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里恵の感懐

 今までの暗闇が嘘であるかのような明るい室内は、数個のテーブルに向かい合わせの椅子、一枚板のカウンターに数脚の椅子があしらえられており、その奥に小さな厨房らしき風景があった。

 カウンターの脇には、コーヒー豆を挽く手回しのミルが置かれ、その後ろの壁には、はめ込みの棚に色鮮やかなグラスが並べられている。そのどれもがランプのようにゆらゆらとした炎を含んでいるように感じられて、里恵は二、三度眼をしばたいた。

「いらっしゃいませ」

 いきなり背後から声がして、目前のカウンターにへばり付くようにして里恵は振り返った。あまりの驚きに声も出ない。それどころか心臓が口から飛び出して、空中へ投げ出されたかのように、意識まで霞んでしまっていた。

「いやぁ、そんなに驚かなくとも、わたしだけです」

 今、里恵が入って来たドアの前に庭箒にわぼうきとちり取りを持った小男が立っていた。

 丸い太った身体に、タキシードベストがはちきれんばかりに張り付き、首が絞まっているのではないかと思える蝶ネクタイが笑いを誘うほどにユーモラスだ。

 顔はといえば、膨れたマシュマロにさらさらの七三髪を張り付け、丸眼鏡の熊が似合わない口髭を蓄えているようで、これまた滑稽こっけいであった。

 毒気を抜かれるとは、このことだろうか。

「いやぁ、なに。いやぁ、なに」とつぶやくように背を丸めてカウンターの奥へと入っていく小男を眼で追う里恵に、先刻までの色濃い恐怖は消えていた。

「どうぞ、腰掛けてください。こんな時間ですから、他に客もおりませんし、遠慮はいりませんよ」

 小男はほうきとちり取りを傍らに放り出すと、里恵に向き直って、緑色のエプロンを首に掛け両手を洗い出した。

「…あの…、…ここは…」

 毒気を抜かれたといっても、身体はまだぎこちない動きだ。しかし、小男の柔和な態度に安堵したのか、勧められるままに椅子へ腰掛けながら、たどたどしい口振りでそこまで言った。

「ここはと言われましても“喫茶店”ですがというのが、わたしの答えですが」

 当然のことを聞かれると、答える方もたどたどしくなるのか、小男は眼鏡の奥のくりっとした眼を見開いて答えた。

 その間にも里恵の前に、足元の冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、氷の入ったグラスに注ぎ、里恵の前に差し出すまでの動きに緩慢さは無かった。

「ここって、喫茶店なんですか…。よかった…」

 里恵はあからさまに、ホッとして見せた。なんとなく芝居がかったようにも見えるが、現時点での里恵の心境とすれば無理もないことだろう。

「何かあったんですか? 随分と怯えていらっしゃるようだ。なんでしたら警察を御呼びしましょうか?」

 本当に心配しているんですよという顔付きで、小男は里恵の顔を覗き込んだ。

 こんなに心配されることなど初めての里恵には戸惑いがあった。今まで肉親にさえ、これほど心配されたことがあったろうか。忘れているにしても、里恵の記憶の中には、そんなことなど皆無であった。恐らく両親でさえ今頃は、帰宅の遅い娘を『またか』と思いながらとこについている頃であろう。

 里恵は、やさしい言葉に軽く首を振った。

 警察など呼ばれれば、年齢からすぐに保護されてしまい、事情を話せば援助交際から自分が補導されかねない。安全は保証されても、その後が致命的だ。

 

 その時、ほのかに甘い、それでいてフルーティな香りが里恵の鼻孔をくすぐった。

『…林檎の香り…』

 甘酸っぱい芳香が、まるで里恵を包むかのように漂った。

「高揚した気分を落ち着けるには、ハーブの香りなどが一番らしいですよ。ミントや薔薇、ジャスミンなどの植物からお茶を作るのもよろしいのですが、わたしはアップルティが最高だと思っています」

 ティポットを軽く右手で回しながら、小男は白いティカップをカウンターの上に載せた。スプーンや砂糖、ミルクなどという付属品は無い。

 そのカップに注がれる琥珀色の液体が、湯気を立ち昇らせながら、いっそう強い林檎の香りを振りまいた。

「いい香り。吸い込まれそう」

 正直な感想がりえの口から漏れた。

 先刻までの恐怖体験が、まるで悪夢であったかのように現実感を失っていくようであった。

 その時になって、そう広くない店内に聞こえるかどうかも怪しい音量で音楽が流れていることにも気付いた。それは、まだ里恵が小学生であった頃、音楽の授業で聞いたことがあったかも知れないクラシックに似ていた。題名や作曲者までは浮かばない。

 熱いティカップを両手で抱えるようにして口元まで運んだ。里恵はアップルティの湯気を、ゆっくりと吸い込んだ。

 やさしい香り、やさしい音楽に、里恵は酔った。

「ねぇ、マスターは、なんて名前?」

 ほのかに甘いアップルティを一口含んで、喉の奥に染みていく熱い液体と、口の中に残るかすみのような残り香を楽しみながら、里恵は眼を閉じて小男に聞いた。

「わたしは菊池と申します。菊池 りょうです。名前負けしているとよく言われます」

 小男は、そう言って眼鏡の奥の細い眼を糸のようにした。笑っているように見えるが、口髭に変化が無いところをみると、自分の名前にそれなりのコンプレックスがあるのかもしれない。

 なんだかとても人間臭い小男に、里恵は破顔した。

 これまで関わった大人の男は、にこやかな表情をしていても、心の奥底にどこか下心めいたものが見え隠れしていた。女という里恵を意識しているのだから仕方のないことだと理解しても、それが里恵には許せなかった。ありのままの自分を見てくれない。女という部分でしか認められないことが、心のバランスを崩していたと言っていい。

 それが、この小男には感じられなかった。

 初めて人間という立場で対峙できたような感覚が、里恵の笑顔を呼んでいた。里恵自身が意識していたかどうかは疑問だが。

 久しぶりに幼さの残る笑顔が里恵に戻った。

「あたし、田辺 里恵。現役女子高生なんだな」

 悪びれもせず里恵は、正直に自己紹介した。嘘をつくことは簡単だったが、小男の前では正直でいたかったのだ。

「おや、学生さんでしたか」

 本当に驚いたという風に、小男は身を乗り出した。ちょっと大袈裟な感じがするが、里恵はこれにも笑顔で答えていた。

「学生さんが道草する時間にしては、ちょっと遅い時間ですが。何かいけないいたずらでもしていましたか?」

 ぴくんと里恵の肩が反応した。

「き…菊池マスターさんは…あたしを、どう見ます?」

 小男、菊池マスターが言ったことは、常識的人間からすれば、至極当然のことであろう。すねに傷持つ当事者でもない限り、一笑に出来ることである。

 里恵の反応は怯えではなく、驚きであったのかもしれなかった。

 そんな里恵が先刻の悪夢を思い描きながら、菊池マスターに聞いたのは、見失いつつある自分の姿だったろうか。

「そうですね。学生さんと言われれば、そう見えます」

 ちょっととぼけたような上目使いで菊池マスターは答えた。

 それが里恵の意図した答えでないことは明白なことだ。菊池マスターの気遣いなのかどうかは怪しいものだが、里恵には優しい心遣いに伝わった。

「あたし…ちょっと悪いことしてね…ここまで、変な男に追われて…」

 なぜこんなことを話してしまうんだろうと重いつつも、里恵は途切れ途切れの言葉で言った。

 俯いた表情にも、まだ僅かな怯えが浮かんでいた。

「ああぁ、あなたの後ろから来た男の人でしたら、わたしを見て逃げるように走って行かれましたよ。あの人に追われていたのですか?」

 なんだ、そんなことですかという含みがある口調であった。その言葉の裏に『心配無用です。ここにいれば安全です』の意味も隠されていることに、里恵は安堵の溜め息を初めて吐いたような気がした。

「わたしね。悪い子なの。わかっているのに、悪いことしちゃうんだよね」

 里恵は、菊池マスターの人柄の安心していた。僅かな時間に信頼もしていた。

 だからというわけでもないだろうが、これまでの自分の鬱積うっせきした悪行ともいえる生活の一部始終を語り始めた。

 菊池マスターは、やわらかな笑顔を崩さず、冷めてしまったアップルティを淹れ直しながら、いつ終わるとも知れない里恵の話に、時折頷くだけで聞き入った。

 里恵が、ここ『SCENERY』と出会ったのは、そんな事情であった。


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