15話 願いの代償
あまりの言葉に頭の中をハンマーでブッ叩かれたような衝撃が走る。
耳を疑った。
聞き間違いかと思った。
もしくは何か質の悪い冗談かと思った。
「な……何言ってんだよ? 佳奈だよ、佳奈……。神成佳奈……。今日……一緒に……居たじゃ……ねぇか……」
言葉の最後の方が掠れる。
咽が渇き、俺は一言一言を発する度に何度も唾を飲む。
「……笠羽君こそ何言ってるの? 今日はネシャートちゃんと三人だけだったじゃない?」
市ヶ谷の表情には、俺に対する疑問が浮かんでいる。俺が何を言っているのか本気で理解していない様子がありありと見てとれ、それは何時まで経っても消える気配がない。その目には嘘をついているような感情は見えない。それどころか市ヶ谷は俺が何を言っているのか、必死に理解しようとしている。
だが、そこには決定的な乖離が発生していた。
市ヶ谷が何を言っているのか俺には解らず……また、市ヶ谷も俺が何を言っているのか理解していない。
嫌な汗が耳元から首筋に向かって、絡み付くように垂れる。
今しがた感じた不安とは別種の不安が膨れ上がり、獲物を丸呑みにしようとする蛇のように、俺の精神に絡みつく。
何が起こっている?
「いや、佳奈だぞ? 神成佳奈。クラスメートの……」
「笠羽君? ウチのクラスに……神成さん? ……って人は居ないわよ? 他のクラスの人じゃなくて?」
市ヶ谷は俺を心配する反面、俺の言葉に疑問も持ち始めているように見える。
「本当に誰か分からないんだな?」
「うん……」
このまま佳奈の話をしても状況は進展しないだろう。
ここは一旦切り替えるべきだろう……。
俺は市ヶ谷に佳奈の事を確認するのを止めて、状況を変える為の行動を模索する。しかし全くといって良いほど、考えがまとまらない。
黙って考えていると、嫌な考えしか頭に浮かばない。
グルグルと悪い方へ思考が渦巻いて行く。
一刻も早く佳奈と連絡が取りたいが、その手段が思いつかない。
「ねぇ……」
市ヶ谷が恐る恐る聞いてくる。
「その、佳奈さんって人は、笠羽君の記憶では本当にクラスメートなのよね?」
市ヶ谷の気遣いが端々に感じ取れる。明らかに俺に気を使って言葉を選んでいた。
「ああ、それどころかさっきまで一緒だったんだ……急に連絡がとれなくなって……」
「なんとしてでも連絡を取りたい?」
市ヶ谷は俺の言葉を一切否定しなかった。
それどころか自らの記憶に無い少女であることを一旦脇に置いて、存在していることを前提にしてそう聞いてくる市ヶ谷の気遣いが身体の芯に染み入り、俺の心を包み込む。
「あのさ……ネシャートちゃんて、ランプの魔人なんだよね?」
「それだ!」
俺は市ヶ谷が言わんとする事をすぐに理解した。
ネシャートを呼び出して、もう一度願いを叶えて貰う。その方法なら、きっと佳奈に会える。
市ヶ谷がこの場にいてくれて良かったと心底思う。そうでなければ、俺はもっと取り乱していただろう。
となると、一旦家に戻らなければならない。
なにせ、ランプは自宅に置いてある。
だが、ふとここで市ヶ谷を見る。
一度市ヶ谷を家まで送った方が良いだろうか?
時計はとうに二一時を回っている。いつまでも高校生の女の子を連れ回す時間では無い。 なにより先程の通り魔が辺りを徘徊しているかも知れない。
やはり先に市ヶ谷を送るべきだろう。
「じゃあ、一旦笠羽君の家にもどりましょうか」
「はへ?」
市ヶ谷の提案に、反射的に間抜けな返事をしてしまう。
「いや、あんな事があったんだから、市ヶ谷は家に帰るべきだろう?」
「うん……私もそう思ったんだけど、笠羽君があまりにも平静さを欠いてるから……」
「うぐっ……」
市ヶ谷の一言が深く突き刺さる。
「ネシャートちゃんに願いを言っても、上手く行かなかった場合に、ネシャートちゃんを責めたりしない?」
返す言葉もないとはこのことだ。
ネシャートにだって出来ないことがある。幾ら俺が佳奈に会いたいと言っても、当のネシャートが佳奈を憶えていなかった場合、願いが叶わない可能性が高い。
そんな時、俺は冷静でいられるかと言えば、間違いなく無理だろう。
市ヶ谷はそんな俺の心を見透かしいる。
そう言えば、初めて会った日に『分かりやすいくらいに顔にでる』とか言われたっけ。ならば変に意地を張っても逆に心配をかけてしまうだろうか。
「……解った。」
市ヶ谷は俺の答えを聞いて、少し安堵した。
「市ヶ谷……申し訳無いけど一旦俺の家に戻って確認したい事があるから、付き合って貰えるか? その後必ず送るから」
俺はそう言って、市ヶ谷に拝むように手を合わせ願い出る。
「いいよ。ただし帰宅が遅れた言い訳は一緒に考えてよね」
そうにこやかに言う市ヶ谷に、酷く申し訳ない気持ちになる。
今後は頭が上がらないなぁ……。
「すまない」
「ううん……笠羽君が必死なのは分かるから」
そう言って市ヶ谷は俺の行動を受け入れてくれた。ホントゴメン。
普通なら呆れていなくなっても、不思議じゃ無い状況なのに、そうせずに俺に着いてきてくれる市ヶ谷に本気で感謝する。
市ヶ谷って……良い女だよなぁ……。
「その……佳奈さんって……大切な人なの?」
「あ……うん……そうだな」
今になって、どれほど佳奈が大切だったか分かる。
一〇年間、ずっと一緒にいたのだ。ほとんどの思い出は、佳奈が隣にいて成立した。
いなくなって、やっとその事に気が付く。
もし本当に佳奈がいなくなったとするなら……その事実を俺は受け入れることができるだろうか……。
俺は心の底に強い恐怖を憶えた。
佳奈が居なくなった事もそうだが、何より何時かこのまま佳奈の記憶が俺からも消えて仕舞ったら……そう思うと、腹の底の恐怖に膝を屈してしまいそうになる。物心付いて以降、俺の過去には必ず佳奈が絡んでいる。俺の人生のほとんどは佳奈という少女と共にいた人生であり、笠羽航一にとって神成佳奈は半身に等しい。もし俺の中から佳奈の記憶が消えたら……過去の半分を無くしたら、俺は笠羽航一でいられるのだろうか。
「そう……なんだ」
市ヶ谷は俺の言葉にすこし沈んだ声でそう答える。
「でも……その、ありがとうな?」
俺はその一言だけを、せめてもの感謝を口にする。
市ヶ谷は小さく頷いただけで、なにも言わなかった。
自宅に着いて、隣の家……佳奈の家を見る。
またも心臓を鷲掴みにされるような感覚が襲ってくる。
やめろ。
やめてくれ。
頼むから、これ以上は佳奈の居た痕跡を消さないでくれ。
そう叫びそうになるのを、喉元で必死に押さえる。
胃液が逆流しそうな感覚が同時に発生するが、それも何とか飲み込んだ。
佳奈の家の人の住んでいる気配がない。雨戸は全て閉まり、家の明かり一つ漏れていない。留守というより、長いこと誰も住んでいないような寒々しさがあった。
決定的だったのは、門扉の脇にあるはずの表札が消え、代わりに貸し出し物件と書かれた札が下げられていた。
「そんな馬鹿な……」
無意識にそんな言葉が口をつく。
家に着く前までは『まだ朱鷺子さんは俺の家に居るかもしれない』『出てくる時はまだ居たのだから、きっとまだお袋と話をしているだろう』などと不安を押し込めるよう自分に言い聞かせていたが、そんな淡い期待など、完全に吹っ飛んでしまった。
本当は解っている。
頭で解っているが、感情がそれを認めてくれない。
その感情がただひたすらに、俺の胸をキリキリと締め付ける。
俺は心がひび割れていくような錯覚を覚えた。
「ただいま」
玄関に入るとお袋が俺を出迎えた。
一目俺を見るなり、幽霊でも見たような顔をする。
「あんたどうしたの? え? 市ヶ谷さんも一緒なの? どういうこと?」
俺はよほど酷い顔をしていたのだろう。
普段なら、『帰り道に市ヶ谷さんを襲ったんじゃ無いか?』ぐらいの軽口がでそうなものだが、俺の表情を見た瞬間に固まってしまい、珍しく狼狽えている。お袋に心配をかけてしまったと慚悔するが、同時に何時もの口調で話しかけられなくて良かったと僅かに安堵する。
ここで普段のような会話をされたら、怒鳴り散らすだけでは済まなかっただろう。
「あ、すみません。私が忘れ物をしてしまって……」
「ああ。そうなの? それだけなら良いけど」
お袋はかなり怪訝そうに俺を見たが、取り敢えずこれ以上何も聞けないと思ったのか、そのままリビングに戻った。
俺は心の中でお袋に謝罪し、市ヶ谷をつれて二階に上がった。
ネシャートの部屋に入り、ランプを探す。程なくして机の引き出しからランプを取り出し、俺の部屋に移動する。
仕方ないとはいえ、女の子の部屋に黙って入るのも、そのまま部屋に留まるのも気が引けた。
「それがその、例のランプ?」
市ヶ谷が興味津々といった体で、ランプを注視する。
「ああ、そうだ」
はたしてこのランプ、何度もネシャートを呼び出せるものなのだろうか?
そんな疑問がよぎったが、いつまでも疑問に思っても仕方ないと、考えるのを止める。呼び出せなかったら、呼び出す方法はその後で考えれば良い。
俺は恐る恐る、まるで傷付きやすい調度品に付着した埃を拭うようにして、ランプを擦る。
ブッシューーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!
「きゃあっ!」
最初の時と同じように、ランプの先端から大量の光る煙が吹き出し、視界が白く染まる。
市ヶ谷は流石に事態を予測できなかったのか、今まで聞いた事も無いような可愛らしい叫び声を上げていた。直後、口許を抑え、顔を真っ赤にして俺を睨みつけていた。
ランプからあふれ出た光が渦を巻き、凝縮する。光は密度を増し、質量を持ち、人の形を、ネシャートの形を作り上げる。
ゆっくりとその瞼が開き、恭しくお辞儀する。そして……。
「ご主人様! どの様な願いでもお申し付けください! 私は貴方の下僕。そのランプの契約者の奴隷でございます!」
最初の時と同じように、そう高らかに宣言した。
一部始終を見ていた市ヶ谷は「ああ、だから学校で『ご主人様』って言ってたのね」と妙な所に納得をしていた。
ネシャートが頭を上げて俺を見た。
一瞬で何かを悟ったのだろうか、途端にネシャートの表情が暗くなった。
「もしかしてネシャート、俺の願いが何か解ったか?」
「はい……」
ネシャートの声が突然低くなり、重々しさを増した。
その態度が俺を不安にさせる。
同時にある確証を得る。
俺の願い、佳奈に会いたいと見当を付けたと言うことは、ネシャートは佳奈を憶えている。つまり、間違いなく神成佳奈は存在していた。
胡座をかいた膝の上に置いた拳に力が入る。
望む結果を得られそうにないと直感しながら、それでも渇望を抑えることも出来ずに、やっとの想いで願いを口にする。
「佳奈に……会わせてくれ。……佳奈に、会いたい」
「それは…………出来ません」
やっぱりと思いながらも、ショックのあまり気が遠くなる。
たっぷり三十秒ほどの時間が経過しただろうか、何も考えることが出来ずにただ、「何故?」と聞き返す。
「……神成佳奈と言う人は、最初から存在しないからです」




