黒い人
昔からグループ行動が苦手だった。
今思うと、人そのものが苦手だったのかもしれない。すぐに他人と比較して、どちらが上か、下かなんて。人の価値なんか、他人に測れるはずもないくせに。
千鶴は残り僅かな学校生活に、もう何も期待しなかった。中学では静かに目立たなく過ごそうと心に決めて臨んだ。
出来るだけ静かに、静かに。
なのに。
やはり馬鹿な奴らはどこにでもいるものだ。
くだらない、幼稚な争い。
小学校よりも、少しのずる賢さと、意地の悪さを肥大させて。
千鶴はもう慣れていた。
陰口、嫉妬、憎悪に溢れた日常と、
黒い影が見え続ける毎日に。
***
高校に入学して二週間が経った。
その日は朝から曇りだった。
天気予報では夜遅くから雨が降ると言われ、見上げた空は既にどんよりと薄暗い。
退屈な学校が終わり、部活動に向かう生徒に紛れて帰宅準備をする。
教室を出て、恐らく体育館に向かうのであろうジャージを着た生徒達の流れに逆らいながら、高校生にもなって何故あんなにも頑張れるのか、疲れるだけなのに、と心の中でぼやく。
思えば、何かに夢中になったのはいつだっただろうか。千鶴は考える。
自分の"体質"に気付いた頃から、一つの物事に取り組むということは避けていたような気がする。
どうせ"影"の存在に邪魔される。
そう思って何かに夢中になることを避けてきた。
今までも、そして多分、これからも。
千鶴は学校を出てそのまま、駅前の本屋に寄った。
特に理由はない。欲しい本があった訳でもないが、なんとなく。
この本屋は自分と同じ学生や会社帰りのサラリーマンやOLで毎日賑わっている。
駅前にはショッピングモールや様々な建物、そしてバスターミナルやタクシー乗り場などが数多く存在する。
多くの人々が出入りするこの街を、千鶴はどうも好きになれなかった。
治安は決して良くないし、何より煩い。
そしてやはり、そういう街には"影"が集まる。無数に見える、黒い"影"。
本屋を出たのは、午後7時を少し回った頃だった。目的も無く立ち寄ったにも関わらず、思いのほか長居してしまった。
外は暗く、僅かに空気の湿った匂いがする。
ーーー雨が降りそう。
千鶴自身、天気予報はあまり信じないタチなため、生憎傘は持ってきていない。急ぐのは面倒だが、濡れるのはもっと面倒なため、千鶴は早歩きで家に向かった。
***
誰かが後ろをついてくる気配に気づいたのは、大通りから外れた細い路地を歩いているときだった。
普段喧騒に包まれている通りも、一本中の道に入るとたちまち人通りも少なくなる。
おまけに街灯は少なく、住宅も無い。
夜の一人歩きは避けたいような場所だった。
それにも関わらず千鶴がこの道を選んだ理由は至って簡単。近道で、尚且つ静かだから。
足音は千鶴と一定の距離をおいて、後ろをついてくる。
暗闇のせいで顔はおろか人がいるのかさえもわからないが、周囲が静か故に足音はコツコツと高く響いている。
ちらりと後ろを振り返り、静かに溜息をひとつ。
先程よりも歩くペースを速めて進む。
しかし、足音は剥がれない。
距離を保つどころか、少しずつ速く、近くなっている。
これ以上は危ない。そんな気がした。
面倒だが、大通りの方に戻るか。
近道ではなくなるが、危険よりはよほどましだ。
千鶴はこの路地裏の設計を内心で罵倒しつつ、大通りに繋がる角を曲がろうとした。
ーーーが。
瞬間、ガシリと腕を掴まれた。
「……!?」
勢いよく振り返ると、深緑色のキャップをかぶった見知らぬ男が千鶴の腕を掴んでいた。
その男の周りには、やはり千鶴が予想した通り、黒く蠢く”影”があった。
「危ないよ?こんなところを一人で歩くなんて……」
そう言って男はニヤリと笑った。
千鶴は男を睨みつける。
「そう思うなら離して下さい」
「ははっ……」
しかし男は千鶴に詰め寄るとその細い肩を両手で掴んだ。
「痛っ……」
そして肩を思い切り押された。
大の男に突き飛ばされて、千鶴は後ろによろけ、尻餅をついた。
チリチリと痛む手に視線をやると、手の平を擦りむいていた。うっすらと滲む血に眉を顰める。
顔のすぐ近くに男の荒い息がかかった。
ーーーあ。傷なんかに気を取られてる場合じゃなかった。
男は千鶴に全体重を預け、のし掛かってきた。マウントポジションを取られた千鶴。
男の手が千鶴の制服にのびた、そのとき。
「はぁ、あははーーぐはぁっ‼」
「何か」が上から「降ってきた」。
と思うと、男が千鶴の上から吹っ飛んだ。
千鶴は呆気に取られて、2メートルほど宙を舞ってゴミ箱に盛大にぶつかった男の姿を何も言えずに見ていた。
3秒ほどで正気に戻って、そして男が吹っ飛んだ「原因」を見遣った。
そこには、黒い人影があった。
それは、此の先、千鶴の人生を少なくとも90度は変わらせる原因となった張本人である、
黒い人物との出会いだった。