20話 抑えられない苛立ち
俺達の心配など余所に、何事もなく無事にクラスに到着した。
教室に入るとき、妙な視線を感じた気がしたが、特に誰かが見ている訳でもない。
ネシャートも無反応なので、恐らくは気のせいだろう。《マリシアス》の件でナーバスになっているのかもしれない。
「おう! おっはようさん!」
少し遅れて日吉が登校し、俺にそう声をかけた。俺も「おっす」と返す。
「うん? なんだ? 月曜だから憂鬱なのは分かるけど、どこか悪いのか?」
日吉にも分かるくらいには落ち込んでいるように見えるということだろうか。
まあ、クラスに入ってだれも佳奈のことを聞いてこない、つまり誰も佳奈を覚えていないことに少々落ち込んでいたことは事実だったのだが、そこまであからさまに沈んでいたのだろうか。
「いや、憂鬱なだけだよ」
一端気合いを入れ直そうと、そう言って自分で両頬をピシャピシャと叩く。
「本当に大丈夫か?」
日吉が、ずいっと上体を乗り出すようにして俺を見る。こいつ、意外に鋭いんだなと、妙に感心してしまった。
「ちょっとこの休みに、落ち込むようなことがあっただけだ、気にするほどのことでもないさ」
「なんだ、女に振られたのか?」
ズキリと胸が痛む。あまり間違ってないかもしれない。
「そんなんじゃねーよ」
「まあ、なんだ。何があったか知らねえーけど、話くらいはいつでも聞くぞ?」
「ああ、サンキュー」
日吉の気遣いに心の中で感謝しつつも、ちょっとデリカシーに欠けるなと思ってしまう。
何度か女子に『日吉はデリカシーが無い』と言われていたが、そう言われるのも何となく分かってしまった。
未だ胸の奥はズキズキと疼くが、それでも俺は自分に大丈夫と言い聞かせる。
確かに時折、こんなふうに胸が疼くが、言ってしまえばそれだけだ。自分で抑制できない事は何もない。
日吉にも気取られるほど落ち込んでいる様に他人から見られていたことは少々驚いたが、それもこの後補正できるだろう。
だから大丈夫。
そう思っていた。
木嶋が登校して、当たり前のように俺の隣――佳奈の座席に荷物を置いて着席した瞬間、俺の頭の中は真っ白になった。
真っ白になって、視界がおぼつかず、めまいを覚え、やがて頭の中が怒りで真っ赤に染まる。
そして意図しないまま、俺は木嶋の肩を掴んだ。
「そこは佳奈の席だろうがぁッ!!!」
気がつけば俺はそう怒鳴っていた。
木嶋がビクッと跳ねて俺を見る。
その目には明らかな狼狽と恐怖が映っていた。
市ヶ谷が慌てて近づいて俺の腕を取る。眉を寄せ泣きそうになっているのを堪えたような顔をして、俺を見て首を左右に振った。
そこまできて、俺の頭の中の赤い靄が消え、怒りが急激に冷えると共に、自分が何をしたのか、何をしてしまったのか理解し、木嶋に対して申し訳ない気持ちで一杯になった。
「あ……その、すまん。木嶋」
そう言って俺は木嶋を放した。
木嶋は俺に捕まれていた肩を押さえて、俺を見る。何が起きたのか分からないのだろう、その表情から怯えと動揺が消えない。
市ヶ谷がギュッと俺の腕を掴む。その位置がやたらに熱い。
いや、熱いのは腕を捕まれているからではないだろう。
そうか。
俺はやっと理解した。
さっきまで、佳奈がいないことを何処か実感できずにいた。その理由がやっと分かった。
周囲に佳奈の痕跡が無いからだ。佳奈が存在した痕跡が無さすぎて、佳奈との記憶を結びつけられる事が極端に少なかったからだ。
精々、佳奈の家を見た時とアルバムを見た時くらい。
あとは、俺の周囲から佳奈の痕跡が全て無くなっていたから、今まであまり記憶を結びつけることがなかった。
だから、市ヶ谷の些細な行動がちょっと佳奈に似ているからと言って、年頃の女の子なら誰でもするような仕草に胸が痛んだのだ。
そんな俺にとって、隣の座席は数少ない『佳奈のいた痕跡』だった。
木嶋が隣の席についた瞬間、その痕跡を無惨にも無かったことにされたような気がして、佳奈を完全に否定された様な気がして、俺は激昂したのだ。
周囲のクラスメートが何事かと、俺と木嶋、そして市ヶ谷を見る。
そんな中、一人の女子生徒が俺に近づいた。
たしか高柳とか言ったか……。
「女の子に暴力ふるうなんて最低!」
突然高柳は大声でそう言い放った。
その言い振りからして、ほとんど事態を把握してないだろう。
事情を知らないどころか、自らに都合の良い事実を作り上げ俺を糾弾する高柳に腹を立てるが、いつの間にか傍まで来ていた市ヶ谷が俺の腕に絡みつくようにして俺を止めた。
その必死さが腕から伝わり、俺は何とか高柳に対して喚き散らさずに済んだ。
俺は市ヶ谷だけに聞こえるように「すまん」とささやいた。
「あの……僕が何か気に障ることをしてしまったのだろうか、ならば謝りたいのだが」
木嶋が逆に俺にそう聞いてきた。
文字通り、おっかなびっくりといった体で俺の様子を窺う。
その表情には恐怖や嫌悪、それ以外にも今の俺には理解できない――そもそも年頃の女の子の心理など、俺に分かる訳もない――様々な感情が入り乱れていて、何度も顔を青くしたり赤くしたりしている。
木嶋からすれば何が原因なのか分からないまま怒鳴られたのだ。理不尽な怒りに晒されて、どうして良いか分からないのは仕方ない。
「いや、木嶋が悪いんじゃない、俺の、その……勘違いだ。木嶋は何も悪くない」
そう言って俺は木嶋に頭を下げる。
「そうだよ、木嶋さんがあやまることじゃないよ。大体何があったか知らないけど木嶋さんに当たらないでよね!」
流石に言い方にムカついて、俺は高柳を睨む。
高柳はその瞬間に怯えて後退りした。
知らないなら口をだすんじゃねぇよ!
そう怒鳴りたい気持ちに振り回されそうになる。
「だからダメだって。今は抑えて」
それでも、先ほどから俺を抑えようと必死になっている市ヶ谷の存在が、何度も俺の暴走しそうな精神を押し留め冷静にする。
そうだ。
直前に木嶋に対し理不尽な怒りを向けておきながら、他人に怒りを向けられるとその相手を睨み返すなど、身勝手にもほどがある。
俺はほとほと救えない人間なのかもしれない。
市ヶ谷が必死に、だけど俺だけに聞こえるようにして引き留める。
「済まないが、高柳さんは黙っててくれないかな? 僕を庇ってくれることはうれしいが……」
そんな俺と高柳の間に入って、高柳を静かに制したのは木嶋だった。
うう、俺は何で木嶋につっかかってしまったのだろうか。あんな目にあっておきながら、冷静さを取り戻して場を納めようとする木嶋に比べ、自分の浅ましさが嫌になる。
「ちょっと貴方たち、何をしているの?」
そこで教室に入ってきたのは担任の小杉先生だった。
「笠羽君が木嶋さんに暴力を振るったんです!」
高柳がかなり悪意多めにした発言を聞いて、小杉先生は俺たちの方を見る。
つか、高柳はアレだな。自分のやってることが正しいと信じて、それで他人を傷つける事を厭わないタイプの人間だな。今後近づかないようにしようとそんなことを考える。まあ、そんなことを考えること事態が一種の現実逃避なんだが。
「違います。先生。確かに笠羽君は木嶋さんの肩を掴みましたが、暴力は振るっていません」
そう冷静に報告したのは市ヶ谷だった。
それをみた高柳が何かを言おうとしたが、木嶋がそれを手で制する。
「確かに僕は笠羽君に肩を掴まれました。ですが、それだけです。高柳さんの言うような事実はありません」
小杉先生は俺にも何か発言がないかというように、俺の方をじっと見る。
「はい。僕は木嶋さんの肩を掴みました。あと、そのまま怒鳴りつけています。そこで市ヶ谷さんに止められました」
俺の発言に小杉先生はしばらく俺と木嶋、そして市ヶ谷と高柳を見回す。
高柳がまだ何かを言いたそうにしていたが、木嶋と市ヶ谷に目で促され、そのまま黙っている。
なんとなくクラスの視線が、俺よりも高柳に集中している気がするが、気のせいだろうか。
小杉先生はそんな俺たちを前に、ふうと息を吐き出した。
「分かったわ。放課後詳しい話を聞きたいから、笠羽君と木嶋さん、それに市ヶ谷さんは指導室に来てもらって良いかしら」
「「「はい、分かりました」」」
俺たちはそろってそう答えた。
■■■
ホームルーム後、授業が始まるまでのわずかな時間でも、周囲の空気が普段と明らかに異なっている。
まあ、暴力とは行かないまでも女子生徒に掴みかかったのだから、周囲の俺を見る視線に嫌悪が混じるのは仕方ない。
というか、主に嫌悪の目で俺を見るのは高柳と、その高柳と仲の良い……確か森本と寺岡なんだが。
むしろ男子生徒を中心とした一部からはあからさまな嫌悪感を隠しもしない高柳たちに辟易としているふうでもあった。
あと、普段と違うと言えば木嶋。先ほどからしきりにチラチラと俺の様子を窺っている。
まあ、席に座った瞬間にいきなり俺に掴まれた挙げ句、怒鳴られたのだ。その理由が何か分からないのだから、当人にとっては気が気じゃないだろう。
だが、そんな木嶋に対し、俺も何と言うべきか言葉が見つからない。何せ木嶋も佳奈のことを覚えていないのだから、こちらも説明しようがない。
ただ、何れにせよ放課後になったらちゃんと話さなければならないが、それにしても何と説明したものか考えがまとまらない。
早々に説明しなければならないのに、それができない。だから俺はせめて木嶋に申し訳なさそうに視線を送った。
木嶋はそれだけで何か察したのか、わずかな微笑みを俺に返した。
後は皆、遠巻きにして俺たちを見るだけ。
市ヶ谷からは一通だけ「大丈夫?」とメールが来た。俺は一言、「後で少し頼らせてくれ」と返信する。
そんな空気を一切気にせずに俺に声をかけてきたのは日吉だった。
「本当、何があったんだよ? 朝から様子がおかしいとは思ったけどよ?」
「悪い。心配かけたか?」
「いや、全然」
「なんだよそれ」
何気ない軽口が、周囲の固まった空気に由良気を作る。ピリピリした空気が一瞬でほどけたように弛んだ。
本当コイツ、妄想癖さえなければ……というかその妄想をダダ漏れにさえしなければ、本気で異性にモテそうなんだけどなぁ。勿体ない。
「でも、本当のところ何があったんだ?」
「説明したいところなんだが、どう説明したら理解してもらえるか……」
「なんだよそれ、俺が馬鹿だから理解できるように説明するのが難しいってか?」
別に本気でそう思って言っているのではないだろう。日吉は普段通りにおどけてみせただけだ。
だからこそ、いい加減な付き合い方はしたくはないのだが、佳奈の事をどう説明して良いか、上手い言葉が見つからない。
「そんなんじゃねぇよ。ただ、俺が説明下手だから上手く言えないんだ」
「そうか……」
本当はちゃんと説明したいのに。そう思っている俺の意をくんだのか、日吉もこの場はあまり踏み込もうとはしなかった。
「すまん……ちょっと頭冷やしてくるわ」
「おい、もうすぐ授業始まるぞ?」
「ちょっとトイレ行ってくるだけだ。すぐ戻るよ」
「一人でバックれんなよ?」
俺は苦笑を浮かべながら、それは無いと手を振る。コイツ、俺がサボると言ったら付き合うつもりだろうか。といってもサボるつもりはない。第一、このままバックれたら後で市ヶ谷に本気で怒られる。
「一応これでも真面目な生徒のつもりなんだが?」
「真面目な生徒が一ヶ月に二回も指導室に呼ばれねぇよ」
鋭い指摘だった。
「……違いない」
そう言い残し俺は教室を出た。
次の瞬間、俺は廊下で誰かとぶつかってしまう。
その相手は、確か以前にもここでぶつかりそうになった男子生徒だった。
前回と言い今回と言い、何故余所のクラスの生徒にウチのクラスの前でぶつかりそうになるのか気になったが、今回は以前より大きな違和感があった。
何故かその男子生徒の顔面は蒼白だった。
信じられないものを見たかのように両の眼をひん剥いて、俺たちのクラスの入り口で硬直してたのだ。
一瞬、怒りが俺の顔に出たままになっているのを見て怯えたのかと思って自分の顔――眉間などをさわってみたが、どうやらそれが原因ではなさそうだ。
その男子生徒は俺を見ていなかったからだ。
その男子生徒は、俺を見て慌ててお辞儀をすると、そのまま自分のクラス――A組に入っていった。
なんだろう……いや、誰を見ていたのだろうか。
一瞬だけそんなことを考えたが、あまり時間に余裕が無いことを思い出し、俺は踵を返して洗面所に向かった。
最初はさっきの生徒が《マリシアス》かと思い、振り向いて教室をみたが、ネシャートの反応は特に普段と変わった様子が無かった。
ならばきっと自分の思い過ごしだろうと、心中に沸いた違和感と一緒に、その考えを自分の中から消し去ってしまった。




