母親だもの
「こちらこそ初めまして、千鶴の母の百合子です」
母親と名乗った女性ーー、百合子は、籠に透明のビニール袋が入った自転車を脇に停めると、微笑みながら丁寧に頭を下げた。つられて憂里も頭を下げる。
「なぁに千鶴、こんな可愛い男の子と」
「いやあの…」
「…黒羽君は、友達。…友達」
可愛い、のところに反応した憂里は苦い表情で訂正しようとするが、その前に千鶴がはっきりと否定した。
その言葉を聞くと、百合子は再び微笑み、
「あらそう。送ってくれたの?わざわざごめんなさいね」
そう言った。
憂里は百合子の言葉に何と答えていいかわからず、結局曖昧に「いいえ…」と言って地面を見つめる。
柔らかい笑顔の人だ、と憂里は思う。千駄ヶ谷さんにあまり似てないな、とも。
「…あら、あんたどうしたのその膝」
ようやく百合子が千鶴の膝の怪我に気付いた。覗き込むようにして屈んで、眉を顰める。
憂里はとっさにその怪我をどう説明するか悩んで、焦って、あの、だのええと、だの意味の無い言葉を発する。
それに反して千鶴は至って普段通りに、
「転んだ」
とだけ言った。
憂里は思わず声に出しそうになった。
いくらなんでも、理由くらいは問われるだろう。そんな一言で片付けられるのか、と。
だが違った。
「もーあんた変な所でドジなんだから気を付けなさいよまったく」
「え…」
憂里の心配をよそに、百合子も至って冷静で、呆れたようではあるが驚いた様子などはその表情から微塵も感じられなかった。
ーー前言撤回。なんというかこの親子、似てる。
憂里は拍子抜けして、もう何も言わずに二人の様子をただぼーっと眺めていた。
***
結局憂里は、百合子の自転車の籠に入ったビニール袋を手に坂道を登っていた。
「ごめんなさいねぇ憂里君、わざわざ持ってもらっちゃって」
「あ、いえ…これくらい」
坂道を自転車を押しながら歩く百合子が、隣の憂里に礼を言う。
千鶴はその少し前を歩いていた。
「坂道ってきつくって。うーん、車買おうかなあ」
独り言のように呟く百合子の静かな横顔を、憂里は何も言わずに見つめる。
「でもね、坂の上って物件が安いのよ。ほらうち女二人だからね、お金無いのよ~」
「…」
そう言って朗らかに笑う百合子。
ーー女二人。
前を歩く千鶴の細い背中を眺める。
いつもあまり表情を変えない少女は、何を考えているのだろう。
「さて!憂里君、ほんとありがとうね」
気づくと坂の上まで来ていた。
明るい色の外壁の、こじんまりとした家。
「千鶴。あんた先入って救急箱。傷洗ってよ!」
「はーい。…黒羽君、本当にありがとう」
「いいえ。ごめんね、千駄ヶ谷さん」
「?」
「違うの。私も…」
「膝、お大事に」
「…うん。それじゃ」
ぺこりと頭を下げて、鍵を開けて家に入る千鶴。それを右手を振って見送る。
そんな二人を見届けてから、百合子は自転車をガレージに停める。
そしてビニール袋を憂里から受け取ると、にっこりと微笑んだ。
「ありがとう。本当に」
「いやあの、荷物持ちくらい…」
「いいえ」
百合子は静かに、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。千鶴のこと。あなたたちがどうやって友達になったかは分からないけれど、あの子、変わった気がする」
「え…」
「見てればわかるわ、母親だもの。ふふふ」
ーーこの人はよく笑う。千駄ヶ谷さんとは真逆だ。それでも親子なのだ。
憂里もつられて微笑んだ。
「じゃあ…俺は失礼します」
「ええ。ありがとう」
それじゃあね、と言って先ほどの千鶴のように頭を下げた。
憂里も一礼すると、元来た坂道を歩き出した。
後ろで扉の開く音と、やがてそれが閉まる音。
憂里は三歩進んでからゆっくりと振り向く。
その家のカーテンから漏れた光に何故かほっとして、それから再び歩き出した。
下り道であることとは別の意味でも足が軽くなっていることに気がつき、静かに微笑んだ。




