10話 佳奈と一花
翌朝。
ドダバダバンッ!
ビビクゥッ!
部屋の中で何か重量のあるものが床を叩く大きな物音に、微睡みの中にいた俺は、驚愕に心臓と上半身を跳ね上げて目を醒ました。
ベッドの上に着座した姿勢のまま、派手な物音のした方に、ゆっくりと振り向き、不機嫌が煮詰まった様な目つきで物音の元凶を見つめる。
「…………何してるんだ? オマエラ?」
騒音の主達――どういう訳か絡み合って床にひっくり返っている佳奈とネシャートを問い詰める。
結構な勢いで倒れたのだろう……二人とも苦痛に顔を歪めたままバツが悪そうに振り返った。
まったく……床が抜けたらどうする。
「あ……おはよー……」
「お……おはようございます、ご主人様」
「おう。おはよう。で? 質問の答えは?」
再度確認。ここで誤魔化されるつもりはない。一度や二度なら見逃すのだが、始業式以降、この一週間、毎日に渡って心臓に悪い起こされ方をしているのだ。
「あの……コウちゃん……機嫌悪い?」
佳奈とネシャートがやや怯えた目をして俺を見る。
「心臓に宜しくない起こされ方をして、不機嫌にならない方がおかしいと理解しているか?」
毎日脅かされるように起こされて、機嫌の良い奴がいたとしたら、そいつは聖人君子を名乗って良い。そして俺は聖人君子じゃなくて良い。
「だって、コウちゃんを起こそうと思ったんだけどネシャートちゃんが邪魔を……」
「ですからそれは私の役目だと昨日も……」
お互いの責任を相手に押しつけんな。
「オマエラ、もう少し仲良くっつーか……」
「それは無理」
「無理です」
何で?
何故か日増しに対立が激しくなっているのだが、原因に全く心当たりが無い。
「じゃあせめて、部屋に飛び込んで騒音で起こすのは止めてくれ。心臓が停止したらどうしてくれる?」
「AED用意しておく?」
「心停止前提かよ!」
それが必要な事態にならないようにしてくれよッ!
今の言葉は暗に『対立は止めない』と言っているのだ。俺からすれば、かなり迷惑な話なのだが……。
ただ、その対立の理由が何なのか解らない。
二人に説明を求めたが、二人とも『上手く説明できない』の一点張りで、俺には為す術が無かった。
明らかに対立しているのは確かなのだが、今、俺の目の前で二人並んでチョコンと床に座り込んでいる姿を見る限り、お互いに嫌っているのでも無さそうだ。であるからこそ、余計に対立の原因が解らない。
あ、いや。
勿論、俺がとっと願いを叶えれば、ネシャートはランプに戻り、この奇妙な関係にも終止符が打てるのだが、結局この一週間、一度も願いは叶えられていない。
当然、願いを叶えて貰うべく、幾度かその願いを口にしているのだが、結局例の条件が成立しないのか、一度も実現してはいない。
余談だが、一度だけ出来心で『彼女が欲しい』と言ったところ、願いを叶える前に佳奈に全力でボコられ、ネシャートには「そんな方法で傍にいてくれる人を手にしても、本当の幸せにはならない」と真っ当な説教までされてしまった。
そういうときはこの二人も結託するんだけどなぁ……?
「まあ……もう良いから、せめて明日からは心臓に優しい起こし方になるよう努力してくれ。あと着替えるから二人とも一旦外に出てくれ」
俺は扉を開けて、二人に退出するよう促す。
……せめて対立の原因を少しでも話してくれれば良いのだが。
小学校の低学年だったか、俺と佳奈が大喧嘩した時のことが思い出される。あの時も、確か佳奈が怒り出した理由が分からず、ただひたすらに謝った。後で理由を聞いても教えてくれなかったっけ……。
……あれ?
何処か不満そうな二人を外に出し、扉を閉めて着替えを始めた俺は、ふと記憶の奥底で何かが引っかかるのを感じた。
なんだ?
今、何かが……。
「コウちゃ~~ん! 二度寝しちゃ駄目だよ!」
「分かってんよ!」
佳奈に釘を刺され、俺は記憶を探るのを止めて着替えることにした。
そのうち思い出すだろう。
■■■
「「行ってきま~す」」
「行ってらっしゃ~い」
スウェット生地のだぶついた寝間着をだらしなく着崩したお袋に送り出され、寝ぼけ眼を擦りながら駅に向かう俺を佳奈が急かす。
ちなみにネシャートは「今日は当番があるので」と言って先に行ってしまった。かなりこの国の学校生活に馴染んでるが、僅か一週間で馴染みすぎではないか?
「ほら、コウちゃん! モタモタしないで!」
佳奈が俺の腕を取ろうとしたところで、それに気付いてヒョイとかわす。
「何でかわすんだよう」
「捕食者にロックオンされたかの様な身の危険を感じて」
「野獣扱いされた!? 普通女の子は獣に例えられないよね?」
何で今日に限って腕を組もうとするんだ……。
明らかに不服そうな佳奈の表情、態度からは理由が読み取れないが、代わりに佳奈の目を正面からじっと見つめる。プレッシャーに耐えられなくなったのか、佳奈は視線をそらしてポツポツと呟く。
「いいじゃん、ちょっとくらい腕組んだって……今朝は折角ネシャートちゃんがいないんだから……たまには……」
「必死すぎて。軽く引くわ」
「そっ……そんなに必死じゃ無いよう!」
顔全体を紅潮させ、両腕を上下に振って抗議してくる様が、益々必死に見える。
「言い換えるなら、さり気無さを装ったゴム風船の中に、限界まで必死さとある種の焦りを詰め込んだ様な……」
「無駄に表現が多彩な上にかなり的確なのが腹立たしい!」
いや、だって、さっきからずっと俺の腕を取ろうとしてて止める気配がないじゃん。
「そう言えばさ……なんで、毎朝あんなに大騒ぎ起こすんだよ?」
「あうう……だって私が起こそうとしたらネシャートちゃんが全力で阻止するから……」
……そんなことを涙目で訴えられてもなあ……。
「つか、魔法が使える様な魔人と全力で張り合うなよ」
張り合える事が凄いのではなく、いざとなれば魔法なりで佳奈を部屋から閉め出すことも可能だろう事を考慮すれば、恐らくはネシャートが手加減しているのだろう。
……にしても良くやるよ。
「今朝なんか魔法で閉め出されたんだよ?」
割と本気だった。
彼女は頻繁にでは無いが魔法を使用することがある。人前では使わないよう言いつけているが、咄嗟に使ってしまうこともあるようだった。
「……佳奈はどうやって、それを突破したんだ?」
素朴な疑問。そんな手段を使われては部屋への突入など不可能だと考えるのが普通だ。ネシャートの方を見るが、バツが悪いのか、佳奈の陰に隠れてしまう。
「もちろん、勢いで! 力の源は勿論、愛……」
「馬鹿には魔法が効き難いって事が良く分かった」
「コウちゃんの曲解が今日も絶好調だ!?」
いや、結局のところネシャートが手加減していたってことだろ? それに気がつかず自力で突破したと考える馬鹿には結果として魔法が効き難いようにも見える可能性がある。あながち、俺の返答も曲解と言いきれないと思うのだが。
「コウちゃんが言葉通り捉えてくれなくて、私は傷付きました。お詫びに私と腕を組むことを所望します」
「ほら、急がないと遅刻するぞ?」
俺は佳奈の要望には答えず、鞄を抱え直して駆け出した。
「ウワアァァァァンッ! コウちゃんのケチーーーーッ!」
住宅街に佳奈の怨嗟の声がこだました。
止めんか、恥ずかしい。
■■■
学校が近づいて来ると、登校する生徒の数が普段よりまばらな事に気がつく。
佳奈から逃げるようにかなり早足で来たので、普段よりかなり早い時間に到着してしまった。
もっとも、電車の中では流石に捕まったが……。
「おはよう。結構早いのね」
教室の前で市ヶ谷が意外そうな顔で声をかけてきた。
「おう。おはよう……早いか? ……確かに早いな……」
教室の後の扉から入り、すぐのところにある俺の机に荷物を置きながら、そう言われればそうかも知れないと考える。
「市ヶ谷さん、おはよー……コウちゃんが意味もなく急ぐからだよう……」
佳奈が呼吸を整えながら、俺の左斜め前の席に荷物を置く。
「そういや、何時もより二本早い電車だったな」
「『そういや』じゃないよ……遅刻でもないのに、何で朝から何で全力疾走しなきゃならないんだよう……」
「佳奈が追っかけてきたから?」
「腕を取ろうとしただけなのに、何で全力で逃げるんだよう……」
わざわざ周囲の奇異な視線を集めるつもりが無いからな。そりゃ逃げるさ。
「朝っぱらから仲のよろしいことで……確か通学路が同じなんだっけ?」
教科書等をしまい終わった市ヶ谷が、俺達の元に近付いてきて肩を竦めながら聞いてきた。
「仲が良いつもりは俺には無いんだが……まあ、家が隣同士のよしみってやつ?」
俺の言葉に市ヶ谷は心底呆れた顔をして、もう一度やれやれと肩をすくめた。
「客観的に見たら、あなた達は充分過ぎるほど仲が良いと思うけど?」
「む……心外だな」
俺は思わず、そう呟く。
「何で心外なんだよぅ?」
俺の発言に対し佳奈は相当に不満だったようだ。見事な膨れっ面で抗議してくる。餅みてーだな。
「自覚が無いのが微笑ましいやら、腹立たしいやらね……まったく……」
市ヶ谷が『まったく……』の後に何か呟いたが、内容は聞き取れない。
聞き直す……べきではないんだろうな……。
「付き合いが長いからな、気安いだけさ」
「私からすると、そう言えることが羨ましくもあるわね」
む? そういうものか? いや、そういうものなんだろうな。
俺の雰囲気から何かを察した市ヶ谷は、ほんの少しだけ口許に笑みを浮かべ「冗談よ」と続けたが、少なくとも市ヶ谷が冗談などで言ったのではないことは俺にも判った。ただ、それ以上追及すべきではないと考え一言「そうか」と返答した。
「市ヶ谷さんは幼なじみとかいないの?」
今の流れでそれを聞きますか? 神成さん? それとも今まで呼吸整えるので精一杯で人の会話なんか聞いてませんか、そうですか。
市ヶ谷は聞かれると思っていなかったのか、大きく目をまじろいで佳奈を見つめていたが、やがて大きく息を吐いて「やっぱり勝てないのかなぁ……」と独りごちた。
「そうね、とても小さい頃は近所の子と遊んだりしてたけど、小学校に上がる頃から誰かと遊ぶってことから次第に遠退いたかしら?」
始業式の日の市ヶ谷の自己紹介が思い出される。あの時『自分を表現するのが苦手』と言っていた意味が少しだけ解る気がした。
「え? 小学校に上がる頃って、低学年の頃から?」
「ええ、そうね。小学校の一年生になってすぐ……仲の良かった友達が引っ越してからかしら? 何となく他人が苦手になってしまってね……」
「委員長って友達少なそうだもんなあ」
うおっ!
突然背後から話しかけられて驚愕と共に振り向くと、今登校したのか日吉が幾分悪意に満ちた笑顔で話に加わってきた。
「そうね……自慢じゃ無いけど友達を作るのは苦手ね」
日吉を二秒で血の海に沈めた市ヶ谷は、ハンカチで手を拭いながら肯定する。自業自得なので日吉については以降放置決定。
「じゃあ、私が友達になってあげるよ!」
市ヶ谷の言葉に佳奈が食いついた。
勿論佳奈も、日吉の身に起きた惨劇は全員でスルーだ。
唐突な佳奈の提案に市ヶ谷は目を白黒させていた。
だが、前のめりになって答えを待つ佳奈に引く気配のないことを感じたのか、観念したかのように小さくため息をついて言った。
「いいの? 私みたいに付き合いにくい人間でも?」
「え? そうかな? そんなこと無いと思うけど?」
佳奈がチラリと俺に視線を移し、すぐに目を逸らした。
何故、そこで俺を見る?
「じゃあ、その……よろしく……」
「うんっ! よろしく!」
市ヶ谷が恥ずかしそうに微笑みながら差し出した右手を、佳奈が嬉しそうに握った。
へぇ……こうして見ると……。
「市ヶ谷って、そうして笑うと結構可愛いんだな」
ガシッ!
「ぐげふっ!」
いきなり市ヶ谷に襟を掴まれ、一瞬呼吸が詰まる。
「……に……………くない」
「は?」
俯いているため、顔も見えなければ声も聞き取り辛いが、目の前に見える頭頂部や、髪の毛の隙間から見える首筋が真っ赤に染まっていた。
「別に、可愛くなんてない……」
ああ、成る程……と思う間もなく、そのままグギュウッと襟を締め上げられる。
「いや、ちょっ……苦し……」
俺が市ヶ谷の腕をタップすると、ようやくその手を弛めた。
「あ……その……ご、ごご……ごめんなさい!」
そのまま益々小さく俯いてしまう。
……吃驚した……一瞬怒らせたのかと思ったが、態度を見る限りはそういう訳では無さそうだ。
「良いなぁ……私なんかコウちゃんに『可愛い』なんて言ってもらったことないよ?」
「え?あ?あのっ!べ……別に言われたからといって、どうと言うことも……」
「そうかなぁ……?」
「そ、そうよ! 確かにあまりそう……言われたことも……むしろ可愛いげがないとかなら散々……」
そんなに卑下する事無いと思うんだが……かといって、これ以上俺が何か言っても逆効果だろう。
「でも市ヶ谷さんって肌もきれいだし、顔立ちだって結構整ってると思うんだけどなぁ? ちょっとおしゃれしたら凄い綺麗になりそうで正直羨ましいよ」
佳奈に目配せすると、すぐフォローに入った。
「え? あ、でも私そういうの判らなくて……」
「だったら今度の日曜にウチにおいでよ! 色々教えてあげるよ!」
さらりと言い切ってしまう佳奈の態度と人懐っこい笑顔を前にして断るのは、非常に難易度が高い。
実際、市ヶ谷は佳奈の雰囲気に完全に呑まれている。まあ、あれならホームルーム開始までガールズトークに花を咲かせていることだろう。
する事の無くなったというか、その場に必要のなくなった俺は自席に戻った。
市ヶ谷の席の近くで、まだ日吉が伏臥したままだが、取り敢えず気にしない。ちょうど日誌を持って教室に入ってきたネシャートがギョッとして後退る。僅かに硬直した後、俺の姿を見かけてパタパタと近づいてくる。
「あの……ご、航一さん……日吉さんは何かあったんですか?」
流石にネシャートにとっても異様な光景だったのだろう。不安を隠しきれずに俺の方を見つめつつ、問いかけてきた。
「ん、まあ、いつもの事だ……あまり気にするな」
元はと言えば日吉のデリカシーの無さが招いた事態だしな。
「そ……そうですか」
納得したという顔では無い。まあ、教室の真ん中に人が倒れてるのに気にするなという方が無茶と言うものだ。まあ、倒れているのが日吉なので、誰も手を貸さないのだが。
不意に日吉が顔を上げた。
こっち見んな。
知り合いだと思われたくない。
俺も日吉から目をそらし、明後日の方向を見つめることにした。
「日吉さんも、クラスの皆さんも、面白い人たちですね」
ネシャートが、何処か羨ましそうな笑顔を浮かべ、そう呟いた。
ネシャートは魔人だ。誰かの願いを叶える事が全てであり、それが存在意義なのだ。そんなネシャートにとって、契約とか願いとかを別にした人間関係は、彼女の両目にはどの様に映るのだろうか。もしかしたらネシャートは誰かの願いでは無く、自分の願いを叶えたいのではなかろうか……。そして、それを阻害しているのは他でも無い、俺自身なのだ。
「どうしました?」
ネシャートが物思いにふける俺の顔を正面から覗き込んでいた。
「あ、いや、ちょっと考え事だ」
「人と話をしてる時に考え事をするのは失礼だと思います」
ちょっとむくれてそっぽを向いてしまう。
「う……そうだな。すまん」
ぬう、見た目が年下の少女に正論を言われると、予想以上に凹むもんだな……。
そんな俺達をみて、クラスメートの一人がからかうように声をかけてきた。




