16話 神成佳奈の真実
「な……にを言って……」
言われた事に対する理解が進むに合わせるように、心の中を感情が激流の様に暴れ回る!
制御出来ない心に促されるまま、俺はネシャートに掴みかかった!
ネシャートの眼に怯えの色が浮かぶが、それを見ても躊躇うことすら出来ない。
「居たじゃ無いか! さっきまで俺達の目の前に! 一緒に食事して! 一緒に笑って! なのに存在しないってどういうことだよッ!」
「止めなさい! そんな風に一方的に声を荒げたら、彼女だって答えることなんて出来ないじゃ無い!」
そう言って市ヶ谷が俺の腕にしがみついた。
そこまでされても、俺は自分の激情を制御できない。
こんな事を言っても仕方ないのに、何の解決にも鳴らないのに、そんな事を言いたい筈が無いのに、それでも俺は怒りと焦りと悲しみがない交ぜになった感情に翻弄されるまま怒鳴り散らす。
「佳奈の事を憶えていない市ヶ谷に何が分かるッ!」
パンッ!
乾いた音が頬の辺りから響く。
何が起きたのか一瞬解らずに市ヶ谷を見ると、彼女は顔をくしゃくしゃにゆがめ、つり上げた瞳から大粒の涙をボロボロと流していた。そのまま市ヶ谷に胸ぐらを捕まれる。
「分からないわよッ! だからって分かろうとしてない訳がないじゃないッ! 私だって貴方の苦しみを分かりたいのよ! なのに分からないの! 分かりたいのにッ! 一番大切な人がッ! 大好きなコウちゃんが苦しんでるのに、その苦しみを理解してあげられないッ! 誰よりも理解してあげたいのにッ!」
え?
まただ。また市ヶ谷は俺の事を『コウちゃん』と呼んだ。
佳奈以外にそう呼ばれることに、少しばかり抵抗を感じるが、同時に何故か市ヶ谷がそう呼ぶことがすんなりと受け入れられた。
「だから……一人で苦しまないでよ……」
市ヶ谷が俺の胸元を掴んだままゆっくりと頭を下げる。
「…………馬鹿ぁ……自分だけで抱え込まないでよぉ……う……うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……馬鹿……ばかあ……」
市ヶ谷はしがみついたまま、大声で泣いた。
時折市ヶ谷の拳が力なく俺の胸板を叩く。
先程まであれほど血が上っていた頭は、驚く程冷めて落ち着いていた。
ネシャートはそんな俺達を申し訳なさそうに見つめている。
俺は市ヶ谷の背に手を回し、落ち着くように二度、三度、ポンポンと叩く。
そう言えば、昔もこんな事があったような気がする。ずっと昔、俺にしがみついて、どうしようも無いほど泣いていた子は……佳奈じゃなかったのだろうか……。
市ヶ谷はしばらくの間、しゃくりあげながら俺にしがみ続けた。
市ヶ谷が落ち着いた頃には、既に時計の針は二三時に近かった。
流石にこれ以上引き留める訳にも行かず、話の続きは明日すると約束して、今日は市ヶ谷を家に帰すことにする。
市ヶ谷も異論はないからと了承する。
市ヶ谷が家に連絡し、途中でお袋が電話を代わって長い時間引き留めてしまった事を詫びる。
俺はといえば、ネシャートと共に市ヶ谷を送るため玄関先で待機していた。
「あの……すみません、ご主人様。明日、市ヶ谷さんが来たあとで必ず説明しますから……」
ネシャートの言葉に、俺は自分の行いを恥じ入るばかりだった。
「いや、その……俺の方こそ悪かった。あんなに取り乱して……ネシャートに当たって良い訳がないのに……」
そうだ。あれは八つ当たりだ。自分では何もしていない癖に、願いが叶わないからと、周囲に当たり散らすクソ餓鬼だ。玩具を買って貰えず駄々をこねる子供となんら変わりは無い。
「それほど、ご主人様にとって佳奈さんは大切だと言うことです。本当に、羨ましいです」
「やっぱり、ネシャートは佳奈の事を……」
「はい、憶えています……その」
「分かってる、いずれにせよ明日だ」
もうネシャートにも市ヶ谷にも迷惑をかけている。自分の中に、早く佳奈の事を知りたいという気持ちは抑えきれない程に大きいが、それでもこの二人の気持ちを無視してまで聞くべきじゃないと、今は無理矢理自分を抑え込んだ。
そうやって抑え込めるのも、ネシャートと……なにより市ヶ谷のおかげだ。
やがて電話の終わった市ヶ谷がお袋に挨拶して玄関を出た。
「その、悪かったな……色々と……」
「ううん、冷静になってくれたなら、それで……」
「まあ、流石にああまで言われたら冷静に……」
市ヶ谷はビクッと肩を振るわせ、ゆっくりと振り向いた。
頬が真っ赤に染まり、わずかに涙を溜めた眦を吊り上げ俺を見る。
「……忘れて」
「え?」
「さっき私が言ったことは忘れてッ!」
そう言えばさっき、どさくさに紛れて何か凄いことを言われたような……。
「わ・す・れ・な・さい!」
市ヶ谷は考えるような仕草をした俺に、詰めよって忘却を強要する。
「マムッ! イエッス! マム!」
その迫力に気圧され、俺は背筋を伸ばして敬礼した。今は考えるのをよそう。
市ヶ谷を家に送り、出迎えに現れた市ヶ谷のご両親に遅くなった事を謝罪した。
市ヶ谷の両親は怒ることも無く、むしろ「アラアラ久しぶりねぇ」などと笑って迎えてくれた。こちらの勝手な事情で遅くなった手前、俺は恐縮するしかなかった。
市ヶ谷の家の玄関先から立ち去ろうとしたその時。
「ご主人様……大事な話があります」
いつになく神妙に、ネシャートが話しかけてきた。
「なんだ? いや、佳奈の事なら明日で……」
「いえ、そちらの話では無く、先程市ヶ谷さんが刺されたことについてなんですが……」
俺はぴたりと口を紡ぐ。
「あれは多分、《マリシアス》の手によるものだと思います」
「まり……しあす?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる。
「はい、私達魔人……別名をジンというのですが、大別して二種類のジンが存在します。まずは私のように契約者に従い、契約者の益となるべく願いを叶える《ジーニー》、そして契約者を生け贄とし、契約者の魔力を吸い上げ、害をなす《マリシアス》に大別されます」
「害をなす魔人……世界を混乱に導く……」
少し前に、ネシャートが言った言葉がよぎる。
──実際、欲望の赴くままに契約者を操って、世界を混乱に導いた例もあるんです……。
「はい……市ヶ谷さんに危害を加えた人物から、《マリシアス》の気配を感じました」
いつになく真剣なネシャートに俺の全身に緊張が走る。
「今も気配を感じるのか?」
「いえ、距離が離れている為か、今は何も……ただ《マリシアス》が関わっているとなれば、市ヶ谷さんは……」
ネシャートが言わんとしていることを直感し、さらに緊張が高まる。
「また、狙われる?」
ネシャートは黙って頷いた。
だとするなら、俺はネシャートに言わなければならないことがある。
「市ヶ谷を護って欲しい」
「はい! かしこまりました! ご主人様」
「あと……」
「はい?」
「ネシャート自身を護るのを忘れないで欲しい」
ネシャートはパチパチと大仰にまばたきして「私も……ですか?」と聞き返す。
「ああ。市ヶ谷を護れても、ネシャートが傷付いちゃ俺も市ヶ谷も悲しむだろう?」
ネシャートは返事をする代わりに、少し頬を染めて微笑む。
何時かと同じように、ネシャートは歌い出す。願いの歌を。でも何時かと違って、そこに狂気は感じられない。
ネシャートが発する光が凝縮し、その光はゆっくりと市ヶ谷の家の二階に吸い込まれていった。
「分身を作って市ヶ谷さんを護衛します。どちらかと言えば、護衛している方が本体で、今ここにいる私の方が分身ですけど」
そう言って、ゆっくりとお辞儀をする。
「えっと、分身する必要あったの?」
「一応、私の立場は『ご主人様の家にホームステイしている留学生』ですので」
「え? でも市ヶ谷の家にもネシャートが居るのは……」
「市ヶ谷さんの護衛は姿を見せない様にしてますので」
ネシャートは人差し指を立てて自身の口許にあてると、クスリと笑った。
帰宅した時には、間もなく日付が変わろうとしていた。
ネシャートが風呂から出た後に軽くシャワーを浴び、一息ついた所で、時計の針は既に深夜一時を回っていた。
ちなみに最初、ネシャートは俺の後で入ると言っていたが、少し考えたいことがあると言って無理に納得させた。
とは言ったものの、結局何も考え事らしいことは出来ていない。
「今日は色々ありすぎた」
俺はベッドに倒れ込むと大きく溜息をついてそのまま眼をつぶる。今日はこのまま寝てしまおう。
だが、眼をつぶった途端、脳裏に佳奈の顔が浮かんだ。
──ちょっと待ってよ、コウちゃん!
耳朶に残るのは佳奈の声。
そう言えば、市ヶ谷もさっき俺の事を『コウちゃん』と呼んでいた。
少し懐かしさを感じたりもしたが……俺の聞き慣れた声じゃ無いことに違和感も憶えた。
──コウちゃんは酷いなぁ。
そう言いながら本気で怒ったことはない。佳奈が本気で怒るのは縁を切るような話──勿論当の俺は冗談でしたのだが──をした時だけだったかもしれない。
──ずっと、コウちゃんの傍にいるよ。
そう言った佳奈は、俺の前から……この世界から消えてしまった。
──どうしたの? コウちゃん。
ちょっとはにかむように笑う佳奈。
──……コウちゃん。
少しだけ寂しそうに振り向いて、俺を呼ぶ佳奈。
──コ~~~~~~ウちゃん。
子犬みたいに、俺の後をついてくる佳奈。
──コウちゃん!
ちょっとむくれて、唇を尖らせる佳奈。
──コウちゃん?
──えへへ、コウちゃん。
──コウ……ちゃん。
──うん! コウちゃん。
──コウちゃん。ふふっ。
──ねぇ、コウちゃん。
──コウちゃん、ほらっ!
──コウちゃん。
眼をつぶると何度も佳奈の顔が浮かんでは消える。
笑っている佳奈。
怒っている佳奈。
泣いている佳奈。
恥ずかしそうにしている佳奈。
最近の佳奈。
中学生の頃の佳奈。
小学生の頃の佳奈。
昔の佳奈。
何時も航一の後に着いてくる佳奈。
ずっと一緒だと言っていた佳奈。なのに、今は何処にも居ない。
胸が締め付けられる感覚に、狂いそうになる。叫び出したくなる。それをしても何も変わらないと、別の自分がたしなめる。
ずっと居た人が居ない、何より誰も憶えていない事実。
何度も何度も佳奈の事が思い出され、その度に心臓を掻き毟られるような痛みに苦しみ、そして堪える。
──コウちゃん。
──コウちゃん。
──コウちゃん。
──コウちゃん。
──コウちゃん。
──コウちゃん。
──コウちゃん。
──コウちゃん。
──コウちゃん。
──コウちゃん。
──コウちゃん。
──コウちゃん。
──コウちゃん。
何度も何度も何度も何度も佳奈の声が聞こえる。
声に合わせて再生される佳奈の記憶が、その度に薄れていく気がして、俺は必死に細部まで思い出そうと記憶を探ってしまう。
結局、その日は殆ど眠ることが出来なかった。
■■■
「こんにちは。少しは落ち着いた?」
翌日、市ヶ谷が玄関先で俺を見て、そう言った。
どうだろうか。自分では正直分からない。
佳奈が居なくなった事実を受け入れきれない。だが、気が付くと佳奈が存在した痕跡が無い事を実感させられている。まるで真綿で首を絞められているような息苦しさを感じているが、これを落ち着いていると言って良いのだろうか。
「多分、自分じゃ良く分かってない」
俺は無理に笑顔を作った。
「そう……」
だがそんな俺を見る市ヶ谷は、酷く哀しそうだった。
「とりあえず、上がれよ」
「うん……お邪魔します」
市ヶ谷をリビングに招き入れると、丁度ネシャートが入れ終わった紅茶をテーブルの上に並べていた。
「さて、どこからお話したらよいでしょうか?」
テーブルを挟んで向かい側に座るネシャートがそう切り出した。
ちなみに市ヶ谷は俺の隣に座っている。昨日みたいに飛びかかりそうになったら、抑える為らしい。
「昨日も聞いたけど、ネシャートは佳奈の事を憶えているんだな?」
「はい、憶えています」
ネシャートのハッキリとした答えに、市ヶ谷が少し首を傾げる。
「じゃあ、私だけが忘れているってこと?」
「いえ、そうではありません。ご主人様が憶えていることが、イレギュラーな事態と考えて良いと思います」
「どういうこと?」
俺も市ヶ谷も頭の上に疑問符を浮かべる。
そんな俺の疑問にネシャートが出した回答は、俺を驚愕させるのに充分な内容だった。
「……ご主人様がそれまで継続して叶えて貰っていた『願い』を、昨日市ヶ谷さんを助けたいという願いによって中断したので、それまでの『願い』が無かった事になってしまったのです」
「え? ……それって」
「はい、『神成佳奈』さんは、かつてご主人様が私と同等、つまり別の《ジーニー》への『願い』によって作り出された存在であり、実在する人間ではないのです。ご主人様の傍に居ることを義務づけられ、ご主人様に寄り添うためだけに存在し続ける少女……それが『神成佳奈』という人物の正体なのです」
……佳奈が、作られた存在……?
そんな馬鹿な! と思うと同時に、心の何処かで納得してしまう部分があった。
例えば、俺と佳奈は何度引っ越しても別のクラスになったことが無い。それこそ、小学校の時から、高校二年の今まで一度も、である。
──ご主人様に寄り添うためだけに存在し続ける少女……。
ネシャートの言葉が重く俺にのし掛かる。
「ネシャート……君は、俺が願いを叶えたら前の『願い』は中断されると分かっていたのか?」
「はい……」
ネシャートは本当に申し訳なさそうに、身体を小さくした。少し怯えているように見える。
いや、それとも俺は今、ネシャートを怯えさせるような顔をしているのかもしれない。
「何故、教えてくれなかったんだ? 自分が解放される為か?」
「いえ、私達はお互い不干渉であることを義務づけられています。例え目の前に別の《ジーニー》がいても、会話以上の関わり合いを持つ事が出来ません。逆に言うと、私がご主人様の願いを叶える時、他の《ジーニー》が邪魔をする事も出来ません。その上、ご主人様がどの様な願いを継続して叶えてもらっているかを知ることも……。だから……」
「佳奈が俺の傍に居るとこが願いだと分からなかった?」
「すみません…………佳奈さんが《ジーニー》のなのは分かっていたのですが……」
え?
佳奈がネシャートと同じ《ジーニー》?
「やっぱり、ご主人様は忘れていらっしゃるのですね……」
「いや、だって……なんか本当に佳奈がその《ジーニー》だったら忘れそうにないんだけど?」
ずっと一緒にいたのに、佳奈が《ジーニー》であることを忘れるとは思えないんだけど……。
「それについては分かりません、もしかしたら佳奈さんが《ジーニー》であることを忘れることが願いに含まれていたのかも……」
「それだったら、願いを中断した時に思い出しそうなものじゃない?」
市ヶ谷が疑問を差し挟む。
確かにそうだ。願いの一部であったなら、中断したことで思い出す様に思える。
「佳奈さんの意志でご主人様の記憶を制御した可能性があります。理由は分かりませんが……」
佳奈が……何故?
「佳奈は俺に思い出して欲しくないのか……」
「それは絶対にあり得ません。それだけは分かります」
ネシャートは、この時ばかりは驚くほどキッパリと言い切った。
「何故そう思う?」
「ご主人様が佳奈さんのことを憶えているからです。本来なら忘れてしまってもおかしくないのに、こんなにも佳奈さんのことを……これは佳奈さんがご主人様にどうしても憶えていて欲しかったからだと……願いが中断され、強制的に神器──《神の工芸品》と呼ばれるアイテム……私の場合はランプですが──に戻される際にせめてもの魔力を使ってご主人様に憶えていて貰えるよう働きかけたからだと、推測できます」
本当にそうなら嬉しいが……。
「どうしても佳奈を……呼び出すことは出来ないのか?」
「はい。先程も申し上げましたが、《ジーニー》は他の《ジーニー》に干渉出来ないんです」
「そうか……」
俺の全身から力が抜ける。佳奈に会う手立てが見つからず、途方に暮れてしまいそうだ。
「ですから……ご主人様が思い出してください。佳奈さんの《神の工芸品》がどんなもので、何時どうやって佳奈さんに出会い、佳奈さんに何を願ったのか……」
そうだ……俺は何時、佳奈に出会った? どんな《神の工芸品》から呼び出して、何を願った?
小学校に上がる時か、それとも幼稚園の頃か……。
「アルバム……」
市ヶ谷がぽそりと呟く。
「アルバムを見ても分からないかな?」
いや、どうだろうか。今まで嫌という程に佳奈が居なくなった世界を見せつけられた。
今更アルバムを見ても、佳奈が写っていないだけで……。
「何時から写っていないか、記憶と違うところを探ってみたら、あるいは……」
なるほど。確かに俺の記憶と一致する写真と、一致しない写真が明確に分かれば、佳奈と出会ったのがいつ頃か分かるかも知れない。
俺は早速アルバムを取りに行った。
今の俺には、市ヶ谷に示された僅かな光明だけが頼りだった。




