里恵の祥瑞
最終話です。永らくお付き合いありがとうございました。
「あなたの後悔は、いつも自分を中心として働き、そしてそれを深く追求することなく終わってしまう。あなたを想ってくれる人に、あなたは後悔しない。ですから、同じ過ちを繰り返しながら、同じ後悔をすることで自己満足してしまう。本当に現代人としての見本のようなものです」
菊池マスターは「ふふ」と笑ったようであったが、俯いたままの里恵にはわからなかった。
それよりも里恵の中に初めて自覚できた、黒々とした悪意がとぐろを巻くようで、恐ろしくなっていた。もう少し見つめれば、その中に不適な笑みを浮かべてたたずむ自分の姿が見えるかも知れない。その娘には、あってはならない牙や黒い翼もあったかもしれないが、恐ろしい自分を肯定できない里恵は、固く眼を閉じてより強い闇の中にそれを押し込めた。
「あたしが…生きてることが…いけないの? あたしは…ここに居ちゃ…いけないの? あたし…そのものが…いけないの?」
消え入りそうな里恵の声は、呪詛の念仏であったのだろうか。まるで地を這うようなか細い声は、菊池マスターの耳にさえ届いたかどうかもわからなかった。
「あなたの存在がどうかなど関係ありませんよ」
菊池マスターの言葉に今までに無い温もりがこもったようで、里恵は頭を上げた。
そこには、にっこりと笑顔を湛えた、いつもの菊池マスターがあった。
「…関係…ないって…?」
僅かな安心感ではあったが、里恵の精神は救われたように感じられた。深く冷たい泥沼に首まで浸かっていたのを、すっと救い上げられたようだ。
が、それが一瞬の安堵であったことに気付かなかった。視線の先の菊池マスターは、にっこりとした表情は崩さず、先刻よりも冷たい空気を漂わせながら
「あなたが持っている全てが問題なのです」
と言った。
一度合わせた視線は、まるで張り付いたかのように、里恵の瞳は菊池マスターから離れなかった。それどころか、ぼんやりとした霧にでも包まれたかのように、菊池マスター以外視界に入らない。このまま視線を逸らせば、真っ白な世界に一人取り残されるような心細さに、里恵は菊池マスターを見続けた。
しかし、たとえ孤独感に包まれても、里恵は菊池マスターを見てはいけなかった。なんとなれば、にっこりとした菊池マスターの表情は、まるでスローモーションのように変化し、冷たい無表情へと、能面のような異質へと変わったのだった。
「あなたは、持てる全てを、自分が手に入れたように勘違いしているのです。この世に生まれたことも、自信のある美貌も、友人も、お金も…。でも、それらは、あなたの存在無くしても、そこに存在します。では、あなたを裏付けするものは何でしょう? かの有名な独裁者は『我、想う。故に我あり』を自負していたそうですが、それは本質でしょうか? 自分がそこに存在することを証明するなど、誰に出来るでしょう。あなたは、自分を証明するために物を欲し、美貌を誇示したのではないですか。あなたを認めてもらうために着飾り、いじめという行為で、あなたを誇示しようとした。何もしなければ、あなたは誰にも認めてもらえなかったのでしょうか?」
今や濛々と立ち込める霧の中に居るような錯覚に囚われながらも、里恵は菊池マスターを凝視しながら考えていた。正常な判断など出来そうも無いと思いながらも、裏腹に里恵の頭は冴えてきているようだった。脳細胞がフル回転し、今まで考えたことも無い自分の内側を覗き込んでいた。
「あたしは…あたしの正しいことを…正しいと思う。…でも、あたしの中には…違うあたしがいて…」
言葉を拾うようにしながらも、里恵は紡いだ。正当な答えなど過去の自分の行為からは見つけられなかった。けれど、自分を否定も出来なかった。それをしてしまえば、里恵の今までの人生が無意味なものになってしまう。何であれ、自分がこの世界で生きていた証は、きっとどこかにあるはずなのだから。
「あなたは親の愛情も逆手に取って自由奔放としてきました。自分の行為で恐ろしいめにあいながらも、相手の行為を異常としました。他人をいじめたことで、自分が停学になっていながらも、自分が可哀想だと嘆きました。あなたは、自分が自分であるために、その判断を他人に任せて評価させようとしてしまいました。これは、救われない行為ではなかったでしょうか。あなたがあなたのために、あなたの中を見つめ直す行為が出来なかったことに、わたしは同情申し上げます」
菊池マスターは、少し目線を下げて悲しそうな表情をした。しかし、それも一時のことで、まるで幻のようではなかったかと理恵は思った。
里恵の中で、幾つかの幻が交差したのは、それと同調したためだろうか。
幼少の頃、両親は万引きした自分を、厳しく叱った。
小学生の頃、初恋の男の子が、他の女の子を好きだと知って、朝まで大泣きした。
中学生の頃、帰りの遅い自分を両親は寝ずに待っていて、左頬が腫れるほど叩かれた。
高校生になりたての頃、成績が落ち始め、生活も荒れだしたのを、担任の教師は必死に説得してくれた。
自分の廻りの人々が、一生懸命に自分を叱咤し激励してくれていた。
全てに覚えがあり、全てが鬱陶しいとそっぽを向く自分が見えた。
ひどく哀しい自分が、里恵の両肩を後ろから抱きしめているようで、里恵は小さくいやいやをした。それでも振りほどけない重々しさに里恵は涙を流した。
「あなたは、初めて自分を見つけたのかもしれませんね。それが、取り返しの付くものか、そうでないのかは、わたしにはわかりません。しかし、これからあなたが生きる人生を選ばせてあげることくらい出来ます。特別なあなたに…」
そう言うと菊池マスターは、いつ取り出したものか、里恵の眼の前には三つの色グラスを並べてみせた。それは、あの棚に並べられていたものと同じであったが、ひとつ違うところがある。先刻眺めたグラスには、ゆらめきのような光源があったのだが、里恵の目の前にあるグラスには、それが見えない。ただの色の付いたグラスであるのだ。
「これは、あなたを変えるグラスです。この赤いグラスは、あなたを幸福なお伽噺の世界に誘い、永遠の夢を見せてくれます。こちらの黒いグラスは、あなたを美しくないとあなたが感じる外観に変えるものです。もうひとつ、この緑のグラスは、あなたの廻りの人々が、あなたをどう思っているかが解るグラスです。このどれもが欠点のあるものですが、あなたをどうにかしてくれるものでもあります。赤は幸福な夢の世界で、永遠の時を過ごせますが、現実の世界には戻って来れません。黒はあなたを美しと言えなくさせてくれます。他人からもちやほやされることもなく、あなたはこれまでとは違う生き方を余儀なくされるでしょう。緑はあなたの廻りのあらゆる人が、あなたをどう思っているのかを教えてくれます。ですが、それはあなたのことをどう思っているかだけで、それ以外のことはわかりません。あなたに好意を持っていることも、悪意を持っていることもわかりますが、それだけなのです。さて、あなたは、どれを選びますか?」
里恵の眼前に置かれたグラスは、どれも魅力的に里恵を誘っていた。不気味な輝きをしているようにも見えるが、手に取ってみたい衝動は高ぶった。
どれにしようかと理恵は迷った。赤いグラスに誘われそうになる心を、緑のグラスが輝いて誘う。黒いグラスを見つめれば、赤いグラスが震えて主張しているように見える。かといって緑のグラスに手を延ばせば、黒いグラスが甘い香りをほのかに吐き出したようだった。
里恵はグラスを見つめる眼を一度閉じてみた。だが、眼を閉じた暗闇にも三色のグラスは光り輝いて存在していた。二度、三度と首を振って、幻覚にも似たグラスを消そうとしたが、それは無意味な徒労に終わった。
「さぁ、どれをお選びになります?」
菊池マスターの声が、頭の奥底で響いた気がして、里恵は眼を開けた。
菊池マスターは里恵の前で、相変わらずの能面顔を首の上にのせたまま佇んでいた。
里恵はもう一度眼を閉じた。今度は堅く、暗闇のもっと奥底を覗き込むように。
そこに、もうグラスは無かった。変わりに違うものが存在していた。
それは何であったろう。
遠い昔に見たことが有るもので、それでいて思い出そうとすると、儚げに消えてしまいそうな存在であった。それが何であるかを確かめることは、深い湖底に沈んだものを息を止めて潜らなくてはならないほどの決意が必要であったろう。しかし、湖底に潜り、それを確かめたとしても、そこで息が続かなくなり、きっと溺れてしまうことは確実。故に確かめようとすることが出来ない。
それでも必死になって湖面を見つめれば、その陰影くらいは掴めるかも知れないと、里恵は眉間に皺を寄せながら堅く眼を閉じ続けた。
先刻のように菊池マスターの急かす声は聞こえない。静寂の世界で里恵は暗闇の中の湖面を凝視し続けた。だが、微かな風がそよぐように湖面は波立ち、淡い形はゆらゆらとその姿を揺らめかせて、里恵の視界から幾度となく消えようとする。
里恵はそれが何であるか確かめたかったのだが、幾度試してみてもその輪郭さえ捉えられなかった。
そして、静かに、ゆっくりと瞳を開いた。
「お決まりになりましたか?」
静かな店内に穏やかな菊池マスターの声が響いた。
里恵の眼には菊池マスターの顔がはっきりと映っている。それは、凛とした潤いを湛えて、怯えも恐怖もない、ただ決意と取れる輝きが宿っているようであった。
「決めたわ」
力強い響きがあると里恵自身も思える声が口から発せられた。
「さぁ、どうぞ」
聞くしマスターは、並んだグラスを示して笑った。
「どれも、選ばない。きっと、あたしには必要ないものだもん」
そう言った里恵の眼は、菊池マスターの顔を見つめていた。
にこやかに笑う菊池マスターが、それに答えた。そこには、ついさっきまでの能面のような無表情さは欠片もなく、好々爺のようなやさしい微笑があった。
「あなたは、形のないグラスを選ばれました。それは、今、あなたの手の中で『可能性』という無色のグラスで形も定まっていません。そのグラスは、とても扱いが難しく、壊れ易い。大事にしているつもりでも、いつの間にか砕けてしまうものです」
菊池マスターは、色グラスの前に熱い湯気を立たせるアップルティをカップに淹れて差し出した。
「あなたが先程、心に描いていたものが何であるか、わたしは知っています。ですが、あなたがそれを確かめることが出来るのは、恐らくずっと先のことでしょう。もしかすると、あなたの人生が終わる瞬間にしか、それは確かめられないのかもしれません。それでも確かめる努力は、これからずっと、していかなくてはならないでしょう。これからのあなたが、何を成していくのかによっても、それは姿を変えるでしょうし、見失うこともあるでしょう。けれど、あなたがそれを探そうとする限り、あなたは今までのあなたに出会うことは無いはずです」
まるで愛しいものでも見るように、菊池マスターは眼鏡の奥の眼を細め、里恵の眼の前に出してあったグラスを、ひとつひとつ下げながら言った。
「あたし、もう帰るね。停学中は謹慎なんだ」
とんと、軽い音で席を降りると、里恵はドアへと走った。が、ドアの前で立ち止まると振り向いて菊地マスターを見た。
「ねぇ、マスター。このお店の『SCENERY』て、どういう意味?」
菊池マスターがケトルをガステーブルに置くところであった。
「それはですね。『風景』という意味です」
おやおやという感じで菊池マスターは小首を傾げながら、ガステーブルに火を付け、にっこりと笑って見せた。
「また、ここに来れるかな?」
里恵の口からは、自然とその言葉が出ていた。『来ていいか?』ではなく『来れるか?』というのは、里恵自身、不思議な響きだと感じたが、なぜかそう言葉になった。
「そうですねぇ。あなたが、また、何かに迷った時、この現実から逃げ出そうとした時ならば、きっとどこにいても来ることが出来るでしょう」
まるでお伽噺のようだと考えながら、里恵はドアを開けた。その時、初めてそのドアが一枚板で作られた古いものであることを知った。裏に回ればポプラのような木のレリーフも彫られている。
こんなものがあったことにも今日まで気付かなかった自分が、なんだか廻りを見ていなかったようで恥ずかしくなった。
そのまま里恵は小走りで店を出た。
『そういえば“さよなら”も言ってなかった』と思い出したのは、既に十メートルも離れたところであったろうか。
振り向いてみた里恵の視界には、何も無かった。ただ、暗い路地が奥へと続いているだけである。
予想はしていたものの、里恵は切ない気分になりながらも
「ありがとうございました」
と、何も無い路地の奥に頭を下げた。そして、また小走りに走り出すと、まず何から始めようかと頭を巡らせた。
『とにかく黙って出てきた両親に、今までのことを話して謝ろう。援交で買ったバッグやアクセサリーは、お母さんにでもあげちゃおうか。あっ、そういえば、あの優等生にも謝んなきゃ。悪いことしたもんね。それと、隣の学校のあの男の子。なんてったっけ? みんなの前で恥かかせちゃったもんな。あれも謝っておかなきゃ。それと、担任の瀬戸先生にもお礼言っとこ。あ、その前に反省文だったっけ。ああぁ、それと…』
駅へと急ぐ里恵の頭は、これからすることで一杯になっていた。そのどれにもドキドキしながら、遥か昔にも感じられる自分の存在が、まだ『SCENERY』のカウンターで佇んで、今の自分を淋しげに見つめているように感じていた。
里恵が駅に付く頃。
里恵の出てきた路地の奥に、蛍のような淡い光源を目指して、買い物袋を手にした、少し生活に疲れたような中年女性が、うつろな瞳で入り込んで行った。
END
シリーズ化してしまいました(笑)
でも、これが最後です。
読んでいただいた皆様に喜んでいただければ幸いです。
ありがとうございました。




