里恵の日常
お待たせいたしました。一応『SCENERY』シリーズの最終話と想定してます。
楽しんでいただければ幸いです。
別に罪悪感などあるわけではない。
だれでもしていることだし、法律に触れるようなことでもない。
ただ、いつも虚しい気分になる。それは、表情には出ないものの、裏腹に心の深層部に深く根付いてしまう感覚がある。
だからといって今の生活を変えようとは考えたことは無い。
切っ掛けが無いというわけではない。そのチャンスは毎日のようにある。
朝、家を出るときに、余分な服を持って出なければいい。昼、携帯電話のメールをチェックしなければいい。夕方、待ち合わせの場所に行かなければいい。
それだけのことが、何故か出来ないままに数ヶ月が過ぎていた。
田辺里恵。16歳。
都内の公立高校の2年生。
身長161センチ。体重42キロ。サイズは上から83、61、86。
この世代では標準といえるものだろう。ただ、生まれ持つ美貌が十人並みというには光がありすぎた。
里恵の外見は、美しいというレベルに十分足り得るもので、自分もそのことを自負してもいた。プロポーションこそ十人並みなものの、顔の創りの良さから里恵は好くもてた。16歳ながらに付き合った男性は、よく思い出せないほどの数になっていた。
だが、そうそううまくは与えられない。
自分の魅力に自負がある人間は、あっさりと自信過剰へと化け、鼻持ちならない身勝手さを露見する。
里恵も御多分に漏れずに、ちやほやする男共に持ち上げられて、俗に言う“女王様”に成り果ててしまっていた。
そんな里恵を男共は、最初の下心だけで接近してくる。しかし、3日も付き合えば隙間から見え隠れする里恵の馬鹿高いプライドと鼻持ちならない発言の連発、身勝手すぎる行動に少なからず閉口する。そして、7日を過ぎる頃には付き合いを考えるようになり、自然と里恵が振られるのは時間の問題という顛末になる。
生まれながらの性格もあるのだろう。気の強い自我は、そんな自分を認めることさえしない。
自然と里恵は廻りから孤立するようになり、友人と呼べる親しい人間もいない状態が続いた。
しかしながら、なんといっても“女王様”タイプの女である。あっという間に、クラスの女学生を従えるような、恐怖のいじめっ子になっていった。
それだけではない。
年齢より進んでいるように見られる里恵にとっては、従える女生徒達より数歩前に居る存在でなくてはならない。最新のファッションからメイク、持ち物に至るまでの全ての流行を誰よりも先に入手しなくてはならない。
だが、それには金が掛かる。
必然のように里恵は、手軽な援助交際というものに走った。
最初、どこまで要求されるのかという恐れもあったが、いざ覚悟を決めてみれば、一線を逸脱するようなことは、なかなかなる事はなかった。
おじさんという連中には、あからさまに肉体を求めるような勇気のある者など、そうそう居るものではない。思っても態度には出さずに終わってしまうのが大半なのだ。
それは、里恵を増長させるだけの十分な要因になった。
腕を組んで歩き、食事を一緒にし、カラオケで歌い、買い物に付き合う。それだけで数万円という金額になる。月に一度、二度が、僅かの間に一週間に数度という頻度にまでなった。
確かに日本人が犯罪に走る例は、あまりにも少ない。海外から比べてみても、何十分の一程度のものだ。だが、皆無ではない。
抑圧される毎日を強いられる現代人にとって、犯罪にまで踏み込むのは困難ではあっても、抑制の箍が外れるのは意外に容易くもあるのだ。
いつものようにカラオケでお茶を濁し、現金を頂いた後に“さよなら”するのがベストだと里恵は考えていた。
今日の客は何処と無く脂ぎった感じのする奴で、目付きも死んだ魚のような感じの、ある種何を考えてるのか予想も出来ない相手だった。下手に隙を見せれば、大胆な要求をしてこないとも限らない。
「ねぇ、そろそろ料金の精算をしてほしいんだけどな」
そろそろカラオケルームの時間も僅かになってきたところで、里恵は切り出した。大概ならば『そうだねぇ』という返事で財布を取り出すのが常である。
だが、今日の相手はそうではなかった。
「何を言ってるんだ。これからだろう」
押し殺したような低い声と死人のような瞳で見つめられて里恵は硬直しそうになった。カラオケを一曲すら歌わず、ただじっと里恵を見つめる男に危機感を覚えていたものの、これという危害を加えるわけでもなかったので様子を見ていたのだが、これは忌々しき事態になりそうである。
里恵は何とかこの場を逃れる手段を模索し始めなくてはならないことに、不安というよりも焦燥感を覚えた。
時計の時刻は、そろそろ深夜を告げている。男という理性的な人間が、その箍を外し獣に変貌するには手頃な時間帯ともいえる。特に今日の客は、爬虫類を連想させるような無表情で、にこやかな表情ひとつみせない。
『ストーカーってのは、こんな奴がなるんだ』
じわじわと迫り上がってくる恐怖感にも里恵は負けないように、精一杯の怒気を奮い立たせた。
「今、払ってくれないのなら、これからも無し!」
制服姿で仁王立ちする小娘に、果たしてどれだけの迫力があるかという不安はあったものの、経験上、下手に出たり、かわいい素振りを見せることは、相手を増長させることが多い。それだけにここは、喧嘩になり料金を取り損なうことになっても逃げることが重要なのだ。
そんな里恵の態度に鼻白んだのか、少し驚いた表情の男は、それでもすぐに無表情に戻るとジャケットの内ポケットから二つ折りの財布を取り出して二万円を里恵に差し出し、口元だけをニヤリと歪ませてカラオケルームから出て行った。
後に残された里恵は、ふうっと大きな溜め息をついてソファに沈んだ。
強がってみたものの逆上されでもしないかと内心はヒヤヒヤだったのだ。心臓は制服の内側にある二つのふくらみを揺らすほどに高鳴っていて、全身にも力が入らない。ある種、放心状態であるようだ。
里恵がカラオケルームから出たのは、部屋のインターホンが鳴り、驚きのあまりソファから転げた後であった。
まだ高鳴る鼓動を押さえるようにして、里恵は深夜の繁華街を歩いていた。
この鼓動は、あの男がもたらしたものではない。カラオケルームで脱力した里恵に、時間の終了を知らせるインターホンのベルが、あまりにも唐突であったのと異常なまでの音量のせいだ。驚いた拍子に数センチ飛び上がり、ソファからも転げ落ちた。
先刻の興奮も相乗して、驚きの度合いは計り知れない。数分たった今でさえ収まることを知らないようであった。
それでも男が差し出した二万円をしっかりと財布に収めているところは、さすがといえよう。
通りはまだ喧騒としていた。時間は終電というには、まだ幾らかの余裕がある。
路地にたむろする若者は別としても、会社帰りのサラリーマンがほろ酔い加減に往来している様は、里恵の眼には醜悪に見えた。今でこそほろ酔いでも、これから泥酔まで飲むには十分な時間がある。その想像が容易に出来るからこそ醜悪という形容が里恵には出来る。
しかし、里恵だとて他人をとやかく批評出来る格好ではない。深夜の繁華街に他校のものとはいえ制服姿である。補導員でもいれば、すぐに呼び止められてしまう姿だ。
いくら客のリクエストで制服が良いといわれても、これでは補導してくださいと言っているようなものである。
里恵は一画にある大きな雑居ビルのトイレに駆け込んだ。取り敢えず私服に着替え、化粧を直しておく必要があった。
そそくさと制服を脱ぎ、鞄に詰め込むと、ミニスカートにタンクトップ、その上からデニムのGジャンを羽織った。お洒落とは程遠い格好ではあるが、深夜に近いこの時間では、遊び好きする洒落た格好よりも、こういったワイルド系の方がナンパされ難い。これで化粧を少し濃い目にして柳眉を吊り上げるためのひっつめの髪にすれば、よほどのワイルド系のおにいさんでもない限り声を掛けるにも勇気が必要になる。
トイレの照明は、もう寿命を迎える寸前なのか、薄暗く点滅しないのが不思議なくらいであったが、化粧を整えるくらいには支障はなかった。だが、不気味な気分にさせられるのは否めない。
里恵は手早く髪を纏め上げると、化粧道具も鞄に詰め込んだ。
その時になって、初めて誰かの視線を感じた。
トイレの中に誰もいなかったのは確認済みである。それなのに視線を感じる。
里恵は、薄ら寒い感覚を振る払うように、雑多な喧騒の中に飛び出した。




