香坂
怒りに満ちた若者の声が、後ろから聞こえた。
人混みをすり抜け、憂里は走る。
後ろにくたびれたスーツを着た男を連れ、器用に人を避けながら、街中を疾走していた。
その異様な組み合わせに街ゆく人々はみな興味津々で視線を寄越すが、その後から顔を真っ赤にした若者が突進して来たために、皆慌てて身体を引いた。
当人たちは振り返らずに走る。
「き、君は…っ、一体っ誰なん、だい?」
必死で足を動かすサラリーマンの男は、息を切らしながらも憂里に尋ねた。
しかしちらりと一瞥しただけでそれには答えず、憂里は不意に耳元に手をあてた。
「真崎さん聞こえる?」
『はい憂里君』
待っていたかのように、落ち着いた声が鼓膜に響く。
憂里は息を吸い込むと、
「さっき俺たちがいた場所のカメラを確認して欲しいんだ。それと、今この場所も。“奴”が現れるかもしれない」
そう告げた。
サラリーマンの男が変な顔をしているのがわかったが、気にかけている暇はない。
『大丈夫、もうやってます。ただ如何せんこの辺りは定点カメラの量が多いので、全て解析し終わるにはもうしばらくかかりますが』
「ありがとう。ーーー楓さん」
『なんだ』
憂里が楓を呼ぶと、すぐに応答があった。
おそらく真崎のすぐ隣にいて、その動向を見守っているのだろう。
「人払いは?」
『必要ない。お前が指示した方向にはひと気はほとんど無いからな』
「千駄ヶ谷さんは?無事に向かってる?」
十数分前、憂里は千鶴に集合場所を告げて、先に行くよう促した。千鶴を一人にするのは心許なかったが、“影”を纏ったこの不安定な男と、激情した若い男を相手にするには危険が大き過ぎると判断したのだ。
すると楓に代わって真崎が答えた。
『無線につけたGPS上は問題なし。ですが、その近辺にカメラが無いので映像までは確認できません。憂里君、気を付けて』
「…わかった」
それだけ言うと、憂里は不意にくるりと振り向いた。正面から目があったサラリーマンの男が、ビクリと肩を震わせる。
「もう少しだけ走る。多分もうあいつは燃料切れ」
憂里はそう言ってニヤリと笑った。
その表情に、サラリーマンの男はわけもわからず頷く。
憂里の言った通り、後ろから追ってきた若者の足取りはすでに重く、その距離はどんどんと離れていた。
かすかに荒い呼吸だけが風にのって伝わってくる。
憂里はそれを見て、「ざまあみろ」と鼻で笑った。
徐々に人混みから抜けて行く。
この近辺は繁華街こそ人々でごった返すが、そこを過ぎれば急に閑散とする。住宅などはほとんどなく、潰れた工場などが建つ裏寂れた通りになる。
行き交う人もぐっと減り、ようやく憂里はサラリーマンの男から手を離した。ちらりと後ろを見て、そこに誰もいないことを確認する。やはり、追ってきた若者は途中で諦めたようだった。
それでもしばらく黙って歩を進める。1メートルほど間隔を開けてサラリーマンの男が付いてくる気配がする。憂里はそれを確認すると、やれやれと内心ため息をついた。
この男がなにかやらかすことを懸念して密かに追っていたのにも関わらず、思わぬ邪魔が入った。
完全に通りを抜けると、少し先にトンネルが見えた。その高架下に、千鶴が待っているはずだ。
薄暗いために目を凝らして見ると、その入り口の脇に千鶴が一人静かに佇んでいた。錆びた薄緑色のフェンスに寄りかかり、視線を地面に向けている。
憂里は安堵して、耳元のスイッチを押して報告をする。
「千駄ヶ谷さんと合流した」
『はい。GPSでも確認しました。ひとまず良かった』
真崎の安心した声が聞こえる。
憂里は近付いて行って千鶴に向かって手を上げると、それに気付いて同じように手を上げた。
「ごめん、待たせた。大丈夫だった?」
「うん、問題なし。そっちも平気?」
「あぁ、はは。うん、問題ないよ。若さには勝てないってことが分かったはず」
「うん…うん?とにかくお互い無事で良かった。……と、」
千鶴はそこまで言うと、憂里の背後へと視線を巡らせた。
おどおどと後ろを付いて来ているサラリーマンの男は、千鶴の存在を知るとビクリと肩を震わせた。
「あ…ええと…」
千鶴が口を開きかけ、それを憂里が遮った。
「ねえあんた、今更だけど名前は?」
「へ?わ…私か?こ、香坂だ」
「香坂さん、か。あのさ」
憂里は千鶴の方へ向けていた体を、今度は香坂へと方向転換した。右足を軸にぐるりと振り返り、正面から対峙する。
自身よりも少し背の高い香坂をやや見上げるようにして、おもむろに口を開いた。
「あのさ、香坂さん。悪いことは言わないから、自殺なんて馬鹿なこと、やめておいた方がいーよ」
ありがとうございました。




