"見える"少女
「このナイフを使っても、実際に肉体を傷つけることはできないんだ。切るのは、もっと内側。今詳しく説明するのはちょっとあれだけど……肉体ではなく、強いて言えば、ーーー”感情”」
「感情?」
「うん、感情がカタチになっていて……うーん……口で説明するのは難しいなぁ」
すると千鶴は、なにやら思い当たることがあるかのように唸った。
「それってもしかして……ううん、いやでも」
その曖昧な言葉に、腕組みをしていた憂里は顔を上げた。
「なに?どうしたの?」
千鶴は少し黙ってから、ポツリと言った。
「あのときもーーー黒い影が、見えた」
***
「……黒い、影?」
千鶴はてっきり、憂里に訝しげな顔をされると思っていた。"影"なんてものが見えるのは、自分にしかわからないことだ。
しかし憂里は、千鶴の予想に反して真面目な顔つきになり僅かに身を乗り出した。
「……どういうこと?」
「え……っと、あの、影が見えるの。人の周りにこう……動いていてね、それで、この前の男が襲ってきたときもそれが見えた。だから、黒羽君が“切る”って言ってるのもそれかと思ったの」
身振り手振りで説明する千鶴をじっと見て、いくつかの質問を投げかける。
「……それ、いつから見える?」
「んーと……小学校6年くらい」
「まさかとは思うんだけど……昼夜時間を問わず?」
「うん。常に」
「なんと……。いや、それで、千駄ヶ谷さんはそれが何かわかってる?」
憂里のその言葉に、千鶴はゆっくりと首を振る。知りたくても知れなかった、昔の、そして今の真実。
「……知らない。私は何も知らないし、わからない。それが凄く、」
ーーーもどかしい。
それを聞いたきり何も言わずに考え込んでいた憂里が、おもむろに口を開いた。ーーーそして言った。
「もしかしたら千駄ヶ谷さんは、思っている以上に、"こっち側"に深く関わっているかもしれない」
「"こっち側"……?」
千鶴は小首を傾げた。
いつの間にか校庭には誰もいなくなり、校舎から聞こえていた吹奏楽部の楽器の音も止まっていた。
夜に片足を踏み入れた、静かな世界。
しんとした教室の中、やけに心臓の音が煩い。
憂里は少しの間悩んでから言った。
「千駄ヶ谷さんには、詳しく説明する必要がある……かも」
***
「……まず千駄ヶ谷さん、君に見えてる"黒い影"。これは何だか知ってる?」
その言葉に千鶴は頭を振った。
色素の薄い髪が肩で揺れる。
「知らない。昔から見えててもう慣れてたから……最近はもうあまり気にも留めなくなって」
千鶴のその言葉に、そうか、と息を吐く。
そして少しの間の後、静かに言った。
「これはね、端的に言うと、……人間」
「……?」
困惑した表情の千鶴をよそに、憂里は尚も続ける。
「千駄ヶ谷さんに見えてる"黒い影"。それは、人間そのものだよ」
「人間、そのもの……?」
「そう。その影が見えるときはどんなときだった?」
「……ええと……」
昔の記憶。そして最近の記憶。
黒い影はいつも、確かに、
「……人が、人の悪口言ったり、憎んだり……そういう、ときに……」
「そう。"黒い影"の正体は、」
憂里はそう言いながら人差し指を自分の方に向けると、左胸のあたりをトントンと軽く叩いた。
「人間の、"負"の感情だ」