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昼休み、僕は廊下で鉢合わせた葉山をいつもの場所に誘った。それから数時間経過した現在。いつもの場所で足を伸ばして座っている僕は眠すぎて、意識が朦朧としていた。間違いなく徹夜したせいだ。体を休めるために寝転がると、ハッカ飴を食べた時のようなひんやりとした冷たさが背中一帯に広がった。少しだけ目が冴えた気がした。
こちらに近付いてくる足音が聞こえた。
「やあやあ、ふしみん」
「やっと来てくれたか」
「ふしみんが私を呼び出すなんて珍しいからびっくりした」
隣に座った葉山は演奏会の時と同様の顔付きをしていた。
「単刀直入で申し訳ない気もするけど、やっぱり聞いておこうと思ってさ」
「えー、何のことなの」
「嘘とか裏切りとか、葉山が抱えている本当の悩みだよ。誰かに吐き出したくて、聞いてもらいたいから別の意味を含めたような言い方をするんだろう」
寝不足のせいで、頭がいつもより重くて冷静な判断できない気がした。こんな状態だからこそ、言いづらいことも言えるのかもしれない。
「そうだけど、そうだけどさ」
「そうだけど、じゃないだろう。僕と関わりのないことなら葉山が話してくれるまで待つけど、僕と関わりのあることで葉山が悩んでいるなら、聞いておかないと気になって仕方ないんだよ。加えて、いつもと様子も違うってどういうことなんだ」
「だーかーらー、言えないことは言えない。ふしみんだから余計に言えないの」
「じゃあ、いつまでも話が進まないままじゃないか」
駄目だ。さっきに増して頭が重くて、くらくらしてきた。話の最中に倒れるわけにはいかないのにな。
「あー、もうほっといてよ。私だって、誰かに聞いて欲しい。でもさ、ふしみんを好きって気持ちと麻衣ちゃんを裏切りたくない気持ちをふしみんに伝えたところで何も変わらないんだよ。これを聞いて何かをしてくれるの。そういうわけじゃないでしょ。今までは何とか耐えてきたよ。麻衣ちゃんとふしみん、お似合いだったし、私には入る隙がなかった。私が麻衣ちゃんと付き合う前から好きだとしてもね。それはそれでよかったの。でもね、麻衣ちゃんがいなくなってからふしみんは、私の好きなふしみんじゃなくなった。だからこそ、ふしみんのことを好きな私はふしみんを助けたいと思ったの。結果的にふしみんは前を向こうっていう決心をしたみたいだから、これからも付かず離れずの関係でいれると思った。だけどさ、いつの間にか、ふしみんと話す機会が増えて、私はそれ以上の関係を期待していることに気付いたの。よく考えてみるとね、それって最低なことじゃないかって。麻衣ちゃんが死んだ後にそんな深い関係を求めていいのかって、麻衣ちゃんと仲が良くなかったらこんなに悩まずに済んでいたのに、とか最低なことばっかり考えちゃう。こんなの裏切り以外の何だって言うの。部活にも影響が出るし……もう訳が分からない。ねえ、こんなことをふしみんに言えるはずがないでしょ」
葉山は喚き散らすように言葉を次から次へと紡いだ。「なるほど、そういうことだったのか」と安堵を感じた。それと同時に「僕のことが好きなんて有り得るはずがない」と衝撃を受けた。他にも思うところは山ほどあった。「本当は麻衣と仲が良かったのか」とか「部活に支障が出ているのは僕のせいじゃないか」とか。別に死ぬとかそんな大層なことじゃないけど、走馬灯のように様々なことが頭を巡った。だけど、中途半端なことに僕は疲労が限界に達したのか、意識が朦朧。「倒れるな、これ」と気付いた刹那、視界は反転。足が縺れた僕は数秒間だけ空中に浮かんだ。そのまま海へと落ちた。海中は冷たく、空から差し込む光で綺麗だった。
消毒薬の匂いが鼻につき、目が覚めた。室内を見渡し、自分のいる場所が病院だと把握できた。壁に掛かっている時計の長針と短針の位置で今の時間帯が世間一般で言う深夜だということも分かった。自分が置かれている状況に慣れてくると、海に落ちたことや葉山の悩みを打ち明けたことを思い出した。葉山は僕のことを好きだと言った。それも麻衣と付き合う前から。生まれた様々な思いに悩まされ、ここまで来たせいで溢れた。僕だって悩まずにここまで来られたわけじゃない。だけど、僕が悩む度に葉山は助言をくれ、何度も何度も助けてくれた。そんな彼女を僕は助けたことは一度もない。むしろ、ずっと傷付けていた。次は僕が葉山を助ける番じゃないのか。一番の助けになるのは彼女に好意を伝えることだと思う。僕だって、葉山に少しも好意がないわけじゃない。何でこんなに優しいのだと何回も思った。僕の抱いている好意が異性としての好きではなく、友達としての好きかも分からない。こんな曖昧で不確かな状態で答えを出すと、後で麻衣を裏切っているような気分になり、本当にこれでいいのかって何回も振り返ることになってしまう。カラフルを見た時に僕は決めたじゃないか。前を向く以外にもするべきことがあるって。葉山が困っていたら助けるって。
隣にある床灯台に二つ折りにされた小さい紙切れが置いてあった。月の光に照らされ、今にも僕に取れと言っているようだった。紙切れには『明日、美味しい物を持って行くから待っていてね。それとごめんなさい』と書かれてあり、葉山が置いていった物と分かった。僕は決心しないといけない。気持ちに区切りを付けるんだ。無気力から解放してくれた葉山のためにも。久しぶりに沸々と怒りが滾ってくるのが分かった。もちろん、誰かに対する怒りではなく、自分に対する怒りだ。
翌朝、僕はしなければならないことを果たすため病院を後にした。医師の許しは得てない。それより、今の僕はしないといけない。これは僕にできる唯一のことだ。女々しいと思われても、情けないと思われても、僕が本当の意味で一歩を踏み出すには彼女との思い出を振り返ることが必要だ。それで全部が終わった後に、一つの思い出として、未練を残さず、頭の片隅に置いとけるようにするんだ。そしたら、今の状況とも向き合うことができる気がするから。試してみないと始まらないじゃないか。
それぞれの位置や道順を頭で考えた結果、順番はショッピングモール、水族館、図書館、有明家、丘になった。ショッピングモールに行くには、まず都心部に出る必要があるため自転車が必要だった。一旦、家に戻った僕は家族に気付かれないように駐車場にある自転車に跨り、勢いよく家を後にした。
平日ということもあり、ショッピングモールは人が少なかった。麻衣と行ったパスタ専門店や若い女性向けの服屋を見て回った。『このカルボナーラとっても美味しいですね』、『私にこれって似合いますか』、こんな他愛もない会話もあった。とにかく、麻衣はいつも嬉しそうに笑っていた。僕もそんな彼女を見て、幸福感に包まれていた。思い出す度に目頭が熱くなるのを抑えて、ショッピングモールから去った。
次の目的地である水族館は市街地と真反対の位置にあるため、物凄く体力を消費した。やはり、平日であることから水族館も人が多いということはなかった。水族館の魅力の一つである巨大な水槽を前にした時、『ジンベイザメって、あんなに大きいんですね』と、麻衣が水槽を指しながらはしゃいでいたことを思い出した。そんなジンベイザメは前と変わらず優雅に泳いでいた。僕は泳ぐ姿を小一時間程眺めた後、その場を後にした。
学校の近くにある図書館は静かで二人でよく勉強をした。途中、学校の前を通った時、自分は無断欠席じゃないのかと思った。目的を果たすことを考えたら、そんな陳家なことはすぐに掻き消された。世間一般で正しい義務教育より、自分が正しいと思うことをする方が今の僕とっては大事なんだ。
図書館では、一緒に勉強した机のある椅子に座った。『ここが分からないんだよ。ほらほら、ここの答えが何でこうなるのか』『ここはですね、ここにある単語の意味でそういう答えになるんです』、そこには僕たちが過ごした時間の形跡が確かにあった。僕が真面目に勉強に取り組もうと思ったのも麻衣に教えられるのが情けないと思ったからだ。今はその影響でしていた勉強が癖みたいに定着しているせいで、勉強をしているようなものだ。そのおかげで、勉強には困っていない。ここでは、穏やかな気分になれた。長居してしまいそうだったのと、この気分なら麻衣の家で仏壇の前に立っても取り乱すこともないと思ったので、すぐに自転車置き場に向かった。自転車に乗った僕の取る進路は有明家だ。何たって、僕は麻衣が亡くなってから、まだ一回も線香を上げていないのだから。
有明の前に着き、インターホンを鳴らした。「伏見です」と伝えると、麻衣のお母さんが玄関から顔を出してくれた。上品そうな雰囲気を醸し出している人だった。早速、事情を説明すると、快く家に上げてもらい、仏壇のある和室まで通された。
仏前にある麻衣の遺影と向き合った。手を合わし、目を瞑り、「ごめんな」と謝ることができた。
「あの時は、呼び出してごめんなさいね。あの子が頻繁に連絡を取っていたのはあなたみたいだったから」
きっと、麻衣が亡くなったあの日のことを言っているのだろうと感じ取れた。
「僕の方こそ、挨拶もできなくてすいませんでした。麻衣さんには仲良くしていただきました」
「いいのよ。もしかして、付き合っていたの」
「あ、はい。そんなところです」
少し恥ずかしくなり、俯いてしまった。その後、麻衣のお母さんがお茶と和菓子を持ってきてくださり、付き合っていた頃のことを聞かれていたので、軽く話した。
「あ、伏見くん、今日って学校じゃなかったかしら」
学校の授業終了を告げるチャイムが鳴ったのが聴こえたみたいだった。でも、学校よりも果たすことがある今日の僕にとっては聞かれても気に障るようなことじゃなかった。
「そろそろ前を向けそうで、行っても大丈夫かなと思ったのが今日だったので、つい」
「そう。きっと麻衣も喜んでいるわ」
その言葉を聞いて、安堵感に包まれた僕は麻衣のお母さんと世間話を済まし、有明家を後にすることにした。
「旦那さんに、前は逃げ出すように帰ってすいませんでしたと伝えていただけるとありがたいです」
「あ、伝えておくわね」
何のことだろうと考えるような表情をした麻衣のお母さんだったが、深く考えずに受け取ってもらったようだった。残すのは、一緒に星空を見た小高い丘だけだ。
一日中走らせ過ぎたせいか、丘に向かう途中で自転車の後輪がパンクしてしまった。日は刻々と陰り始めていたが仕方なく家に戻り、自転車を止めた後、歩きでいつもの場所から少し離れた位置にある丘を目指した。
丘の頂上に辿り着く頃には空にちらほらと星が見え始めていた。今日一日、僕は麻衣との思い出の欠片を拾うように沢山の場所を巡った。泣きそうになったり、穏やかになったり、色んな気分になった。夜空を見上げると、麻衣の言っていた言葉が、流れ星が流れ落ちるように僕の頭に降ってきた。
『今、自分を大切にしてくれる人は自分も大切にするべきだと思うんですよ。今の私の中ではそれが宗太君だから。これから先は私たちも成長して、考え方や価値観が変わっていくと思っています。宗太君とは付き合ってないかもしれません。宗太くんと私どっちがどっちを振るか、振られるかも分かりません。どっちかがショックで立ち直れないこともあるかもしません。それでも人は明日を生きて行かないといけません。前を向かないとそれまでの自分を否定することになってしまいますし、何事にも向き合えなくなって、殻に籠ってしまう可能性もあります。ですけど、私たちにはそんな未来のことを予知することはできないから、防ぐこともできません。もちろん、傷を和らげるために今からでも対策を講じることもできます。でもですね、未来で傷付きたくないから今からそういう風に生きるっていうのはどうかって思うんです。やっぱり、今に納得して、今を大切に過ごすのが何よりもいいはずです。だからこそ、未来も開けていきます。立ち直れなくても、今を大切にした経験が助けてくれる時だってあると思うんです。そうだから、今は私を大切にしてくれる宗太くんと過ごす時間が一番大切なんです』
言われた時はただ単に嬉しいと受け取っていただけだが、今となっては僕を後押ししてくれる言葉になっていた気がした。こんなことを言ってくれる彼女はもうこの世にはいない。いくら願おうとも戻って来ない。そんなことは分かりつつ、今までを過ごしてきた。途中、僕は何度も駄目になりそうになった。だけど、その度に葉山は僕を助けてくれた。
『今、自分を大切にしてくれる人は自分も大切にするべきだと思うんですよ』
『今は私を大切にしてくれる宗太くんと過ごす時間が一番大切なんです』
僕は麻衣のことを忘れない。だからこそ、麻衣の言っていた通り、今の僕を大切にしてくれている人を大切にしたい。そう、葉山が僕にしてくれているように。
本来なら僕は病院で安静にしているはずだ。出てきたしまったせいでお見舞いに来てくれていたであろう葉山のことを忘れていた。急いでスマートフォンを取り出し、葉山宛てに電話を掛けた。
「もしもし、僕だけど」
『ふしみん、今どこにいるの!』
「星がよく見える丘に来ているよ」
『もう、病院にもいないし、家にもいないし、本当に心配したんだから』
「悪かったって。お見舞いに来てくれるって言ったのにごめん」
『それはいいよ。無事で安心したから』
「ありがとう。それより、今から会うことってできる」
『大丈夫。場所を言ってくれたらすぐに行けるよ』
「じゃあ、いつものところで。寒いだろうから温かい恰好でな」
『そうしますよー。また後でね』
もう少し重い空気が流れるような気がしていたが、そんなこともなく、いつもの僕と葉山がする会話だった。ほんの少しだけ安心。心配してくれたことも素直に嬉しいとも思った。後は伝えることを伝えるだけだ。
夜の波止場は外灯がついて、足場だけが見えるようになっていた。ところどころに夜釣りをしている人が見える。いつものところに葉山の姿があった。
「悪い。ちょっと遅くなった」
「特別に許してあげましょう」
偉そうに胸を張る葉山。
「あれだ、昨日と今日は本当にごめん」
「もういいって。ふしみんには言っちゃったし」
「そうだったな」
ちょっと照れそうだったので、必死に冷静さを装うため、「麻衣と仲が良かったんだな」と訊ねた。
「麻衣ちゃんとは部活では仲良くしてたんだよ。私は高校から吹奏楽部に入ったけど、麻衣ちゃんは中学の時からしてみたいでよく教えてもらったんだ。でも、教室だとふしみんと話しているところとか見ちゃって、私のメンタルがガタガタになっちゃうからあんまり話さなかったんだけど。でも、部活友達としては一番仲良くしてもらったし。葬式の時も後から職員室に行って、先生にお願いしたんだ。そしたら、先生が伏見も連れて行くって言うからああなったんだよ」
「そういうことだったんだな……全然、知らなかった。ごめんな」
「だから、もうそれはいいから。それより、私に話があるんじゃなかったの」
そう言われて、一度呼吸を整え直す。肝心なことを話す時に呼吸を整え直すことは欠かせない。
「言いたいことは決まったんだけど、今日はまだ言えない。ちゃんとしたことを伝えるのはもうちょっと後にして欲しい。だから、今日は伝えることが決まったっていうことを伝えたかったんだ。呼び出しておいて悪いけど、ちゃんとした時、ちゃんとした場所で伝えたいんだ」
「やっぱり、ふしみんは優等生だよね。色々と律儀すぎでしょ」
くすくす、と葉山は微笑んでくれた。その後も僕らは時間の許す限り話し合った。
一週間後、色んなことがあって、無事に冬休みを迎えられるか、られないかを決める期末テストの存在を忘れていた僕は平均点の前後を彷徨う点数を連発した。でも、何とか補習なしで冬休みを迎えることができた。数学苦手な葉山も何とか平均点に近い点数を取り、補習を免れたみたいだった。後は、『ちゃんとした時、ちゃんとした場所』で葉山に言わなければならないことを伝えるだけだ。