感情の行き先
「じ、じさっ…?な、なんのことだい?」
突然飛び出た物騒な単語に、香坂は酷く狼狽した。
千鶴は事態が掴めずに、首を傾げながら憂里に尋ねる。
「黒羽君?どういう…」
「さっきあのヤンキーとぶつかったとき、荷物が散らばったでしょ」
千鶴はその言葉に、先ほどの繁華街での出来事を思い出すように視線を宙に彷徨わせた。
確かに、若者とぶつかった香坂は手にしていた鞄を地面に派手にぶちまけていた。
「あんな厳つい風貌の奴にぶつかったのに、謝りもせず落ちた物をすぐに拾い集めてたから変だと思ったんだ」
そこで憂里は、とっさに香坂の手元を注意深く観察していた。
「必死で落ちたものをかき集めてたんだけど、その時に胸元に入れた一枚の封筒がちらっと見えたんだよね」
そして背広の胸のあたりを指差す。
「そこに慌てて仕舞ってたやつ。おれには”遺書”って見えたけど。…でしょ?」
男ーーー香坂は答えない。
口をパクパクとさせ何か言おうとするが、そこからは否定の言葉も出てこない。
ただその顔は真っ青で、身体はカタカタと小刻みに震えている。
黙って事の成り行きを見守っていた千鶴だが、そんな香坂の様子を見て、とっさに憂里のパーカーの裾を引っ張った。
「っ千駄ヶ谷さん?」
「あの、黒羽君、口を挟むようだけど…“影”がとても不安定」そう言ってちらりと香坂の方を見る。
「あ…」憂里はしまったという顔で香坂を振り返った。
「そもそも私たちのこと、ちゃんと説明してないよ」
「あぁ、そうだった…」
千鶴の最もな指摘に、根本的なことを忘れていたと自覚する憂里。
わざとらしく咳払いをして、改めて香坂に向き直る。その様子に香坂は何事かと訝しげに眉をひそめたが、そんなことは気にもせず、憂里は自己紹介をした。
「今更だけど、おれは黒羽。こっちは友人の…」
そこまで言ってから、その先を躊躇した憂里だが、そんなことはお構いなしに、千鶴が口を開いた。
「友人の、千駄ヶ谷です」
憂里はそれを横目で見ながら、やや呆れたようにため息をついた。それを見返して首を傾げる千鶴。
まあいいやと手を振ってから、憂里は香坂へと向き直った。
そしてようやく話の本題へと入る。
「香坂さん。自覚があるかわからないけど、あなたは今結構危ない」
「……?」
「精神的に不安定だ、という意味だよ。たまたま街にいた時あなたを見て、なんだか嫌な感じがした。なんというか、えーと…雰囲気が。だから注意して見ていたら、ちょうどあのチャラい若者とぶつかった。あのままだとなんだか面倒なことになりそうだし、あなたの精神面も心配だったから…連れて逃げた、というわけ」
そこまで一息に説明すると、憂里は千鶴の視線を受けて口だけ動かして答えた。
(嘘は言ってない。)
何も知らない香坂に、退治人や“影”のことを一から説明するのは難がある。そのため以前からマークしていたことなどは言わず、あくまであの場でたまたま居合わせたということを強調した。
「見ただけでわかるのか…?」
依然としておどおどとした様子のまま、香坂は訝しげに尋ねる。
「え?」
「私の様子を見ただけで?」
「まあ…いやえっと、うん…」
「そこまで表に出ていたのか…」
香坂はがっくりと肩を落とし、小さな声で呟いた。
「…死のうとしていたんでしょ?」
俯く香坂に、静かに尋ねる憂里。
その問いかけに黙って地面を見つめていた香坂だが、しばらくするとやや顔を上げ、ポツリポツリと語り出した。
「…決心が着いていたわけじゃないんだ」
***
香坂の口から語られた内容は、言ってしまえばテレビドラマなどで良く見かけるようなベタな話であった。
不況ゆえに会社をクビになり、妻は一人娘を連れて家を出た。職も無く、家族も失った男は街を彷徨う。そして行き着く先はーー。
「…決心が着いていたわけじゃないんだ」
同じ言葉を、香坂は誰にともなく呟いた。
「ありきたりな話だってことはわかってる。だけど、他に何が出来た?仕事はいつまで経っても見つからない。女房も娘もいなくなって、私は一人になった。生きていく意味なんてどこにある?」
だらりと力なく下げられた手が、何かを求めるように空気を掴んだ。
拳を弱く握ったまま、哀れな男は自分を見つめる少年少女に向かって語り続ける。
「私はもうわからなくなってしまったんだ。何を支えに生きていくのかも。長い間尽くして来た会社に裏切られ、愛した家族はもういない。もうこの世からいなくなるしかないと思って、気がついたら遺書を書いていた。でも、死に方も、死に場所もわからない。この姿で街をふらつく日々だった」
黙って話を聞く憂里は、口を真一文字に結んで何も言葉を発しない。そして、まっすぐに香坂を見つめる目はどこか厳しさがある。
一方で千鶴は、話を聞くと同時に香坂の背後で揺れる“影”に意識を向けていた。
感情の起伏に伴って増幅するそれを、複雑な表情で見つめる。
「…若い君たちにはわからないことだ」
香坂は嘆いた。
黙ったままの二人に向けて、今まで溜まっていた感情を吐露する。
「情けない男だと思っているだろう?たかが仕事を、家族を失ったくらいで死のうと考えるなんて。若い君たちはそう思うかもしれない。でも、でも私にとってはそうじゃないんだ。大切だったんだ。どちらも、私にとっては!」
叫んだ拍子に、“影”が広がる。
それは頭や肩を覆い、足元から這い上がるように蠢いている。
千鶴は思わず目を瞑っていた。
“影”は見えなくなったが、視界は暗闇で覆い尽くされた。
きっと、彼(香坂)もそうなんだろう。
真っ暗な暗闇で、一人もがいている。先も見えずに、ただ孤独に彷徨う男。
ーーー寂しかったんだ。悲しかったんだ。
“影”が動くと同時に、そんな想いが伝わってくるようだった。
あらゆるものから見放された、哀れな男。その心は酷く不安定で、簡単に壊れてしまいそうな脆いものに思えた。
香坂の話が途切れた所で、それまで黙っていた憂里が口を開きかけた。しかしそれをパーカーの裾を引っ張って制し、逆に千鶴が一歩前に出る。憂里の背後から、香坂の元へ。
「香坂さん」
正面からそう呼びかけた。
「…私はまだ学生で、結婚もしていないし仕事もしていない。だからあなたのそれらに対する気持ちはわかりません。だけど、あなたにとってそれがいかに大切なものだったかということは理解できる」
千鶴の突然の話に、香坂は俯いていた顔を上げた。
やや後ろで話を聞いている憂里は、口を挟むことはせず、ただ黙っている。
千鶴は息を吸い込むと、顔を上げた香坂の目をしっかりと見て、
「…だけど、あなたの考えは少し違う気がする」
はっきりとそう言った。
ありがとうございました。




