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里恵の暗澹

 ビルの外は、未だ人が絶えることなく往来していた。

 里恵の口から小さな溜め息が漏れた。先刻とは違う安堵の溜め息であった。

 トイレの孤立した空間は、世間と隔絶されたような不気味さがあったのだが、通りに出てみれば何ら変化の無い日常であることに安堵したのだ。

 里恵は帰路につくべく駅へと向かった。が、その足はすぐに止まった。

 どこからだろう。また、視線を感じる。

 日常においても視線を感じることは多い。男達の視線がそれである。羨望であったり、時にはいやらしい視線でもあったりする。それは、美形を自負する自分にとっては当然でもあり、至福である。男達は自分のものであるという錯覚に陶酔できるからだ。

 だが、今、注がれているものは、それではなかった。

 まるで張り付いてくるかのような粘液質なもので、執拗に全身を舐めてくる。

 廻りを見渡してみたが、それらしい人物は見当たらない。しかし、確実にどこからか見られているという気配は消えなかった。

 里恵の脳裏に、先刻追い払った爬虫類男の顔が浮かんだ。あの無表情な男が最後に残した口元の歪みが、異様な印象で残っている。

 里恵は悪寒が這い上がるのを我慢しながら、もう一度付近を見渡した。それと同時に駅の方へと歩き出す。

 知らず知らずのうちに、両腕で自分を抱きしめるような格好になっていた。はたから見れば怯えた小動物のように見えているかもしれない。

それでもかまわなかった。実際、里恵は怯えていた。

 正体不明の気配に立ち向かうには、里恵はまだ若すぎる。機転のきく大人であれば、正体を突き止め、危険だと悟れば大声で喚くくらいで正義感の強い通行人を呼び寄せるくらい出来る。そこまでしなくとも、交番に駆け込むくらい思い付く。まぁ、その場合は自分が補導されてしまうリスクはあるが、家まで送ってくれるか両親を呼ぶか、どちらにしろ安全は保証されることに間違いはない。

 だが里恵の胸中には、とにかく差し迫る不気味さからの開放を欲して、家路を急ぐ事くらいしか思い浮かばなかった。

 里恵のいる場所から駅までの距離は、時間にして十分ほどだろうか。自然と早足になるが、駆け出しはしない。もし、走り出して視線の主までもが駆け出してきたら。明確でない不気味さが恐怖の確信へと変わる。そんな拷問のような心理には、間違っても陥りたくないという里恵の防衛本能であったのかもしれない。

 意識しすぎた感覚は、間違った情報を察知しやすい。

 里恵も同様に早足で追い越す人々の視線が、全て自分に向けられているような錯覚を覚えた。数分の間に周りが全て敵意を持っているような感覚に襲われて、里恵は人気の無い路地に飛び込んだ。

 正常で考えるならば自殺行為でしかない行動であるにもかかわらず、周りに人がいないというだけで里恵には安心感が生まれた。少なくとも、ここでは他人の視線は自分を見ないという、誤った安心感に里恵は逃げ込んだのだ。

 少し奥まで入り込んで、里恵は自分の行為が過ちであることに気付いた。

 この路地は駅とは反対方向に伸びているのだ。それもほぼ一本道という状態で、脇道は猫くらいしか通れないほどに細い。おまけに迷路の如くくねっていて、方向すらつかめなくなるようであった。

 薄暗い路地の中で、里恵は後悔した。

 このままでは、駅はどんどん遠ざかるだろう。まして、どこに繋がっているとも知れない路地をこのまま進んでみたところで、迷子にこそなれ良いことなどあるはずはないと悟ったのだ。

 戻って駅に向かう。

 里恵は意を決してきびすを返した。が、そこで硬直してしまった。

 恐怖というより愕然であったのではないだろうか。しかし、それも一瞬、次には全身を霜が包んだかのような感覚に囚われた。

 先程曲がったビルの陰に、その影は身を潜めていた。十数メートルほどの角にもかかわらず姿は黒く塗りつぶされいるように漆黒で、それでいて鮮明に人型をしている。半身は角に隠れてビルと一体化しているが、気配からして、こちらを凝視していることは間違いない。

 正体は掴めない。が、里恵には、爬虫類男であるように感じられた。今夜、自分を追い回すなど、あの男以外に有り得ない。

 全身は硬直したように動かなかった。頭の中も真っ白といった状態で、ただ爬虫類男の歪んだ口元だけが浮かんでは消えた。

 何分続いたか知れないにらめっこが途切れたのは、影が動いたことであった。半身であった影が、ずいと全身を現したのだ。

 全身を恐怖が突き抜けるのを里恵は感じた。

『逃げなきゃ』

 悲鳴を上げるよりも、その一言が頭で閃いた。

 踵を返すのももどかしく走り出す。後ろなど振り返る余裕などない。ただ、全力で走った。入り組んだ路地の一本道を、ぶつかりながらも出口を目指す。

 街灯らしき明かりが見えたのは、いくつの角を曲がってからのことだろう。

 明るいということは、そこが大きな通りであることを意味する。そこにはまだ終電を求める人々が、必ず存在すると里恵は確信していた。

 通りに走り出た里恵の表情には、きっと笑みさえ浮かんでいただろう。助けてもらえる誰かが存在するのだから。

 だが、その里恵の期待は、大きく裏切られたと言っていい。

 その通りは、あまりにも小さなものであった。廻りはオフィスビルの密集地だったのだ。人の居る気配など微塵みじんもないゴーストタウンよろしく、全てのビルの照明は消え、ぽつりぽつりと街灯が点在するだけだ。

 バブルの時代ならばいざ知らず、この不況時代、残業などする人種は無く、経費削減のため夜の警備員すら置かなくなったオフィスビルは、まるで里恵をあざ笑うかのようであった。

 通りのどちらかに行けば、人通りのあるところに出られるかもしれないが、間違えば更に人気の無い暗闇に出くわす可能性もある。

 里恵には瞬時に決めるだけの勇気は無かった。

 ひたひたという足音が、里恵の抜け出た路地の暗闇から近づく気配がする。革靴の硬い音ではない。冷たいアスファルトを素足で歩くかのような静かな足音だ。

 振り向いてみることなど出来ようはずもない。しかし、その気配だけは、はっきりとした存在感を持って、里恵の数メートル後ろで立ち止まった。

 恐怖というものなのか、それとも魔性の力にでも魅入られたのか、里恵の頭は思考を停止したかのように真っ白になっていた。だが、後ろにたたずんでいるであろう者の気配は、ひっつめ髪の先のまでもその質感を吹き付けてきていた。

 数分。否、数秒であったかもしれない間が里恵を包んでいた。

 ぶんという風切り音が、里恵の右こめかみ脇を通り過ぎた。

 前方でカラコロと軽い音をたてて転がって行く物体を、白濁した頭で里恵は見つめた。それが男物の革靴であることを認識するには、更に数秒を必要とした。

「制服でって言ったはずだろう。そんなイケイケスタイルじゃ金は払えないな」

 妙に落ち着いた、それでいて粘質のある声が言った。

 里恵の脳裏に、あの爬虫類男の歪んだ口元が浮かび上がった。と同時に背中の真ん中を氷の柱が走り抜ける。

「約束事ひとつ守れないようじゃ、お仕置きが必要だよね」

 脱兎の如く走り出していたのは無意識であったろう。

 爬虫類男の声が、里恵の形の良い耳元で囁かれたのだ。それも、吐息混じりの生暖かいものである。

 走り出した足が、どこに向かうかなどわからない。ただ、その場に留まることを本能が拒否しただけのことだ。

 何も見ない。何も意識しない。何も感じていない身体で里恵は走った。

 一瞬、ぼんやりとした光の筋のようなものが、走る里恵の視界で揺らめいたように見えた。小さな妖精のように、ふわりと路地の向こうに隠れてしまうような錯覚であったろうか。

 里恵は、それを追うように路地へ飛び込んだ。

 路地は、まるでそこだけ闇が凝縮したかのように暗黒の世界であった。

 いや、そうではない。

 暗黒のせかいの奥。遥か彼方で消え入りそうなほどに小さな光源がある。しかし、それも淡い緑色の豆電球のようなもので、油断すれば蛍が水辺に消えるようにゆらゆらとはかなく遠のいてしまいそうにも見えた。

 里恵の意識が、それに向かっているとは言えなかった。本能というべき部分で、暗闇の中を僅かな光源を目指して飛ぶ“蛾”のように吸い寄せられているのだった。

 遥か彼方の光源。それも里恵の錯覚であったのかもしれない。

 ほんの数十歩走り抜いただけで、それは鮮明な形を成した。

 淡い緑の光源は、重々しい古びた木製のドアに吊り下げられた照明であった。そのドアには、何やらローマ字のプレートがはめ込まれているようだったが、僅かにその頭文字が『S』ということを確認しただけで、里恵は押し開けるのももどかしく飛び込んだ。


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