけてるような、誰かを蹴落とすような願いをしたいと思いますか?」
突然の質問にしばし黙考する。
「いや、そういう願いはないな……もしかして、今までネシャートが願いを叶えてきた人の中には、そんな願いを言う人がいたのか?」
「はい、そう言う人達もいます。ですが、ご主人様はそんな願いを口にしない。いえ、思い付きすらしない人です」
「いや、流石に買いかぶりすぎだよ」
そうだ、買いかぶりだ。
俺はただ、強い願いが無いだけだ。
誰かを傷つけてでも、誰かを陥れてでも叶えたい願いが、渇望が無いだけだ。
そう言えばネシャートは解放を望むと言っていたが、それだけが彼女の望みだろうか。
もっと強い願いは無いのだろうか。
「ネシャートは……解放だけが望みなのか?」
「どういうことでしょうか?」
ネシャートは本当に俺の言葉の意味が分からないように、眼をクリクリさせている。
「いや、例えば、もっとやってみたいこととか、夢とかないのかなって思ってさ」
「夢……ですか?」
「……もっと自由に何かを思って、考えて良いんじゃないかって」
「自由……ですか?」
「そうだ」
「駄目なんです。私達は特別な『力』を持っています。その力を自由に使えないよう、ある種の制約が私達に課せられています。そうでもしなければ、世界に対し、悪影響を与えかねません」
そう言われると反論の余地がほぼ無い。
ネシャートの言うとおり、もし好き勝手に自分の願いを叶えられるのなら、自分に都合の良いように世界を作り替える事だって出来るだろう。
「実際、欲望の赴くままに契約者を操って、世界を混乱に導いた例もあるんです……」
そんなこともあるのか……そうなると、自由でいろなんて言葉は無責任な言葉なのかもしれない。けど……。
何故、ネシャートのような魔人が生まれたのかは、俺には解らない。
どの様な制限や制約があるのかも、俺には解らない。
ただ、心くらいは自由であっても良いんじゃないか?
「けど……『力』を使わない範囲でなら自由で良いと思うんだが、それも駄目なのか?」
「力を使わない範囲……でですか?」
「ああ、例えば誰かと一緒にいて、笑い合って……そういうのは駄目なのか」
「誰かと笑い合う……」
ただ願いを叶えるために呼び出され、願いを叶えたらそれっきり……。
そんな生き方は哀しすぎると思うのは、人間の感覚なのだろうか。
「過去にそういう魔人はいないのか?」
ネシャートは僅かに思案すると、小さく呟いた。
「多分……一人だけ……」
「その魔人は世界を壊したりしたのか?」
「……いえ」
「なら、そのくらいは自由で良いんじゃないかな?」
ネシャートは暫し目を閉じ、やがて小さく頷いた。
その間、お袋は茶化すでもなく夕飯の支度を整え、やがて「そろそろ御飯にしよっか?」と小さく聞いてきた。
そういや、結局今日は朝飯食ったきりだった。
「お、了解。ほら、ネシャートもこっち来い」
ネシャートは、俺の声にゆっくりと目を開けて、にこやかに笑みを浮かべると
「はい!」と強く答えた。
眩しい程の笑顔を浮かべるネシャートを見ると、その度に思うことがある。
魔人って、結局なんなんだ?
だが、何故か俺はそれを正面からネシャートに聞く気にはならなかった。
■■■
暗闇が結界のように満たされた部屋に何かが蠢いている。
人だ。二人の男女。暗がりの中で己の欲望に身を任せた男と……女。
絡み合う二人の姿が、月明かりと遠くの街明かりによって歪に浮かび上がる。
淫靡な臭いと嬌声に満たされた部屋。
その空気に踊らされるように男は女の身体を求め続ける。
男の身体の線は細い。大人どころか青年にもなりきっていない十代の少年だろう。
対する女も恐らくは同年代だろうか。だが、それはあくまで外見が十代の少女に見えるという話に過ぎない。少年の全てを受け入れ、抱き止め、弄ぶその女は、決して少女のものではない。娼婦のごとき仕草で、少年を虜にする。
聖女ではなく悪女。清楚ではなく濃艶、そして淫猥。そんな『少女』がそこには存在した。
少年は少女の身体に夢中になっていた。
しかし、少女は少年に抱かれながら、その目は少年を見ていない。
貪るように少女を求める少年を見ずに、ただただ虚空を見上げる。
別に少年に抱かれることを絶望しているのではない。ただ、少女は少年に集中していないだけに過ぎない。その目は少年ではない別の何かを見つめていた。
少女のそんな様子に気付くこと無く、少年は少女の胸に顔を埋め、愛撫をし、拙い動きで腰を振る。
少女はそんな少年の髪を優しく撫でるが、そうしていても少女は少年を見なかった。
まるで恋人に抱かれながら浮気相手に思いを馳せているかのようだった。
結局、少女は少年が絶頂に達しても、一度も少年を見なかった。
「どうしたの?」
少女の問いかけに、少年はビクッと身体を震わせる。
そのまま小さな嗚咽が漏れる。
「寂しいのね?」
少年は声を出さず、小さく頷く。
それまで虚空を見つめていた少女は、ゆっくりと少年に視線を落とす。
「私とこうしたこと……後悔してる?」
少年は少女の胸に顔を埋めたまま、顔を擦りつけるように左右に振った。
「なら……良かった」
少女は微笑んで少年の頭を撫でる。
暫く撫でられたままだった少年は、やがてゆっくりと顔を上げ、少女を見つめた。
だが、その瞳には、ゾッとするほど生気が無かった。
「貴方の願い……叶えてあげるわ。私なりの方法で……」
生気の無い少年の瞳に黒い炎の様な光が宿る。
「欲しい人がいるんでしょう? その人に傍にいて欲しいんでしょう? その人に自分だけを見て欲しいんでしょう? その人を他人に渡したくないんでしょう? 本当はその人と、こんな事をしたいんでしょう?」
少年は崇拝するような目つきで少女を見つめ、大きく頷いた。
「力尽くでモノにしちゃえば良いのに……あら、それは駄目なの? そう……受け入れて欲しいのね? でも……受け入れてくれるのかしら?」
少年が脱力して再び少女の胸に顔を埋める。その肩は小さく震えていた。こうしている姿は見た目の年齢より幾分年下に見えた。
「貴方の手に入らないの?」
コクリと頷く。
「その人には、誰か他に大切な人がいるのかしら?」
少年は固まったまま身じろぎすらしない。
「それでも……欲しいんでしょう?」
少年はハッキリと頷く。同時に肩の震えが大きくなる。再び嗚咽が漏れる。
少女はそんな少年をなだめるように、優しく背中をポンポンと叩く。
「ならばその人を生まれ変わらせましょう。そう生まれ変わってしまえば、きっと貴方だけを見るわ。生まれたばかりのヒヨコが初めて見たモノを親だと思うように……赤ん坊が親に縋るように……」
少年が顔を上げ、少女を覗き込む。
その目には「どうやって?」と疑問の色が浮かんでいる。
「あら、そんなのは簡単よ」
少女が少年を優しく見つめる。慈愛に満ちた少女の瞳。その奥に真逆の心が潜んでいることに少年は気付かない。
「一度、殺してしまえば良いのよ……」
少年が驚愕に震える。
そんな少年を少女は微笑んだまま優しく撫でる。何で少年がそんなに驚くのか理解しようともせず、ただ少年をなだめるように優しく抱き寄せる。
「そう、殺してしまうの。何がそんなに恐いの? 恐いことなんか何もないじゃない。私が必ず生き返らせてあげるから。生き返らせて、その時に君だけを見るようにしてあげる。その時に君だけのモノにしてあげる。そうね……殺して、お葬式して、火葬される直前にこっそりその子の肉体を奪って、貴方の前で生き返らせてあげる。生き返らせて貴方だけを見るようにしてあげる。そうすればその子は死んだと思われて、二度と貴方以外のモノにはならないわ。火葬される子はどこからか適当に見繕って……あら、良いじゃないの。貴方にとって何の関係も無い人が一人犠牲になるくらい。貴方だってニュースで誰それが殺されたって聞いても『ふーん』くらいにしか思わないでしょう? 身近な人じゃない限り哀しくなったりしないものでしょう?」
少女の言っていることは無茶苦茶だ。自分の目的の為には他人の犠牲も厭わない、自分の身近の人間でなければ殺して良いなど、常人にはとてもじゃないか受け入れられる事柄ではない。
だが、少年は瞳に生気を宿らせることなく、黙って首肯した。
「良い子ね……そうよ、殺しましょう」
少女は少年を抱きしめたまま、虚空を見つめる。
「簡単よ……人間なんて簡単に死んでしまうから」
少年は少女の胸に顔を埋めながら、少し小振りな乳房を揉みしだく。
「大丈夫……傷一つ残さずに生き返らせてあげる」
少年の吐息が次第に荒くなる。
「だから君は心配しないで……」
少年の腰が妖しく動き始める。
「欲しいその人を……」
少女がピクリと身体を震わせ、僅かにうめき声を上げる。
「……殺して」
暗闇に満ちた部屋が淫猥な空気に満たされた。
■■■
少年はすうすうと眠っている。少女の上で、しがみついたまま眠りについている。
獣の様に求め合い、体力の限り交わり合って、そのまま眠りに落ちたのだろう。まるで全ての生気を失ったかのように深い眠りについている。
少女はそんな少年を抱きしめたまま、やはり虚空を見つめていた。
その瞳の先には何が映っているのか。
ただ少女は、自分にしか見えない映像に酔いしれているようだった。
「ああ、早く……早くモノにしたいわ、私も……」
少女の微笑みが淫靡に歪む。
「そんな女の元にいないで、早く私の所に来て頂戴。そして、貴方の全てを私に捧げなさい」
少女はそう言って、虚空に手を伸ばし、そこに居ない誰かを抱き寄せるようにその両腕で虚空を掻いた。
「早く私に会いに来て……『コウちゃん』」
鉄塔の上から見つけたときのように、少女は少女にしか見えない『笠羽航一』を、うっとりと見つめていた。