28話 市ヶ谷の戦い
ブツブツのと何やら呟きながら山野が市ヶ谷に近づいていく。
血塗れのナイフを握った右手がブルブルと震え、それを見た市ヶ谷の顔が恐怖に歪んでいるのが見える。
「ごぼ、ばはっじゃぁ……」
このままじゃ駄目だ。
せめて、市ヶ谷だけでも逃げて欲しい。
切実にそう思う。が、同時に情けなくもなる。
俺は、佳奈ともう一度会うどころか、市ヶ谷も木嶋も、そしてネシャートも守ることが出来ない。いや、自分自身すら守ることができない。
そんな自分に嫌気が差すが、だからと言ってこのまま何もせずにはいられない。
立ち上がろうとする。
膝が震え力が抜ける。
山野が手に持ったナイフを振りかぶった。
――間に合えぇぇぇぇぇッ!
俺は全身に走る痛みを振り払う勢いで山野に飛びかかる。そのままの勢いで山野に圧し掛かるようにして地面に押し付けた。
「邪魔を、するなああああああぁぁぁぁぁぁぁぁあああっ!」
「がはッ!」
山野がまた俺を刺す。今度は背中だ。
拍子に喉に詰まっていた血の塊を一気に吐き出す。
ああ、これは駄目だ。
多分、死ぬ。
それでも、市ヶ谷だけでも……。
「に……げ、ろ……」
「で、出来ないよ」
そうだ。結界が張られている以上、逃げることはできない。
分かっている筈なのに、俺の口からは逃げろとしか言えない。
打開策が何もない。
「離せッ! 離せッ! 離せッ! 離せッ! 離せッ! 離せッ! 離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せ離せえぇえぇぇぇぇぇッ!!」
何度も何度も山野に刺される。
上から押さえつけているから力があまり入っていないとはいえ、その一撃一撃は確実に俺の体力を奪っていく。
もう、視界すら定かじゃない……。
「ねぇ、そのまま死んじゃっても良いの?」
恍惚とした表情でアワリティアが俺に聞いてくる。
視界も定かではないというのに、アワリティアのそのムカつく表情だけは、何故かはっきり見えた。
クソッタレ!
市ヶ谷を守りたい。
木嶋を助けたい。
ネシャートを開放したい。
山野を殴り倒したい。
アワリティアのニヤけ面を形が変わるほど殴りつけたい。
もう一度、佳奈に会いたい。
……まだ、死にたくない!
ネシャートに出会ったころ、何も願いが無かったと言っていたのが嘘のように思えるほど、今の俺の中にはあらゆる欲望が渦巻いていた。
だが、そのどれも叶えられそうにない。
「ならば私に願いなさい」
唐突にアワリティアはそう言った。
その言葉がひどく甘美なもののように思えたが、同時に吐き気も覚える。
それは決して、出血が多すぎて死に瀕しているからだけが原因ではない。
「私なら願いを叶えてあげられるわ。そこで苦痛に呻く娘も、その《ジーニー》も……皆、私が救ってあげる」
「そんなことをしたら市ヶ谷さんは僕のものにならないじゃないかッ!」
俺に押さえつけられたままの山野が叫ぶ。暴れて脱出しようとする山野を、何とか抑えようとするが、俺は健闘むなしく山野から引き剥がされた。
「大丈夫よ、その娘は《コウちゃん》に死んで欲しくなんかないんでしょう?」
「当り前よッ! 誰よりも死んで欲しくないわよッ!」
市ヶ谷が涙を零しながら、必死の形相でアワリティアを睨む。
そんな人間の敵意など気にした風もなく、アワリティアは言葉を続けた。
「だから、貴女は今後《コウちゃん》ではなく、そこの山野君を異性として意識しなさい。そうすれば《コウちゃん》は助けてあげるわ。山野君もそれで良いんでしょう?」
俺は朦朧としてきた意識のなか、先程のアワリティアの言葉が俺に向けられていないことを悟った。
――ならば私に願いなさい……。
あの言葉は市ヶ谷に向けたのだ。
市ヶ谷はどうするだろうか?
いや、俺なら市ヶ谷が死にそうになっていた時、そんな言葉をかけられたら、その誘惑に勝てるだろうか?
「貴女の幸せをこの山野君のために使うの。そうすれば《コウちゃん》は助かるし、山野君も幸せになる。それに山野君ならきっと貴女を幸せにするわ。それに《コウちゃん》は貴方を異性として見ていないんでしょう?」
「そうね、そうした方が幸せになれるのかしら?」
市ヶ谷!?
駄目だ。それは駄目だ! アワリティアの言うことなんか……と、俺にそんなことを言う資格があるのか?
俺は市ヶ谷の気持ちを知っていて、それに答えることができない。
自分の中で佳奈のことを整理出来ていないから。
いや、たとえ整理できても、市ヶ谷の気持ちに答えられるだろうか?
はっきり答えられると言えない俺に、市ヶ谷を止めることなんかできる訳が……。
そこまで考えて、俺の意識は急激に暗闇に飲まれ始める。
何かに引っ張られるように俺の意識が昏い闇に落ちていくのがわかる。
これが、死ぬってことなのか……。
だが、次の瞬間、市ヶ谷はきっぱりと言い放った。
「だけどそんなのは幸せなんかじゃないっ!」
「……何故?」
市ヶ谷の答えがアワリティアには理解できない。
そして……。
「なんでだよ……なんでなんだよ市ヶ谷さんッ!」
山野にも理解できないのだろう。先程まで激昂して真っ赤になっていた山野の顔がみるみるうちに青白くなっていく。
「やっぱり……やっぱりコイツさえ存在しなければ……」
「無理よ。例え笠羽君が死んでも、私は山野君を見ない。例え私が殺されるんだとしても、私は山野君を見ない。笠羽君が貴方に殺されたなら、私は一生、死んだ笠羽君のことを心に刻んで生きる。山野君を恨まない。憎まない。貴方のことなんか歯牙にもかけない。毛先ほども憶えておかないっ!」
市ヶ谷の言葉は、意識を失いそうになっている俺を一時的に覚醒させるほど深く俺の胸に突き刺さった。さっきまで山野が刺してきたナイフなど比べ物にならないくらい痛い。
憶えて欲しい人に覚えてもらえないこと。忘れられること。かつて市ヶ谷が最も辛いと思ったことを、そのまま山野に叩きつける。
「な……なんだよ……それ……」
今しがたまで市ヶ谷を殺そうとしていた山野は、身体を支えられないほどショックだったのか、ガクリと膝をつく。
「私の人生……後にも先にも、山野君は必要ない」
「や……やめろ……やめてくれ、やめてやめてやめてヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロオォォォォォがああああああああぁぁぁががががががっ!」
山野は頭を掻きむしり、獣の用の咆哮を上げる。
プツンと何かが切れる音が確かに聞こえ、山野はそのまま崩れ落ちて動かなくなった。
きっと当の昔に山野の精神はアワリティアに壊されていたんだろう。それが市ヶ谷の言葉を受け入れられず、完全に崩壊したのだ。
「そんなッ! 魔力が途切れた?」
アワリティアの口から、初めて驚愕の声が漏れる。動揺の色すら見えた。
「契約者が願いを放棄したからでしょう」
瓦礫の山からネシャートが這い上がり、そう言い切る。
市ヶ谷は俺に近付き、俺の上半身を抱き寄せると、強い意志が燃え盛る眼でアワリティアを見た。視界が狭くなった俺の目にも、今の市ヶ谷は凛として恰好良く映った。
すげぇよ。
何の力も無いはずの市ヶ谷が、その心だけで山野にもアワリティアにも勝ったんだ。
正直、心惹かれそうだ。
なんて佳奈に知られたら……怒るかな、アイツ……。
そこまで考えたところで、俺の意識は今度こそ深い闇の中に引き摺り込まれていった。
おお、佳奈がいない間にしっかり市ヶ谷がヒロインしてるw
佳奈「ちょっ!」




