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Black Rumor  作者: 東
72/77

私が


憂里は隣で千鶴の背中を支えながらその男を正面から睨みつけている。


ーーー甲斐雅之。

“影”が原因暴走した人間によって怪我を負わされた、二人の警察官のうちの一人。

楓が彼の入院中に一度見舞いに行き、事情を聞いたこともある。

千鶴たちは直接会ったことはないが、写真で見て知っていた。

そして、彼が復帰後に行方不明になったということも。


以前写真で見た姿よりも、路地に佇むその男はやつれて見えた。

今は警官の制服姿ではなく、フードの付いた黒い薄手のコートに黒いズボンという出で立ちだった。



「だから君には接触できなかった」



静かに佇む甲斐は、不意にぼそりとそう言った。千鶴の目に映る“影”がざわりと揺らめいた。


「バレてしまうだろう。今はまだ、夜ではないのに」


そうして空を見上げる。

夕方になり周囲は暗くなっているものの、完全に夜になるにはもう少し時間があった。

それなのに、千鶴の目には黒く映っていた。甲斐の、周囲だけ。


「千駄ヶ谷さん。あいつ」

「うん…真っ黒だ……」


視線を甲斐から逸らすことなく、千鶴はただそう言った。


「ーー楓さん、真崎さん」


千鶴の答えに、憂里は耳元の無線に手をあててそう問いかけた。


『…ああ。甲斐さん、なんだな』

「そうみたいだ。きっと、今までのも」



憂里が無線に向かって話すのを聞きながら、千鶴はゆっくりと息を吸い、足に力を入れてなんとか立ち上がった。


「甲斐さん…あなた…あなたが、関わっていたんですか?これまでの事件に」


目の前に佇む男に向けて問いかける。

楓らが考えていた犯人像は、おそらく“影”が暴走することを察知できる人物であり、それゆえ近くの防犯カメラにも映っていた。そのため今回の作戦では、あえて“影”が暴走しそうな人物をけしかけることで、犯人をおびき出そうとした。

そしてその作戦の最中、ちょうど甲斐が現れたのだ。

他に考えようがなかった。



甲斐は小さく息をついた。

それが何を示すか、千鶴には瞬時にわかった。わかってしまった。

やがて甲斐は口を開いた。


「そうだよ。私が色んなやつらをけしかけた」




***




周囲からは何も音が聞こえない。

時折風が吹いてそこに立つ三人の髪を揺らす。

黒づくめの甲斐は口を開く。


「香坂氏には覚えてもらえていなかったか。しかし、あれはいつだったか…私は彼に悪魔の言葉を囁いたんだよ」



香坂自身は、不自然に接触してきた人間はいるかという憂里の問いに「覚えていない」と言った。

しかし実際には、彼は甲斐と接触していたのだ。それがほんの些細な出来事だったとしても、甲斐の囁いた言葉は彼の心の奥底に何かの感情を思い起こさせた。そして彼の中に燻っていた黒い“影”は、「自ら命を断つ」という形で解き放たれようとした。


「あなたは…そうやって多くの人を?」

千鶴は拳を握りながら甲斐を見つめる。


「ああ、四月の最初に路地裏で君を襲ったのも私が唆した若者だ。私は黒羽君が助けるところも見ていた。これは黒羽君、君に言った通りだ。ああ、別に毎回事件が起こる場所に行くわけではないよ。その時ただ近くにいて、気配を感じたから」


カメラに映っていた黒いフードの男。それは甲斐だった。

そして、憂里を拉致したのも。


「私が唆し、けしかけたやつらが事件を起こす時、私にはそれがわかるんだ。ーーー感じるから」


やはり、楓らが考えていたように、甲斐は自身がけしかけた相手が暴走するのを感じることができた。

だから、事件現場近くの防犯カメラに多く映っていたのだ。



「警官である(・・・・・)私を…襲った犯人も、事前に目を付けて接触していた奴だ。そして警邏中わざとおそわれるように仕向けた。理由?捜査対象から外れるためだ。入院していれば疑われることなんてないからな」


そう、甲斐はあの時、暴走した人間に襲われた“被害者”だった。

しかしそれも、彼によって巧妙に仕組まれたことだったのだ。


「警察官負傷事件」と「若者刃物事件」。

この二つの事件は、甲斐が被害者自身であり、かつ彼の療養中に起きたものだ。

いずれも甲斐自身がわざと負った怪我で入院している間で、事件は起きていた。だから二つの事件では、現場のカメラの映像に映っていなかった。

そのせいで甲斐が犯人であることは誰も考えていなかったが、彼はそれを逆手にとったのだ。

あらかじめ接触して“影”が増幅し暴走するようにけしかけておけばいい、と。



甲斐がそこまで言ったところで、千鶴は思わず問うた。


「あなたがそこまでして人々の心を掻き回す理由は何なんですか?」


自分には到底理解できない気持ち。

人の心が荒れ、暴走するのを高いところから眺める気持ち。


すると甲斐はその質問には直接答えずに話し始めた。


「…私は生まれつき“影”が見えるわけではなかった。ある日突然見えるようになったんだ。勿論、いわゆる退治人の家系ではなかったために若い頃は苦労したよ。自分だけがおかしいんじゃないかってね」


そう言って甲斐は千鶴を見た。

周りに理解者がいるお前とは違うのだ、と言うように。

千鶴はその言葉を聞いて、自分の心臓がチクリと痛むのを感じた。まるで小さく開いた傷口を、細い針で刺されたかのように。

幼い頃の記憶が蘇る。

ーーーこの人も同じ?


甲斐はそんな千鶴の想いに気付くこともなく、つらつらと話し続ける。


「そんな中で負の感情を纏った奴らを多く見てきた私は、世の中をよくするため警官になった。“見える”私なら変えられると思ったんだ。心に闇を抱えた人々を理解できるってね」


しかし、甲斐の想いは変化する。


「だが職務に就く中で、負の感情にはキリがないことに気づいた。決して消えることはないんだ」


どこか自嘲的な笑みを浮かべる甲斐。


「私は醜い心を持つ人間に失望した。だから、助ける側でなく脆い人間を助長したら影を持つ人がどうなるか…人間の行く末を見たくなったんだ。人間は悪に引き寄せられる。負の感情を纏った奴らに近付いて、闇を増幅させるのなんて容易かったよ。そうすると奴らは勝手に暴走する。“影”に身体を乗っ取られるから」


少しも悪びれずにそう言ってのける甲斐。しかしあまりにも当たり前のように話すため、千鶴は彼を見てもその異常さが普通のように思えて怖かった。


「目的なんてない。ただ、知りたかったんだ。もちろん嗾けた全ての人間が暴走したわけじゃない。ただわたしはこの目を使って選んでいった。限りなく近い破滅に近い人間を」


自分の純粋な欲求。

それを満たすために、人々を操る。



憂里は思い出していた。

千鶴と知り合って間もない頃、楓に彼女のことを話した時のことを。


楓は言っていた。



ーーー“影”が後天的に見えるようになったやつは、心を病んだーーーー。



今、目の前に立つ甲斐は、薄っすらと笑顔すら浮かべていた。



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