7話 魔人の願い
帰宅して、二階にある俺の部屋に入ると、自分でも吃驚するほどの溜息が漏れた。
想像よりかなり消耗していたのだろうか……制服の上着を脱ぐと、全身にどっしりと疲労が乗っかるような感覚に囚われた。
あの後、何とかネシャートに「航一さん」と呼ぶよう同意を取り付けたものの、明日からも気苦労の絶えない生活が続きそうな予感というか、不安に近いものを感じていた。
少なくとも小杉先生には今日の一件で目をつけられた事は容易に想像できる。
だが、何時までも不安に囚われている訳にもいかない。
ここは気持ちを切り替えて腹ごしらえでもしよう 。
時間は既に四時半を回っているのだが、昼飯を食べていないので、かなり限界が近い。ほんの軽くで良いので何か食べておきたい。
そう決意すると、俺は食料を求めて一階に下りていった。
一階のリビングでは、ネシャートが本の山に囲まれながら、お袋のノートパソコンを起動するところだった。
パソコンと睨めっこするランプの魔人って、いったい……。
「……お前……帰って来て早々に、何してんの?」
「あ、ご主人様!」
おい。
「あのさ、ネシャート……その呼び方止めるって言わなかったっけ?」
「はい。学校では『航一さん』とお呼びしますが、ご自宅では今まで通り『ご主人様』とお呼びいたします」
あ、そうなんだ……。
わざわざ呼び分けするなんて、混乱しないのかな?
そう思案しているとキッチンからニヤニヤしながらお袋が出てきて……。
「お帰り~。ご主人様♪」
「アラフォーをそろそろ超えそうな人に言われてもキメェ……グベボバアァァァァァッ!」
お袋の芸術的なボディブローが俺の肝臓に突き刺さり、俺は垂直に崩れ落ちた。
「再教育が必要なようね」
いや……それが必要なのはお袋の方だろう。そろそろ自身の年齢と向き合ってほしい。
「で……ネシャートはいったい何をしてんの?」
床に這いつくばったままの姿勢で先程の質問を再度繰り返す。お袋が「ダメージも回復していないのに質問を続けるのは見上げた根性だけれども、傍目には滑稽ね」などと笑っているが、とりあえず無視する。
ネシャートは床に突っ伏している俺の方を恐る恐る覗き込む。
「あの……今の時代のこの国のことを調べてました」
「勉強家だな」
素直に感心する。
「はい! この時代のことを正しく理解していないと、ご主人様に迷惑がかかりますから!」
良い子だ。
あまりに良い子なので頭を撫でたくなるが、崩れ落ちたこの体勢では少々難しく、未だダメージから回復していないため、起き上がって撫でてやることも今は出来ない。
実際のところ、無理して起きれば起き上がれないこともない、が正直なところ単に億劫なのでそのままでいるだけである。
だったらせめて優しい言葉でもかけてやるべきだろうか……。
「なあ……ネシャート…………フギュルルルッ!」
「うわっ! なんか踏んだッ! ってコウちゃん、何で床で寝てるの?」
「寝てんじゃなくて倒れてんだ! ボケェ!」
見れば私服に着替えた佳奈がリビングの戸口に立っている。
つうかさ……。
「白とかピンクばかりじゃなくて、たまには違う色にしろよなぁ? ケバブゥッ!」
「水色だって持ってるもん! じゃなくて、ドコ見てんのよ! コウちゃんのドスケベ!」
再び踏まれたが、その様な趣味は持ち合わせていないので、痛いだけである。
いや、お前もすぐ隠せば良いのに。
「佳奈……お前、不可抗力って言葉は知ってるか?」
「意味も使い方も知ってるけど、リビングの戸口で仰向けになっていることを不可抗力とは言わないと思うよ?」
くっ……残念なことに、億劫という理由だけで床にひっくり返っていた手前、この場は佳奈の言っていることが正しい。
「で……佳奈は何しに来たんだ?」
「不可抗力と称してコウちゃんがネシャートちゃんに何か悪いことしてないか見張りに来たんだよ」
『不可抗力』の部分をいちいち強調しないで欲しい。
「見張るのは構わないが、それ以前にその暴力行為を止めてからにしろ」
「え?」
「腹の上に乗っている足を退けろと言っている」
パンツが見えないようにスカートの裾は押さえたのに、足の位置がさっきから変わっていないのは何故なのか。踏まれてる俺の苦しみを解れ。
「またまた、嬉しいクセに」
いきなりお袋がとんでもなく碌でもないことを口走る。
「お袋の中では、俺は一体何時そういった趣味に目覚めたんだ!」
「えええっ? だって女子高生に踏んでもらうなんて、あと数年したら逮捕覚悟でお金払わないとやってもらえないのよ?」
「だから人を変な性癖があるみたいな言い方すんなッ! あと佳奈。そろそろ起き上がりたいからマジで足どけて欲しいんだが?」
「あ、ごめん」
やっとどいてくれたので、腹をさすりつつ上体を起こす。
「ところでアンタ、何しに降りてきたの?」
「昼飯食ってないから何かないかと思ったんだよ」
お袋は「あれ? そうだっけ?」と少し首を傾げたあと「じゃあ、何か用意するわね」と台所に入っていった。
「あの……大丈夫ですか? ご主人様」
ネシャートが近づいてそっと手を俺の腹に伸ばしてくる。
本当に良い子だ。
魔人にしておくのが惜しい。
「ああ、大丈夫だよ。ネシャートは優しいな」
そういってネシャートのネシャートの頭を撫でてやると眼を細めて嬉しそうにする。
魔人というより猫っぽい。
「いえ、その……私はご主人様の為に……お仕えしているのですから……その……このようなことは過分に過ぎます……でも……嬉しいです」
ネシャートが少し頬を染めて小さく俯く。
その様子にこっちまで恥ずかしくなってしまう。
いや、これ絶対魔人じゃないだろ?
「でも早く願いを叶えさせて欲しいです」
う。そうだね。
といっても『強い願い』ってのが思い当たらないんだよ。
「そういや、なんでネシャートは俺に願いを叶えて欲しいんだ?」
俺の言葉に一瞬にしてネシャートが固まった。
あれ? 聞いちゃいけなかったのかな?
「それはその、私に課せられた義務といいますか……私が魔人をやめる為に願いを叶えて欲しいのです」
「魔人をやめる?」
そんな事が可能なのか……いや、可能だからこそ望むのだろう。
いや、それより『魔人』を『やめる』ということを望むということは、ネシャートは生来から『魔人』ではないのだろうか……?
「はい……私たち魔人はいつか自身を解放するために願いを叶えているのです」
まるで何かに囚われている様なネシャートの言葉に、息を呑む。
同時に、直前に頭に浮かんだ疑問が、確信に近いモノに変わろうとしていた。
「何か……魔人というより……まるで…………」
「はい……私達は、ある意味で囚人なのです」
俺の疑問の先回りをするようにネシャートが答える。
何故、彼女は囚人なのか。
魔人とは何なのか……聞いてみたかったが、安易に聞くことは何故か躊躇われた。
代わりに魔人から解放される手段を確認すべく、言葉を紡ぐ。
「それは、契約者の願いを叶えることでしか……」
「はい、そうでなければ解放されません」
ネシャートの言葉がより一層重く感じられる。
「解放……されたいんだよね?」
「私はそれを望んでいます……ただ、中にはそれを望まない魔人もいるようです」
「解放を望まない魔人?」
つまり、ネシャート以外にも魔人が存在するということか……。
そして……虜囚であることを受け入れ、そのまま生きようとしているのだろうか。あるいは、魔人であることを最大限利用しようとしてるのかもしれない。
俺の疑問は続くネシャートの言葉によって、あまり嬉しく無い回答を得ることになった。
「はい……己の欲求のまま、自らの力を振るう魔人も存在します……もっとも、願いの力は契約者が存在しなければ発動出来ない筈なので、本当に自在に扱えているのでは無いと思うのですが……」
己の欲求のまま……契約者の願いを叶えるためでは無く力を使う……そんな魔人もいるのか……。
かたん……。
扉が開く音に顔を上げると、佳奈がリビングから出て行こうとしていた。
「あ……うん、あまり私が聞いてちゃいけない様な気がするから、帰るね」
そう言って、佳奈は扉を閉めた。
確かに少々重苦しい話だ。俺自身もこの話をこのまま聞いていて良いのか、判断に困ってはいた。
ただ……佳奈の横顔が、酷く沈んだように見えたのは気のせいだろうか。
その態度が何処か『らしくない』。
聞いちゃいけないなどと言っていたが、聞きたくないのを避けたように見える。
「ご主人様?」
「あ、ああ。御免。えと今の話、俺も聞いてて良い話なのかな?」
「あ……」
ネシャートは自分が話した内容の意味に、今気がついたように顔を上げて俺を見た。いや、別に話してしまうことが問題なのではないだろう。ただ、わざわざ話すべき内容では無かったことを話してしまったことに後悔しているように思えた。
「あの……すみません……ご主人様は話しやすくて、つい聞かせなくて良い話まで話してしまいました……」
そう言ってまた視線を落とす。
「いや、謝るようなことじゃないだろう……」
「でも……」
本当は聞いて欲しかったんじゃないのか?
そう思ったが、端々に感じられる言葉の重さに、今はまだ聞く覚悟がない。
なにより、先程の佳奈の態度がどうにも気になってしまい、話に集中出来そうにない。
「あのさ、ネシャート……ちょっと俺、出掛けるから……」
「なにアンタ、出掛けるの?」
台所からお袋が顔を出す。
あ、飯の用意してたんだっけ。すっかり忘れてたのだが、思い出した途端、腹の虫が鳴いた。それでも今は一旦空腹を忘れるよう努める。
「ああ、ちょっと……」
「なら、このまま夕飯のしたくをしちゃって良いわね?」
お袋はそう言って、ちょっと嬉しそうに笑った。
いや、なんか嫌な含みも見えた……。
「あのご主人様……いつか私の話を……聞いて貰えますか? 私が聞いて欲しい事を……いつか全部、聞いてくれますか?」
「ああ、ネシャートが話したいのなら、今度必ず聞くよ。俺も、もっとネシャートの話が聞きたいし……」
ネシャートは泣きそうな顔を隠すように少しだけ笑みを浮かべてから、コクリと頷く。
俺は軽く手を振って、リビングを後にした。
「少し、あの人が羨ましいです……」
ネシャートの最後の言葉は、俺には聞き取れなかった。