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里恵の澎湃

「ちょっとマスター、聞いてよ。あの親父ったらひどいんだよ〜!」

 里恵はあの日以来、三日と空けずに喫茶店を訪れるようになっていた。朝といわず昼といわず夜といわず訪れる里恵を、いつもにこやかに菊池マスターは迎えてくれた。

 時には友人、両親、教師への愚痴だったり、しつこい親父よ撃退した武勇伝であったり、流行ファッションの噂だったり、いじめた級友への懺悔ざんげだったりとバラエティに富む里恵の話に、菊池マスターは嬉しそうに対応した。

 里恵が嘆けば、涙を拭きながら。愉快なものであれば、にこやかに。仰天話であれば、眼を見開いて答えてくれる菊池マスターに、里恵は他人ではない感情を芽生えさせていた。

 不思議と里恵が訪れる時間は不確定であるにも関わらず、里恵が入店する時には、他の客の影は無かった。しかし、それも大した問題ではなかった。逆に菊池マスターを独り占めできることが嬉しくて、里恵はいつもカウンター席の真ん中、菊池マスターと対峙できる場所に陣取ってアップルティを飲んだ。

 この日も里恵は、女子高生が帰宅するには不自然に早い、午後の時間帯であった。

 菊池マスターは、ひとつのグラスを棚に戻していたところだったのか、背を向けたままで「いらっしゃいませ」と言って振り返った。

 里恵がカウンターのいつもの席に着く頃には、いつものにこやかな顔で

「何か嫌な事でもありましたか? いつもより熱めのアップルティでも淹れましょうか」

と、ケトルをガステーブルに載せて火をつけた。

 里恵は、視線をグラスの棚に巡らせた。そこには最初ここへ訪れた時、並べられた色とりどりのグラスが、炎を含んだランプのように見えた棚であった。しかし、今、改めて見つめればランプというほど明るいものではない。何やら淡い光の揺らぎのように感じられ、死にかけたホタルの光源のも似ていると思えた。

「ねぇ、マスター。あのグラスって、なに?」

 何気ない好奇心で、里恵は聞いた。

「あれは、特別のグラスでしてね。普段は、使うことがありません」

 菊池マスターは、ケトルがピーと鳴くのを待っているように、じっと見つめたままに答えた。

「特別って、何かのパーティとか?」

「いえいえ、そうじゃありません。そうですねぇ、もっと特別で、最も数奇な時でしょうか」

 そう言ってヒューっという音を吐き出したケトルを火から降ろし、湯気の立つ中身をティポットに注ぎ込んだ。

「…すうきって?…」

 まるでグラスに魅入られたかのように、里恵は視線をこていしたままだった。

「ははは。まぁ、いいじゃありませんか。それよりお茶をどうぞ。お話もまだですしね」

 菊池マスターが湯気の立つティカップを里恵の前に置いた。途端に林檎の甘い香りが里恵を包んで、やっと里恵はグラスから解放されたように視線を外した。

「あああ〜、ほっとする。マスターのアップルティって、なんか安心するんだよね」

 置かれたカップを手に取って、ゆっくりと香りを楽しんだ後に一口含んだ。

「今日は、どうされたんですか?」

 にっこりと眼を細めて、菊池マスターは里恵の話を誘った。

「あっ、そうそう。今日はさ、朝からデートでさ」

 忘れていたとでも言うように里恵は話し出した。

「歳は、まぁ三十ってところなんだろうけど、なんだか脂ぎった奴でさ。いきなり二万出してキスしろってぇのよ。馬鹿にしてるわ!」

 どうやら里恵のデートというのは、恋人とのことではなく、援助交際のことらしい。

「ははは、豪気ですね」

 それをわかっているのかいないのか、菊池マスターは笑った。

「ごうきって? まぁ、いいや。それでね、冗談じゃないって突っぱねたのよ。そしたらさ…」

 ここで切って、里恵は少し冷めてきたアップルティを一気にあおった。菊池マスターが、空のカップにティポットから御代わりを継ぎ足すまで、里恵は話を進めなかった。

「言うにことかいて、そいつ、お金が欲しけりゃ言うこと聞けって、ホテルに誘うんだよ。信じられる?」

「ははは、せっかちなんですねぇ」

「せっかちとかじゃないよ! 飢えてんの。飢えだよ。ムードもへったくれもありゃしない。それも、まだ朝だつ〜の! 異常かよ!」

 激昂しているのか、里恵の表情は今にも牙を剥きそうだ。

「まぁまぁ。それにしても、ムードがあって、夜ならば、あなたはそれに答えたんですか?」

 どうどうという具合に両手をひらひらさせて、菊池マスターは聞いた。

「それは、ない! そこまでしたくないし、気持ちも無いのに、そんなことできないよ。確かに、そうすれば大金にはなるけど、プライドまで売ってるわけじゃないからね」

 そこまで悪くない、というよりそこまで落ちていないいうのが本音だろう。

 里恵の取り巻きの中には、確かに最終的な方法で荒稼ぎしているのも存在するが、里恵はそういう娘とは一線を引くようにしてきた。一線というか、あからさまに無視し、取り巻きからも外してきた。その中には、いじめに発展してしまったものもある。

 だからといって後悔はあまりしたことがなかった。自分がしてはいけないと決めたことをしたのだから、その結果がそういう形になったところで文句をいわれる筋合いは無いと考えていたのだ。

 だが、その裏に、自分より金持ちになり自分より高価なファッションや持ち物を所持する者が廻りに存在してしまうことへの嫉妬心を、里恵自身気付いていた。

「どうして今日は、学校へ行かれなかったんですか?」

 当然のことを菊池マスターに聞かれ、里恵は少しうろたえた。

「はは…マスターは鋭いね」

 里恵は照れたように頭を掻いて、アップルティを二口飲んだ。

「昨日さ、クラスの優等生さんが、あたしに言うのよ。顔ばかりお綺麗で、内面は馬鹿じゃないかってね。取り巻きにちやほやされてても、あんたが偉いんじゃなくて、いじめられるのが怖いだけなんだ。誰もあんたなんか友達と思ってないし、誰も好きじゃない。あんたは、いじめた人を忘れるだろうけど、いじめられた方は一生かかっても忘れないってね。そいつ、ずいぶん前から気に入らなくて、昨日もトイレでいじめたりしてたんだ」

 里恵は淋しそうにうつむいて笑って見せた。

「逆切れってやつ? 言いたい放題言ってさ、結局そいつ職員室に飛び込んじゃった。御蔭であたしは停学が決まってしまいました」

 そこまで言って、里恵は冷めたアップルティを、もう二口飲んだ。

「後悔しているんですか?」

 冷めたアップルティをカップごと下げて、菊池マスターは聞いた。その後、カップを変えてアップルティを注いだ。

 差し出された熱いカップを、両手で包むようにして里恵は笑って見せた。

「後悔なんて、いつもしてるよ。でも、駄目なんだよね。みんなの前に出ると、なぜか強気になっちゃって…。プライドが高すぎるのかな。やさしくなれないの。別に不満があるわけじゃないのよ。なんか、いつも気が付くと先頭にいるっていうか、そうなってるの。いじめにしても、そう。自分じゃ、そんなつもりなくて、なんか気に入らないねって話してたら、いつの間にか、そうなっちゃうの。悪いことしてるっていう気分は、その時にはないんだけど、後で考えたりすると、やっぱり後悔するんだ」

 うっすらと涙しているのか、里恵の目頭が光ってきていた。

「御両親は、何とお言いですか?」

「あはっ、なんにも言わないわ。馬鹿な娘ね、くらいかな。関心が無いのよ、きっと…。帰りが遅かろうが、帰ってこなかろうが怒られたことなんてないもの。あら、いたの?くらいなものよ。いつだったか言われたわ。警察にだけはお世話にならないでって。犯罪者にならなければ、何をしてようと構わないってことでしょ」

 里恵は、震える両手に力を込めてカップを握った。僅かながらに、琥珀色の液体が揺れて波紋を創っていた。


「あなたの年齢で、人間の本質や本心を探るという行為を身につけている方が早熟というものなのでしょうが、あなたはその中でも最悪かもしれませんね」

 まったく困ったものだとでも言いたそうな口調で菊池マスターは言った。

 言われたことを理解するより、言い方の中に落胆の溜め息にも似た吐息に里恵はムッとして、俯いていた顔を上げて菊池マスターを見た。

 しかし、そこには里恵の知る菊池マスターはいなかった。

 まるで能面のような無表情さで、マネキンのようにつめたい空気をまとった小男が里恵を見つめていた。

 里恵の中に、僅かながらの冷気が漂った。

「あなたは、ここへ訪れた時、自分の行為の罪悪がもたらした結果が、自分の範疇はんちゅうにない恐怖を引き起こしたことを覚えていますか?」

 それに、いつの間に手にしたのか、菊池マスターだった小男は、右手に大きなコーヒーカップをたずさえていた。

 見た目が変わったわけではない。小男は菊池マスター本人に間違いないのだが、里恵の知っている菊池マスターは、表情豊かな好人物であるはずだ。にこやかな笑顔が安心感を誘う、やさしさ溢れる人であったはずなのだが、今、里恵の眼前にいるのは、感情の無い醜悪な人形のような印象を受ける。

「…お…おぼえて…いる…」

 叱られる子供のように里恵は視線を外した。このまま見つめていると、菊池マスターが違うものに変化しそうに思えたからだ。

「あなたは、後悔していると言って泣きもしました。ですが、それは何に対しての後悔だったのでしょう。いじめた人に対してですか? それとも、その行為をしてしまった自分に対してですか? あるいは、その感情にでしょうか? 何が本当の後悔でした?」

 ずぞぞぞとコーヒーをすすって、菊池マスターは一息ついたようだった。里恵の答えを待っていたのかもしれない。

 だが、里恵には答えられなかった。後悔したことは本当のことではあった。しかし、その感情に押し流され、いつもそれを追求することなどなかったからだ。誰にとか、何をとかいう後悔をしたことがあっただろうかという疑問が里恵の頭の中で右往左往していた。それと同時に、菊池マスターに対する恐怖にも似た感情が芽生え始めていることにも、里恵は怯えつつあった。決して怒っている声音ではない。叱られているような意識も里恵にはなかった。何の感情すら含まれない菊池マスターの言葉は、まるで呪文のように、俯く里恵の耳に木霊していた。

「あなたは、それすらにも答える術をお持ちではない。これは、考えていないというのと同意語ですよ。昨日、あなたがいじめたと漏らした人が、職員室に飛び込んだのではなく、屋上のフェンスを飛び越えていたとしたら、あなたは今日という日を同様に過ごしていたのでしょうか?」

 昨日の優等生が階段を駆け上り、屋上のフェンスを乗り越える姿が里恵の脳裏で閃いた。薄ら寒くなるようなシーンは、優等生の姿が屋上の縁に消えるところで途切れた。

 足元が急激に冷えてくる空気に、里恵は自分を抱きしめた。そうしていないと、ここにいる自分が空虚に投げ出されたかのような錯覚に囚われそうだったからだ。

「わたしが悪いなんて、わかってる! わかってるけど…」

 振り絞るような声だったが、あまり力は入っていなかったろう。震えるような声は、菊池マスターのコーヒーを飲む音に消え入りそうだった。

「いいえ、あなたは、わかっていません。恐らくわたしが言いたいことすら理解することは出来ないでしょう。不幸なことは、あなたは十人並みの美貌より秀出ていることを自覚してしまっていること。それに群がる男性が多いこと。美しさを飾ることだと勘違いしていること。そのお金を安易な方法で手にしてしまったこと。他人を認めることを敗北としまうこと。その存在を排除してしまうこと。そして、何より不幸なのは、あなたの守るべきプライドより精神の方が弱いことです」

 重いものが里恵の両肩に、ずしりとのしかかっていた。

 確かに自分が男に外見だけでちやほやされていたことは知っていたし、それだけの外観を持っていることも自覚していた。それ故に男の視線が自分を見ていないことは許せなかった。自分の廻りにいる娘にそれが注がれていたりすると、それだけで腹が立った。その娘を次から無視したり、いじめたりして仲間から外すことも自然な行動といえた。

 でも、そのことへの後悔は、いつも里恵を悩ませた。何故あんなことをしてしまったのだろうと悔やみ、自分はどうしてこうなんだろうと悩み、枕を濡らして眠ったこともある。

 自分の全てを『不幸』と言われ、里恵は重苦しい気分にうなだれた。



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