癒しのイボ蛙
「はぁああ、よりによってゲオルギウス学徒騎士が相手かよ」
「禿げにぃ、なにため息をついてるのよ」
「そりゃあお前、ため息の一つもつきたくなるよ。ただでさえこの学園の生徒は坊ちゃんぞろいで、女なんて黙っていてもいくらでも寄ってくるような連中ばかりなのに。それをよりによってゲオルギウス学徒騎士団の騎士様とは・・・・・・ どう考えても、お前に惚れるはずないだろう」
「なんでそうやってすぐに決めつけるのよ、禿げにぃは! やすぃが一目惚れした相手だよ、女の子の年や顔だけで相手を選ぶはずないじゃない!」
「じゃあどこで選ぶだよ?」
「優しいところとか気立てのよさとか、母性的なおっぱいとか――」
「おっぱいって、年食ってタレ始めてるんじゃねーかよ」おれが指摘すると「誰のおっぱいがタレてるというの誰のおっぱいが!」妹が怒り出した。
「わかったから大声だすなよ。恥ずかしいから」妹よりも常識的であるおれは周囲の目が気になった。
「そういう言い方されるとなんかやすぃが悪いみたいじゃない。人の肉体的な欠陥を口にする禿げにぃの方が悪いに決まってるのに」
〝オメーなんて日常的におれのことを禿げ禿げよんでるだろうが!〟
と怒鳴ってやりたかったか、話が進まないので止めておくことにした。
「それでどいつなんだ、天使の転生体は」
「えっ・・・・・・」妹は絶句したかと思うと、俯いて黙り込んだ。
「どうしたんだよ黙り込んで。お前が指ささないと話しが進まないだろうが」苛々して催促すると、「ダメぇ。指なんか指したら、やすぃの心臓ドキドキしすぎてきっと爆発しちゃうよ」
妹は胸を押さえながら、寝言をほざいた。
「ババアのくせに、なに訳のわからないこといってんだよ!」
「やすぃはババアじゃないもん。女の子だもん」
妹は顔をぷいと横にむけ、ふて腐れた。
〝ふざけんなよ、クソババア〟
お前のそのメルヘン思考のおかげで、おれの人生計画は狂いぱなしなんだよ!
妹にむかって怒鳴り散らしてやりたかったが、グッと堪えた。今は喧嘩してる場合じゃない。「――わかった。おれが指さしてやるから、お前は頷くだけでいいから」
妹はこくりと頷いた。手始めに黒馬に跨がっているマッチョ男を指さした。
妹は顔を横に振った。次ぎに長髪の優男を指さした。おれは男のくせに長髪にするような馬鹿男は嫌いなのだが、少女漫画ボケしている妹なら食いつきそうな顔であった。
しかし妹は首を横に振った。
〝今までの傾向からしてこれかと思ったんだがな──〟
おれは首を捻りながらも次から次へと指を指していったが、妹は首を縦にふることはなかった。
〝まさか中学生か?〟 犯罪の領域だと思ってあえて指をささなかったが、若い男好きの妹ならあり得る。おれは躊躇いがちに中等部の学徒騎士達を指さしていった。
それでも妹は首を縦にふることはなかった。
「おい、いねえじゃねえか?」
「――いるよ、禿げにぃ」妹は一人の騎士を指さした。
妹の指の先にはポニーにまたがった可愛らしい騎士が、突撃する順番を待っていた。
稽古用の鎧を着ているため顔はわからない。しかしその背丈からみてどう見ても小学生であった。
「おい――」
――まさかアレか。おれは震える指で小さな騎士を指さした。妹は顔を真っ赤に染めながらこくりと頷いた。
「頷いてるじゃねえ! お前わかってるのか、相手は小学生だぞ、小学生! 手なんか出した日には確実に新聞沙汰になるぞ!」
おれは妹の首を絞めながら体を怒鳴った。中学生相手でも犯罪レベルなのに、よりによって小学生とは。犯罪レベルではなく、これはもう明確な犯罪行為であった。
「――だって好きになっちゃったんだもん」
「だもんじゃねえよ、ショタコン女! 小学生の目から見ればお前なんかオカンだぞ、オカン!」おれは妹の正気を取り戻させるため、オカンという言葉を強調した。
「しょうがないよ、好きになっちゃったら年齢なんて関係ないもん・・・・・・」
馬鹿な妹は妄言を呟きながら、泣き出した。
「関係大ありだよ!」おれは大声で吐き捨てると、天を仰いだ。
――終わった。どうマイルドに考えても犯罪者エンドしか見えてこない。
あまりの絶望の重さに肩を落としていると、怒号のような歓声がわいた。
小さな少年が停止線の前にたち、ランスを構えていた。
「蒼井君!」
「蒼井様!」
下は小学生から上は近所のおじちゃんおばちゃんまで、小さな騎士にエールを送っていた。
蒼井だと──。まさか。おれは慌てて鎧に刻まれてる紋章に目を移した。
白銀に輝く鎧の胸部には青薔薇の紋章が刻まれていた。
間違いない。あのガキンチョは蒼井・ゲオルギウス・勇気の子孫、蒼井・ゲオルギウス・翼だ。
魔界、人間界にその名を轟かした勇者の子孫がこの学園に在籍しているのは知っていたが、自分達には関係ない人間だと思いさして気にもとめてなかった。暇なときにでも観光気分で顔を拝みにいくか程度の認識であった。
それがまさかこういう形でかかわることになるなんて──。
驚いているおれを他所に、蒼井は稽古人形に突撃しようとランスを構えた。
蒼井はその名に相応しき青色のプラーナをランスに注ぎ込んだ。
小学生にしてはかなりの量であったが、それでもおれの目から見ると微弱であった。
〝小学生レベルではいい方だが、百人いれば一人はいる程度の才能だ〟
名門であるゲオルギウス学徒騎士団なら、この程度の実力を持つ小学生騎士など珍しくはないだろう。
しかしそのプラーナの色は実にいい。
蒼井のプラーナはその胸に刻まれた青薔薇の如く、気高く美しかった。
年を重ね修行を積めば、最強の称号を得ることは出来なくても、祖先の名に恥じぬ騎士に成長するのは間違いなかった。
蒼井はポニーの腹を拍車を当て、突撃を開始する。
馬場の周りで見物していた一般生徒達は歓声をあげる。蒼井の突撃を見物している先輩たちも、後輩の突撃の見事さに感心している。
だがおれだけは蒼井の突撃に首を捻った。
腰が浮きすぎてる。あれでは的の中央を射貫くことはできまい。
おれの予想通り、蒼井のランスは的の中心を外した。
稽古人形はくるりと一回転し、右手に装備されたモーニングスターで、前を駆け抜けようとする蒼井の兜を鉄球で打ちのめした。蒼井はバランスを崩し、落馬した。
「蒼井君!」妹が悲鳴をあげる。
「落ち着け、骨は折れちゃいねえよ」
鎧と僅かばかりのプラーナが体を保護しているおかげで骨折はこそ免れたが、落下のショックで呼吸出来ないぐらい痛むであろう。修業時代のおれも落馬したことがあるのでよくわかる。
蒼井は苦痛を堪え立ち上がろうとした。主を乗せていたポニーは心配そうに、小さな主を見守っている。
〝騎士なら立ってみせろ〟おれは心のなかで叱咤したその時、
金髪の少女と黒髪の少年が馬場の中に飛び込んできた。
長い金髪に、碧色の目。妖精族の証しである長く尖った耳。人間族の血を証す豊満なバスト。
金髪の少女は人間ではなくハーフエルフであった。
ハーフエルフは主の傍らに座り込み、黒髪の少年は主の背中を支えた。
「無理をなさってはいけません、蒼井様。」
様付けするところを見ると、ハーフエルフは蒼井の家来のようだ。
ハーフエルフを家来にするなんて珍しい。
ハーフエルフは人間社会では哀れみと嫌悪の目で見られ、エルフ社会からは忌み子として拒絶される。
差別されるとはいえ人間社会はハーフエルフの存在を許しているので、ハーフエルフのほとんどは人間社会で暮らすことになるが、その生活は厳しかった。
まともな職業につけるハーフエルフなどほとんどいない。大抵のエルフは肉体労働か賎業とされる職業。もっと手っ取り早く金を得たいのなら、人間の金持ち相手に春を売るぐらいしか手はなかった。
貴族の家来になれるハーフエルフなど、その体に流れるエルフの血を利用して魔術師、もしくは家来という名を借りた愛人ぐらいである。
小学生の蒼井が、ハーフエルフを愛人として抱えることなどありえないので、あのハーフエルフは純粋な意味で家来なのだろう。
「心配するなアンリエッタ。これしきの傷でいちいち手当てを受けては学徒騎士とは言えぬ」
小さな騎士は可愛らしい声で言い張った。いい根性であるしもっともな事である。
落馬ごときで立てないような騎士は、戦場ではなんの役にも立たないのだから。
「蒼井様。私の立場もお考えください。蒼井様の身に何かあったら、家来である私が叱られてしまいます」
「そうだったな――すまないアンリエッタ。君の立場にまで気が回らなかった」
蒼井は家来にむかって頭を下げた。家来であるアンリエッタはハーフエルフである。普通の家来以上に厳しい目で見られているのは間違いなかった。いや厳しいどころの話ではなく、つねにあら探しされている立場なのかもしれない。
そういった事を考えれば、今回の落馬の件も、アンリエッタが蒼井の気概を酌んで見守るだけで済ませていたら、分限知らずのハーフエルフの足を引っ張ってやろうと手ぐすねしている連中につけ込まれる可能性あった。
蒼井は、そういった複雑な事情を抱えている家来の立場を察することが出来ない自分の未熟さを悔い、だからこそハーフエルフにむかって頭を下げたのであろう。
〝小学生のくせに気苦労の多いこった〟
「いえ、蒼井様。蒼井様は騎士としての当然の気概を示したまでです。罪はむしろ主の立場を察することが出来なかった、このアンリエッタにあります」
――申し訳ありません、蒼井様。アンリエッタは深々と頭をさげた。
家来は態度によって、主に貴族としての立場を諭した。
プライベートならともかく、衆人環視のなか貴族である蒼井が家来にむかって安易に頭を下げるのはまずい。
貴族は家来に対しては、威と寛容をもって望まねばならないのだから。
アンリエッタの考えを察した蒼井は、ハーフエルフにそれ以上の言葉をかけなかった。
兜を被ってるので顔が見えないはずなのに、おれの目には何故か寂しげに見えた。
「瑞樹、悪いが鎧を外すのを手伝ってくれ」
主が命じると、主の背中を支えていた黒髪の少年──。
いや、違う。
彼は少年ではなく、少女であった。
髪を男の子のように短くしているので気づかなかったが、少年というにはその目が可愛すぎた。それに胸も僅かながらに膨らんでいる。本当に僅かであるが。
その僅かに膨らんだ胸の上には、白百合の紋章が描かれていた。
〝あの少年のような少女が、高藤・イザベル・百合子の子孫か〟
高藤・イザベル・百合子。伯爵の娘でありながら無敗を誇る女騎士であり、下級貴族の蒼井に最初に剣を捧げた騎士。ゲオルギウス学徒騎士団の初代副団長。
百合子は最後まで主の背中を護り、そして死んでいった。
彼女の死後、教会は彼女に聖女の証である白百合の紋章を送り、彼女の死を悼んだ。
以後、彼女は白百合の騎士と呼ばれ、英雄ゲオルギウスに次いで民衆に愛された。
「蒼井大丈夫か?」黒髪の少女が問うと、「――骨は折れてないから平気だ」蒼井は痛みを堪えながら言った。
「――頑張りすぎだ馬鹿」瑞樹は鎧の留め金を外しながら呟いた。
「いつまでも従者よりも弱いわけにはいかないからな」
「怪我して練習できなければ、もっと弱くなるじゃないか」瑞樹は顔を伏せながら答えた。
兜で視界が狭められている蒼井は気づかなかったろうが、瑞樹の頬は赤く染まっていた。
しかしミーハーな見物人はともかくとして、うちの妹といい、ハーフエルフの家来といい、黒髪の少女といい、こいつ女にモテすぎだろうが。
おれだって安井家の王子だが、札束で女の頬を張り倒さないかぎり、キャーキャー言われたり女に追いかけられたりしなかったぞ。まあ、禿げだったのがいけないのかもしれないけど。。
おれがつまんない事を考えてると、蒼井は兜に手をかけた。隠れていた素顔が露わになる。 おれは息を飲んだ。蒼井の容貌はまさに天使であった。
陽光で作られたかのような金色の髪。北海の海を思わせるような蒼い瞳、少女のような唇。
少年でもなく。少女でもない生き物。間違いない、魔道師の目がなくてもわかる。こいつは天使の転生体だ。それもかなり上級な奴だ。
〝こりゃあ、モノが違いすぎる〟
行き遅れの悪魔と、美しい天使の少年。
釣り合いが取れないにもほどがある。
つまらない事を考えてると、健気な従者は主の鎧を手早く外していった。
蒼井の白い肌は汗で濡れていた。白いシャツから透けて見える乳首は男のくせにピンク色だった。
蒼井が女だったら、蒼井のハンカチを得るため学徒騎士達は命をかけて決闘したであろう。
それほどの美貌であった。
「――おい。チャンレンジしすぎだろう」おれは無謀極まりない妹に声をかけた。
妹は鼻血を垂らしながら、蒼井の裸に魅入っていた。
──ダメだこいつは。
「おい、鼻血たらしてる場合じゃないだろう? ライバルだらけだろう」
「だって蒼井君、格好可愛いすぎるだもん」
「いいから鼻にテッシュをつめろショタコン女」
妹は半裸の蒼井をガン見しながら、鼻にテッシュをつめた。
馬鹿兄弟がコントを繰り広げている間、家来であるアンリエッタは主の体に塗り薬をぬっていた。蒼井は痛むらしく、塗り薬をぬられるたびに桜色の唇を噛んで苦痛を堪えた。
見ようによっては快楽を堪えている少女にも見える。
そう思っているのはおれだけではなく、妹や蒼井のファン達も生唾を飲み込みながら、蒼井を見つめていた。
――いかん。気を逸らさないと、おれまでショタコンになっちまう。
「おい、お前も魔女なんだから癒しの魔法ぐらい使えんだろう? お前もちょっと行って手伝ってこい」
妹が出て行ったところで割り込む余地は皆無であることはおれにもよくわかっていた。
出て行ったとこで手酷く撥ね付けられる可能性があるのも承知していた。
それでも妹が行かないことには、話が進まないのである。
まあ、手酷くフラれる可能性は高いが、どうせ無理ゲーなのだ。終わるなら早いほうがいい。
「――無理無理そんなことしたら、やすぃまた鼻血が出ちゃうもん」
「鼻血なんかだすんじゃない、ショタコン女。何もしなければたんなるショタコンのストーカーで終わっちまうだろう。とにかく行ってこい!」
おれはモジモジしている妹の背中を叩いた。妹は叩かれた衝撃で前につんのめる。
妹はそれでも柵を跨ごうとはしない。助けを求めるようにおれの顔を見つめたが、厳しい視線を返すと、妹は意を決し柵をまたいだ。
運動神経皆無の妹は、ただ柵を跨ぐというそれだけの行為で転けた。
妹のあまりの間抜けぷりに、蒼井ファン達も、主を手当していた家来も、主の横に控えている従者も、そして片思いの彼氏も、泥のなかに頭を突っ込んでいる妹に視線を注いだ、
妹は泥の中から頭を引っこ抜いた。顔も髪も泥だらけであった。魔王の威厳など微塵も感じられなかった。たんなる泥だらけの変なおばさんである。妹は照れ隠しのつもりなのだろうか、泥だらけの顔に気味の悪い笑みを浮かべていた。
〝なんかもう終了くさい〟おれは絶望と、ある種の諦観で胸がいっぱいになった。
──二百年。妹は人間社会を放浪し何人もの男に恋をし、そしてフラれつづけてきた。悪い女じゃないんだ。絶世の美女というわけではないが、可愛い顔をしている。少々年は食ってるが、賞味期限が切れてるというわけではない。性格だって悪くない。間が抜けているし、お人好しのところもあるけれど、それは裏を返せば妹の美点でもあった。
〝でも、妹に男が出来ないのは・・・・・・〟 王子様を求めすぎているからなんだろうな。天使も所詮男だ。顔が良くても、少女漫画に出てくる王子様じゃない。そんなもん求められても困る。妹も頭じゃわかってるんだろう。
いやわかってなかったんだろうな──。
目頭が妙に熱くなってきた。おれはどうも妹を哀れんでいるらしい。
――長く一緒に暮らしすぎたな。
おれ達は魔王家に生まれた王族だ。魔界にいた頃は広い王宮のなかで別々に暮らしていたから、家族の情などたいして育たない。
実の弟を殺した時だって、なんの感慨もわかなかったぐらいだ。
しかし妹は違う。おれ達はあまりに長く一緒に暮らしすぎた。おれ達兄弟は、人間界に来て本当の家族って奴になったのかもしれない。
厄介な感情を背負い込んでしまった。おれ達は庶民のように生きることは許されない。ときに兄弟の間のでも剣を取って殺し合わなければいけない、魔王家に生まれるということはそういうことなんだ。
実の兄弟を家族ごと皆殺しにした王族なんぞ、安井家の歴史には吐いて捨てるほどいる。
だから家族の情なんてあまり持たないほうがいい。その方が魔王家の王族として生きやすい。
「――魔女先生だ」蒼井ファンの誰かがが妹のあだ名を呟いた。
魔女先生とは、妹が魔術科の講師をやってることから付けられたあだ名である。
普段はさして重いあだ名ではない。妹が担当している小学生達は、その言葉の重さを知らずに妹の事を魔女先生と呼んでいた。
しかし魔女という言葉には重い意味が込められていた。
デモニア。
悪魔と人間の呪われしハーフ。悪魔の血からは魔力を受け継ぎ、人間の血からその弱さと重い十字架を背負わされていた。
暗黒時代と呼ばれた中世。デモニアが人間社会に生きるには二つの選択肢しかなかった。
魔術師か、傭兵か。
悪魔の血を宿しているデモニアには娼婦をやる選択肢すらなかった。
それ以外の選択肢を選ぶのなら、デモニアであることをひた隠しにして人間社会に生きなければいけない。
多くのデモニアが魔術師や魔女になり、そして魔術に対する人間の迷信的な恐怖が極限まで高まると、魔女狩りが行われ多くのデモニアが焼き殺された。
近代となり、人間社会に魔術が受け入れられるようになると魔女狩りはなくなり、それまで日陰の存在であったデモニアは魔術的才能に恵まれた貴重な人材と化した。
デモニアが人間社会で高い地位を獲得するようになると、成功したデモニアがデモニア解放運動や差別反対に取り組むようになり、一部の制限はあるものの先進諸国ではデモニアにも普通の人間と同じ権利が保障されるようになった。
表向きはである。
無論、差別は根強く残った。特に貴族社会や教会ではデモニアと魔術は依然としてタブーであった。
蒼井のファン達は魔女先生と呟いたのは、デモニアのババアは帰れという手酷い拒絶であった。蒼井ファン達はたった一言で妹を拒絶したのである。
「――蒼井君。やすぃの魔法で癒やしてあげようか」
家来であるアンリエッタはすかさず断ろうとした。アンリエッタは見物人の呟きから、主に馴れ馴れしく近づいてくる女がデモニアであることを察知していた。
まともな貴族の家来なら、たとえ主の身が重傷であったとしても、デモニアの癒しなど撥ね付けるであろう。へたにデモニアの癒しなど受けた日には、体面を重んじる貴族社会では致命傷となりかねない。
家来は主の体面を守るためデモニアを追い払い、主もまたそれを当然の事として受け止めるだろう。
しかしこの小さな貴族の主は違った。家来の行動を察知すると、家来が止める前に「――お願いします、安井先生」と言って礼儀正しく頭を下げた。アンリエッタは驚いた顔で主の顔を見つめた。主の目には強い決意が宿っていた。
家来は主の決意の強さを悟ると、黙って引き下がった。
年を取って涙脆くなったおれは蒼井の行為に感動して不覚にも涙ぐんでしまった。泣く子も黙る安井家の魔王子なのに情けない。
蒼井に受け入れてもらった妹は喜色を浮かべながら呪文を唱えはじめた。
「癒しの沼にすむ精霊よ、我が招来に応えたまえ」
妹は手をかざしながら、呪文を唱える。妹の手のなかに気味の悪いイボ蛙が現れた。
〝アホか、お前は!〟
おれは妹のあまりのアホさ加減に呆然となった。たしかに癒しのイボ蛙は、普通のヒールよりも効果は高い。おれ自身も何度かお世話になったことがあるからよくわかる。しかし、だ。この場面でイボ蛙なんか召還するなよ。どんな嫌がらせだよ。おれが期待してたのは、手から青い光を発して傷を治すヒールの呪文である。あれなら見た目的にも絵になるし、ラブロマンスが生まれる余地もある。それに分類も白魔術であるから貴族のお坊ちゃんでも簡単に受け入れることができる。しかし癒しのイボ蛙は完璧に黒魔術に分類されている。
黒魔術、白魔術の色分けは魔術に対する人間の無知から来る迷信のようなもので、なんの根拠もない。まったくのデタラメであった。魔法の使用を受け入れた現代ではさすがにこの分類は否定されたが、保守的な層の人間は昔の無意味な分類に則って魔術を色分けしていた。
学徒騎士団など、その最たる人間の集まりだ。その人間の前で、なんで黒魔術なんか使ってるんだよ。
〝なんのために少女漫画読んできたんだよ〟
こういう時こそ、得意のメルヘン思考働かせるべきだろう。おれは冗談抜きで泣きたかった。妹は蒼井を助けたいという純粋な善意のもと、治癒効果の高い癒しのイボ蛙を召還したんだろう。戦場なら妹の行為は正しかった。でもな、相手は瀕死の戦士じゃないんだ。
たんなる落馬事故なんだから、ヒールの呪文で十分だろう。イボ蛙を呼ぶ必要など一切ない。
〝頼むからもっと上手くやってくれよ、妹よ〟 おれは心のなかで妹に訴えた。
妹はといえば自分のやらかした事態に気づかず、泥だらけの顔に笑みを浮かべながらイボ蛙を握りしめていた。蒼井が喜んでくれると思っているのである。
切なくなるぐらい馬鹿だ。
「――安井先生。何の真似ですか?」青筋を浮かべながらアンリエッタが問うた。
アンリエッタが怒るのも無理はない。貴族が魔女の癒やしされると言うだけで体裁が悪いというのに、黒魔術によって癒されるなど体裁が悪いどころの話ではなかった。
「――あのう、そのう――。癒しの魔法だけど――」妹はイボ蛙を握りしめながら泣きそうな顔で呟いた。イボ蛙だけは空気も読まず、脳天気にゲコゲコ鳴いている。
この上なく間抜けな光景。まわりにいる蒼井ファン達も失笑している。
〝クソっ、出来ることなら笑ってる連中の顔を張り倒してやりたい〟
そんなことすればおれは確実に用務員クビだし、妹も学校にいられなくなるだろう。
「――控えろ、アンリエッタ」蒼井は静かな声で家来に命じた。
「蒼井様――」家来は、主人に何か言おうとしたが、主人は無視した。
蒼井はイボ蛙を握りしめている泥だらけの女の顔に目を向けた。
「その呪文は禁呪ではないですよね、安井先生?」妹は涙を泣きながら首を横に振った。
「ならお願いします、安井先生」
「いけません蒼井様! 蒼井様はいずれは教会騎士になる御方です。その身を黒魔術によって汚すわけにはいきません」家来は主の言葉を耳にして血相を変えた。
「ジュナイの勅令では、黒魔術の使用、または影響を受けたとしても、禁呪ではない限り魂は汚れないと宣言している。公式に教会が宣言している以上、黒魔術によってこの身を癒やされても問題はない」
「蒼井様の仰ることは建前論です。現実は違います。教会は家柄を否定し、差別を否定しますが、教会ほど差別と偏見に満ちた世界はありません。ハーフエルフである私にはよくわかります」
「僕も蒼井家の人間だ。教会のことはよくわかってるつもりだ。差別と偏見が教会に残っているのも悲しい事だが事実だ。しかし教会の中には理想に燃える高位司祭もいる。偏見と闘うデモニアの教会騎士もいる。僕もまた彼らと共に偏見と差別に対して戦いたいを挑みたいと思っている。安井先生の好意を受けることが、その第一歩になるかもしれない」主は現実主義者の家来に理想を説いた。家来はそれでもなお現実を説こうとするが何も言えなかった。
ハーフエルフはデモニアと同じく差別される側の人間であった。蒼井が身を盾にして庇ってくれなかったら、アンリエッタは蒼井の家来なんぞにはなれなかったろう。
だから知っているのだ。このハーフエルフの少女は、己の主人の気高さと頑固さを。
〝その家名通り、蒼い男だな〟好漢だが早死にするタイプだ。
たとえ死ななかったとしても、その蒼さによってドンキホーテのような生涯を送るかもしれない。他人からは間抜けと嘲笑われる人生を送る羽目になるかもしれない。
しかし――。何事かを成す人間は、心のどこかが蒼く染まっている。
「――あのう、いいの? その先生がヒールしちゃって」妹はおどおどと尋ねた。
「構いません。僕は早く傷を治して、練習に復帰したいのですから」
――お願いします。蒼井はそう言って目を閉じた。
妹は恐る恐る、蒼井の腫れあがった背中にイボ蛙を押しつけた。
イボ蛙がゲコゲコ鳴きながら、治療効果の高いガマの油を垂れ流しはじめた。
蒼井の白い肌が、ネバネバとしたガマ蛙の脂によって汚されていく。
間抜けなんだか、エロイだかよくわからない光景だが、おれは笑う気になれなかった。
笑うかわりに一つの思いが脳裏を占めていた。
〝この男をもし堕天すれば、安井家は再び魔界を統一することができるかもしれない〟
いつまでも小学生でいるわけじゃないのだから。おれは本気で妹の恋を手伝ってやる気になった。




