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19話 欠けた日常

「おはようございます。御主人様」


 そう言ってネシャートがカーテンを開ける。

 元々覚醒しつつあった俺の意識は、日差しを目蓋越しに感じて一気に現実世界に引き上げられる。


「おはよう、ネシャート」


 昨日も思ったことだが、いまだ違和感が強い。とは言え、折角ネシャートが気を使って起こしてくれたのだ。その違和感をネシャートに気取られないように、自然体をよそおって上体を起こす。ただし上手く自然体でいられた自信はない。


「朝食の用意が出来ていますから、なるべく早く下に降りてきて下さいね」


 ネシャートはそう言って、俺の心情を気にしたふうもなく階段を降りていった。


「やっぱり、すぐ馴れるものでもないな……」


 足音が完全に遠ざかるのを感じると、急に寂しさのようなものを憶えてか余計な思いが口を付いて出る。

 部屋の中が普段より薄ら寒く感じるのは、夕べから少し寒さが戻ったからだろうか。

 いや、いかんいかん。

 このまま動かずにいると佳奈のことを色々考えてしまいそうだ。俺は軽く頭を振ってから早々に着替えて階下に降りた。


 ダイニングに入ると、食卓にはトーストにベーコンエッグ、スープとコーヒーにサラダ、そしてヨーグルトと普段に比べてかなり立派な朝食が用意されていた。


「珍しいな、朝からこんなに豪勢なのは」


 ちなみに普段はトーストにベーコンエッグ、コーヒーくらいしか用意されていない。下手すりゃトーストのみの時もある。


「今日はネシャートちゃんが用意してくれたのよ」

「これ、ネシャートが作ったのか?」


 魔法とかで用意したんじゃなく?


「あの……御主人様は昨日からあまり食事を召し上がっていないようでしたので……」


 ネシャートは頬を少しだけ赤らめてモジモジとする。


「あの! 食欲がわかないようでしたら無理されなくても……」

「いや、貰うよ。正直、かなり空腹なんだ」


 これは嘘じゃない。

 別段、食欲がなかった訳ではなく、何となく食ぺてなかっただけなので今頃になって腹の虫が騒ぎ出していた。

 ただ、以前に比べて食べることに執着がないというか、どこか疎かになっていることも、また確かだった。


「航一、アンタこのままネシャートちゃんを嫁にしちゃいなさいよ」


 お袋の何気ない軽口が胸にズキリと刺さる。いつもなら『佳奈ちゃんを嫁にしちゃいなさいよ』と言われていたのが『ネシャートちゃん』に置き換わっただけなのに、胸の奥を掻き回されるような痛みに平静を失いかける。


(ふざけたこと言ってんじゃねーよッ!)


 頭に血が上り、睨むようにして顔を上げる。

 その視線の先にいたネシャートが、ひどく哀しそうに視線を落とした。


「あ……」


 その姿を見て、俺の中で熱くなった感情が急激に冷えていく。おかげですんでの所で大声を出すのを堪え、代わりに大きく溜息をついた。

 くっそ……何でこんなにイラつくんだよ。自分の中に制御できない感情があるなんて、今まで無かったことなのに。

 自分の中に沸き上がる衝動がすっかり小さくなると、俺はやっとのことで「馬鹿言ってんじゃねーよ」とだけを口にした。

 そんな俺に、お袋は何も言わなかった。

 駄目だな。この程度のことですら動揺してしまう。

 そう自分に言い聞かせるが、そう意識するほど佳奈がいないことの重大さを思い知らされる。

 自身を落ち着かせるため、スープを一口すすると芳醇なコンソメとタマネギの旨味と匂いが口中に広がり、まるで時が止まったように目の前のスープを凝視した。

 しばらく言葉が出なかったが、口の中のスープをゴクリと飲み込んでからポツリと言葉を紡いだ。


「美味いな、これ」


 途端にネシャートの表情がぱっと明るくなる。


「本当ですか!?」

「ああ、本当に美味いわ。これ。すごい染み渡るっていうか……」


 そう言って二口目をスプーンで掬って口に運ぶ。

 途端に先程と同じく旨味が口一杯に広がり、ゆっくり味わってからそれを飲み込む。

 背筋に震えが走り、同時に活力が身体に行き渡る。


「ああ、旨い」


 そんな俺を見たネシャートは、さっきまでの哀しそうな表情が嘘のようにキラキラと輝かんばかりの笑顔を見せた。


「ほんの少しで良いからご主人様に元気になって欲しくて……でも、良かった」


 恐らくは世界で俺以外に唯一佳奈がいたことを知っているネシャートだからこそ、俺の気持ちが少しでも楽になるように考えてくれたのだろう。

その心遣いが、今の俺には大きな救いとなっている。


「ああ、すごい美味いよ……ありがとう」


 結局、俺は出された朝食を全て平らげた。朝から少し重いかもしれないが、それでも今の俺には必要なものだったのだろう。

 美味い食事って、それを食べられるだけで簡単に実感出来る幸せなんだと、俺はこのとき初めて心の底から理解した。



  ■■■



「いってまいります!」

「ってきまー……」

「あら、今日は随分と早いのね。いってらっしゃい」


 そう、今日はいつもよりかなり早くに出ている。

 理由は単純。

 ネシャートが市ヶ谷の護衛の為、一緒に登校した方が都合が良いとネシャートが申し出たからだ。

 例えば、例の《マリシアス》と相対した場合、その《マリシアス》にはネシャートが対応し、その間に俺は市ヶ谷を安全な場所まで誘導することが出来るから、登下校時はなるべく一緒に行動してほしいと提案され、俺はそれを了承した。

 なお、市ヶ谷には朝迎えに行くことを一応連絡してある。

 その為、市ヶ谷を迎えに行っても遅刻しない時間――普段より40分以上早い時間に家をでることになった。

 実際は普段より20分早ければ間に合うのだが、市ヶ谷本人から「クラス委員が遅刻ギリギリでは示しがつかない」ともっともなことを言われたため、この時間に家を出ることになったのだ。


 駅前を通り過ぎ、市ヶ谷の家の前まで来ると、丁度玄関から市ヶ谷が出てくるところだった。


「おはよう。本当に迎えに来てるのね」


 市ヶ谷はすこし呆れた様な顔をしながらも、柔らかい微笑を浮かべた。


「丁度出るところだったのか。良いタイミングだったな」

「ううん。今ネシャートちゃんが教えてくれたのよ」


 思わずカクッと膝が崩れる。


「そうか、本体はそっちにいたんだっけ」

「一応、そうなるわね。といっても常時姿が見えてる訳でもないし、普段と変わらないけど……突然目の前に現れたり消えたりするのにはまだ慣れないわね。今もいきなりだったから、思わず叫びそうになるのを止めるのが大変だったんだから」


 ため息混じりに市ヶ谷がそうこぼすと、ネシャートは申し訳なさそうに身を小さくして身じろぎした。

 俺がここに到着する直前にネシャートが市ヶ谷に俺たちの到着を教えたのだろうが、何が起きたのか何となく想像できる。


「で……どう? 少しは……気持ちの整理できたのかな?」

「どうだろうな。正直、良く分からないけど……でも、やっぱり些細なことで揺らぐことは、まだあるかな?」


 俺は率直な感想を述べる。弱音ととられても仕方ないが、この二人に対して虚勢を張っても昨日の今日だけに意味はない。

 それに……。


「どうした? 俺、今なにか変なこと言ったかな?」


 そんな俺をみて、市ヶ谷とネシャートは少し驚いたようだった。


「ううん。そうじゃないんだけど……」

「もう少し、私達に感情を隠されるかと思っていました」


 ネシャートの言葉に、もっともだと言わんばかりに市ヶ谷が首肯する。


「一昨日……一人で苦しむなって言われたからな……」


 ボッと音がしそうなくらいに市ヶ谷が一瞬で赤面して、俺の胸をポカリと軽く叩く。

 ネシャートはほんの少しの間、驚いていたがすぐにその表情を和らげ目を細めて俺と市ヶ谷を見ていた。


「さて、ここで話してても何だし、そろそろ行かないか?」


 そう二人に促すと、二人も俺のあとに続いた。

 登校中、何か話すことはないかと頭の中であれこれ思案してると、市ヶ谷がこちらの様子をチラチラと伺っているのに気づく。


「どうした?」

「あ、うん。その……なんでもない」

「何でもないって感じじゃないんだが……」


 市ヶ谷が何か言いたそうにしているのは俺にも分かった。言いたいことというか、聞きたいことがある様に思えたのだが……。チカちゃん……いや、市ヶ谷と再会してからの付き合いは浅いのに、なんでそう感じたんだろうか? 昔、仲が良かったから、何となく分かるのかもしれない。


「聞きにくいことか?」

「うー……まあ、そうなんだけど……」


 聞きにくいというと佳奈に関することだろう。確かに佳奈のことを整理できていない俺に聞くのは、躊躇(ためら)われるだろう。


「いいぜ。何を聞いても」


 大きく深呼吸してから俺がそう言うと、市ヶ谷はひとしきり考えた後、意を決したように俺の顔を見た。赤く染まった頬と、決意の漲る瞳に少しばかり動揺してしまう。


「先週まではその……『佳奈さん』って人と登校してたんだよね」

「ああ、そうだな」

「じゃあ、その……佳奈さんと…………腕組んだり、道中ベタベタしながら登校してたのかな!?」


 は?

 何を聞いてるんですかこの人は。


「なんなら、その、私が代わりに腕組んだり、ベタベタしてあげても……」


 ブファッ!

 思わず吹き出してしまった。

 何を聞いてるんですか、この人は?


「あの! いや! その変な意味じゃなくてッ! もしかしたら笠羽君、登校時に物足りないとか思っていたりとか、ってホント変な意味じゃなくて、何だったら代わりに私が腕を組もうかとかってこれじゃ変な意味にしか……」


 市ヶ谷があたふたと意味不明な発言をしている。本人も何を言っているのか分かっていないのか、目をグルグルと回しながら弁解とも言えない発言を繰り返した。普段の市ヶ谷からは想像もつかない姿に驚倒(きょうとう)する。


「いやいやいや、そんなこと無いから! 別に普通に登校してただけで……」

「え? 航一さん、何度か佳奈さんと腕を組んで歩いてましたよね?」


 ネシャートさんッ!

 何をおっしゃってますか!

 いきなり勘弁してもらえませんか!?


「確かにアイツが腕組もうとしつこいから根負けしたことはあるけど、それがデフォルトじゃないからッ!」

「腕組もうとしつこくした方が、普段通りってこと? ならそうするけどって、私何をっ!」

「いやホント! 大丈夫だから! っていうか、市ヶ谷。俺と腕を組んで歩いているところを他のクラスメートに見られても平気なのか!? 例えば日吉とか」


 それまで慌ててた市ヶ谷が急にピタリと止まる。ややあって「そうね……それも困るわね」とつぶやいた。


「ごめんね、なんか変なことを言って」

「いや、別に気にしてないから」


 市ヶ谷なりに俺のことを案じてのことだろうし……たぶん……俺と腕を組みたかったとか、そういう事じゃない……と思う。確かに昨日確認したアルバムにはそういう写真が何枚かあったけどね……。


「……少しは気にしてよ……」

「ん?」


 今何を言ったのか聞きそびれて、聞き返すが市ヶ谷はバツが悪いのか俺から避けるように視線を外す。


「何でもない!」


 そう言うとスタスタと少し早足で歩き始めてしまった。


「その……気を使ってもらって悪いな」


 少し先を歩く市ヶ谷に俺はそう詫びた。

 市ヶ谷の歩く速度が少し落ちる。おかげで俺は市ヶ谷に追いつくことができた。


「気を使ってるのは私だけじゃないし……」

「そうだな、ネシャートもありがとうな」

「いえ、私はその……少しでもお役に立てればと……」


 少し遅れて俺たちに追いついたネシャートは、上目遣いで恥ずかしそうにそう言った。


「でも、あまり甘えすぎないようにしないとな」

「なんで?」


 市ヶ谷が少しだけ口を尖らせて問い返す。


「うん……今は油断すると、誰かの優しさに甘えすぎて……溺れそうでな……」

「じゃあ、甘えた分、今度埋め合わせしてもらうってことで」


 市ヶ谷が人差し指を立てて、俺にそう言ってウインクした。


「そうだな、それなら尚のこと甘えすぎないようにしないとな。埋め合わせできなくなるのも困るし……あ、どんな埋め合わせが良い?」

「もう、そんなの自分で考えてよ」


 市ヶ谷がちょっと拗ねたようね膨れてそっぽを向いた。

 そんな普通の仕草に、一瞬佳奈を重ねてしまい、ドキリと心臓が跳ねる。

 いかん、いかん。

 いちいちこんなことで動揺していては、今後が思いやられるし、何より気遣ってくれる市ヶ谷に失礼だ。


「何か考えておくよ」


 俺は市ヶ谷とネシャートにそれだけ伝えた。


「期待しないで待っているわ」


 市ヶ谷がそう言うと、ネシャートも頷いた。

 まもなく駅前に到達する頃になって、ふと大事なことを思い出し、ネシャートに耳打ちする。


「そういえば、何か変な気配とかないか?」

「今のところこれと言ったことは……」


 そもそも今日、市ヶ谷と登校することになったのは、土曜日の通り魔と《マリシアス》を警戒するためだ。

 だが、取り敢えず今のところはこれと言った不審者は見あたらなかった。


「このあたりから、人が増えるから気を引き締めて行こうな」


 俺の言葉に、ネシャートは神妙に頷いた。


 もっとも、その心配は杞憂に終わり、何事もなく学校に到着した。


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