8話 佳奈の抱える不安
「佳奈……入るぞ」
軽いノックと共に一声かけて、俺は佳奈の部屋の扉を開ける。
「入って良いなんて言ってない……」
「答えを待つつもりも無い」
佳奈はそろそろ夕暮れの赤が僅かにから藍色に変わる色に満たされた部屋で、ベッドに倒れ込むようにして伏臥している。そのまま、俺の方を見ようともしない。
ただ、ほんの少しだけ壁側にずれた。
相変わらず何も言わないが、その行為の意味を読み取った俺は、寝ている佳奈の脇腹辺りに空けられたスペースに座る。
俺の重みで軽くベッドが軋むが、その後は物音一つしない。
佳奈は俺を見ない。
俺も佳奈に背を向けて座り続けている。
そんな状態が何分経過しただろうか……赤みがかった色に照らし出されたカーテンが深い藍色に変わる頃、佳奈が先に口を開いた。
「……何とか言ってよ」
「何とか」
「馬鹿にしてる?」
「うん……ッてぇ」
脇腹をつねられた。
「余分なお肉ついたね」
「うるせーよ……俺より先に気がつきやがって」
つねられた事実より、つねる時にかなりのボリュームの肉を摘まれた事が精神的に痛い。
……春休みの不摂生が祟ったか?
佳奈は力を込めるのは止めたものの、その細い指は脇腹をつまんだままだ。
「コウちゃんのことだもん。すぐ分かるよ……だから……余計なことも分かっちゃう」
「だからって何時まで摘んでるんだよ? 揉み出さなくて良いんだぞ?」
余計なことが何を指すのか、何となく理解はしている。
俺はネシャートのことを、一人の女の子として扱いつつある。
本質的には人間とは別物だと分かってはいるつもりだし、女の子として扱って良いものかとの疑問もある。そもそも何より性別があるのかすら疑わしい。
そんな俺の態度に対して佳奈が何か不満の様なものを抱えているのは察している。
同時に、それだけではない何かがあることも感じていた。
ただ、それが何なのかは俺にも解りかねた。
「ははぁん?」
俺はちらりと佳奈の方を見る。
佳奈の方は未だうつ伏せのまま、こちらを見ようともしない。
「なによ……」
突っ伏したままの佳奈が訝しげな声をあげる。
「妬きもち?」
「ななななっ! 何言ってんのよッ! そ、そんな訳無いじゃない! たたたっ……ただ……」
それまでほとんど動かなかった佳奈が、ガバッと上体を起こす。
俺を見る眼が大きく見開かれ、耳が真っ赤になるほど赤面している。
「ただ? ただ、何だよ?」
佳奈はもう一度布団につっぷし、半分だけ顔を埋めたまま俺の方を見る。
「ただ……たださ……今まで私達の間に家族以外の誰かが混ざる事がなかったから、違和感って言うか……」
「そうか? 別に共通の友達なんていただろう?」
今の佳奈の台詞を日吉が聴いたら、間違いなく凹むよな。
「そういうんじゃなくてさ……あんなにコウちゃんにベッタリな女の子って……その……初めてじゃない? 何か今までやってきた私の役目が次第に無くなりそうで……」
「やっぱり妬いて……イデデ」
再度、脇腹をつねられた。今回はひねりも入ってる。
「だから違うって言ってるでしょ! 」
そのまま、再び布団に顔を埋めてしまう。
「そりゃ、ちょっとはそういう気持ちも……」
「布団に語りかけるなよ、聞こえねぇから」
モゴモゴ言ってるのは解ったが、何を言ってるのかサッパリだ。
「コウちゃんに聴かれないようにするために、お布団に話しかけてるんだよ!」
お前は何処のぼっちだ。
「妬いているんじゃなければ、何なんだよ?」
「なんだろう?」
「おい」
もぞもぞと起き上がり、佳奈は俺と背中合わせになるように、ベッドの上に膝を抱えて座る。
「ごめん、私も良く分からない……だけど、何かが恐いの……」
「恐い?」
「うん」
「何が?」
「……ネシャートちゃんが……」
恐い?
ネシャートが?
それはどういう意味で……?
「別にコウちゃんが取られそうとか、そう言う意味じゃないよ……だけど、何故か私がコウちゃんの傍に居ちゃいけない気がするんだよ。何でだろう?」
何でだろうと言われても、佳奈が何をそんなに警戒しているのか分からない。
付き合いが長いから何でも分かっているつもりだったが、今の佳奈の気持ちが分からず、俺は多少困惑していた。
「ネシャートちゃんにとっての存在意義って何だと思う?」
はて?
そもそも自分自身の存在意義すらまともに考えたこともないのに、他の誰か――ましてやランプの魔人の存在意義なぞ分かるはずもない。
「あの娘はね……自分を呼び出したご主人様……つまりコウちゃんの願いを叶えること。コウちゃんの為に何かするために、そこに存在してるんだよ? 分かる?」
なるほど。言われて見れば、誰かに使役される為に存在するのなら、使役されなければ意味がないってことか……。
「しかし、そうだとして、お前は何でそこまで怖がるっていうか、不安がってるんだ?」
「何かね……私の役目が終わってしまう気がするというか……ネシャートちゃんが願いを叶えると何かが変わってしまいそうで……。なんかね、私の存在意義が無くなりそうで恐いの」
佳奈の……存在意義?
「いや、佳奈は……いや、俺も他の人も……何か存在意義があって生きてるなんて人はいないだろ?」
ランプの魔人は自身を解放する為、他者の願いを叶えると言っていた。
ならば契約者の願いを叶え続ける事が、ランプの魔人の――ネシャートの存在意義というのは分かる。
だが、一人の人間が、己の存在意義なんてものを――自身を鼓舞する為の言葉では無く真の意味で――感じている人間が果たしてどれほどいるだろうか。
当然、俺も自分の存在意義なんて意識をして生きていない。
それとも俺がおかしいのだろうか?
「佳奈……お前、自分の存在意義なんて分かってるのか?」
「……よく分からない……」
おい。
「でも……何かが変わってしまいそうで……凄く恐くなったの……」
先程部屋に入った時に比べ、相当に暗くなった薄闇の中、佳奈がゆっくりと振り向くのが感じられる。
耳元に佳奈の吐息が触れる。
暗いせいで視覚以外が鋭くなっているのか、ついさっきまではほとんど感じることのなかった佳奈の髪の匂い――シャンプーか整髪料か分からない――が鼻腔の奥に明確に拡がるのが認識出来る。
僅かに振り向くと、佳奈と眼が合う。僅かな光源を反射するその瞳がやけにくっきりしている。
「別に何も変わりはしねぇよ」
「コウちゃん……」
「俺もお前も……伊達に十年もお互い一緒にいるわけじゃねぇだろうが……」
俺は佳奈に聞こえるかどうかの声で小さく呟いた。不意にその呟きを鍵として、子供の頃の思い出が脳裏に甦る。
懐かしくも、ほんの少し恥ずかしい思い出……。
小さい頃の俺と佳奈……そして、当時の俺が佳奈に何を言ったのか……いや、佳奈に何を願ったのか……『最初のお願い』をしたのか思い出しそうになって、慌てて記憶の扉を開くのを止める。
危ねぇ……迂闊に思い出したら恥ずかしさのあまり頭を抱えてのたうつこと必至。そうなれば佳奈が確実に付け上がるので、それだけは避けたい。
周囲がかなり暗くなってて良かった……今、思い切り赤面しているはずなのだが、この暗がりがありがたい。
「うん? コウちゃん、今何て言ったの?」
「何でもねぇよ」
聴こえてない方が有難い。
「いーや。何か言ったよね? 伊達に十年も一緒にいるわけじゃないとか何とか」
聴こえてんじゃねぇか! マジ明るくなくて良かったぜ……俺、絶対今顔が赤くなってる。
「コウちゃんの口からもう一度聴きたいなぁ」
「リクエスト一回につき、料金二万円になります」
「高ッ! そして頑張れば払えそうな金額なのが腹立たしいっ!」
「フフフ……払えないのなら、諦めるのだな」
「う~……何か悔しい……あ、だったらさ、二万円払って子供の頃のコウちゃんの『最初のお願い』をもう一度聴く……」
「ぐああああああっ!それは止めろおおおおおっ!」
先程開きかけた記憶の扉を強制解放されて、俺は頭を抱えて床をゴロゴロと転げまくった。
「ちょっ……そんなに恥ずかしいの?」
「ち、違ッ! 恥ずかしいとかそんなんじゃないんだからねッ!」
「おおお、落ち着こうよ。ね? コウちゃんにそんな台詞言われても、私どうして良いか分からないよ! ほ、ほら、まずは深呼吸とかしてさ?」
「すー、はー、すー、はー……」
ちっくしょうッ! 動揺を隠せないどころか、全く制御出来ねえッ! 我ながら、ここまで狼狽えるとは想像していなかった。
いや、ほら。誰にだって一つくらいあるじゃん? 思い出したら冷静でいられなくなる過去って……一つじゃないけど。
「落ち着いた?」
「な……何とか」
俺は床に胡座をかいた状態で、何とかして平静を取り戻す。
「そか……あ、でも落ち着く前に電気点けて真っ赤になったコウちゃんの顔を拝めば良かったかな?」
「うわ、ヒデェ」
そんなことされたら、もう生きていけない。
「普段はコウちゃんに酷いこと沢山言われてるからね。たまには仕返ししなきゃ」
「そんなに沢山言ってるか?」
「うわ……この人自覚無いよ」
暗闇の中、本当に自覚が無いのかと疑いの眼差しでこっちを見る。
暫しの間、探るようにジッと俺を見つめていたが、前のめりになっていた姿勢を戻すと、大きく息を吐いた。
「まぁ良いか。コウちゃんが『最初のお願い』を覚えてたから」
十年前の話を蒸し返されて、ちょっと返答に詰まる。
佳奈は暗がりでも俺の様子が分かるのか、クスクスと笑っている。
「少しは気分が落ち着いたか?」
「え? あ……」
わざわざ佳奈の部屋に来た、その目的を果たせそうか確認すると、佳奈はそのまま押し黙った。
「お前は誰かに取って代われる存在じゃねぇんだ。だから心配すんな」
俺は立ち上がりながら、そう口にした。立ち上がる際、佳奈の頭をポンポンと軽く撫でる。
佳奈は「うん……うん……」と何度も頷く。頷く度に胸元に持っていった華奢な手を何度も握り直す。
こいつの感じてる不安……それは一つ所に長く居着いたことのない俺達が、お互いだけは奇跡的にずっと一緒にいることが出来たこれまでの時間……それがもし終わってしまったら……恐らくはそう考えてしまう事が怖いのだ。
勿論、この関係だって永遠に続く訳がないとは分かってはいる……が、それを受け入れるだけの覚悟が俺には無い。
恐らくは佳奈も……。
そんな弱さを少しでも塗りつぶしたくて、俺は佳奈にもう一言添える。
「傍にいる……そういう約束だろ?」
我ながら情けないが、これが俺の精一杯。
「うん…………コウちゃん……ありがと……」
鼻声になっている佳奈の声に、俺はこれ以上何も答えてやることが出来ず、ただ無言で頷くと部屋を後にした。