女の子
「痛たた…ごめんなさい、大丈夫?」
「すみません…急いでいて」
千鶴はそう詫びて、改めて少女の顔を見る。
歳はおそらく千鶴と同じくらいだろう。栗色の長い髪に大きな瞳、細い手足。同性の千鶴から見ても整った顔立ちだと思えるような、そんな少女だった。
「こちらこそ…怪我はない?」
少女も千鶴を正面から心配そうに覗き込む。
活発そうな、強い力のある瞳が印象的だった。
「私は全然、大丈夫……」
「そう?よかった……って、ん?あれ?……無いっ!?」
「えっ」
「無い!私の!私の……村正!!」
「村正……?」
少女は突然ガバリと立ち上がると、頭を抱えんばかりの勢いで叫んだ。
それに気圧されながら、千鶴がそれはどういうものかと尋ねると、
「黒い袋に入ってるやつなんだ。細くて長い……あああどうしようまたドヤされる」
そう言って本当に頭を抱える。
よほど大事な物らしい。
千鶴はとりあえず辺りを見回す。勢いよくぶつかったためにどこかに飛んで行ったのではないかと考え、ぐるりと一周。
「あ」
身体を右に約90度捻ったところ。今千鶴が座り込んでいる場所から右斜め後ろの数メートル離れた道の端に、その黒くて細長い袋はあった。
「あの、あれのこと……?」
「…あれ!よかった!ありがとうありがとう!」
千鶴の指差す方向を見て少女は歓声をあげた。両手を胸の前で組み、次に千鶴の両手を握る。そして揺さぶる。
「ありがとう!あなたは命の恩人だ!」
「そんな大袈裟な……」
「いや本当に助かったよ!……あ、やば。私行かないと。本当に本当にありがとう!」
少女は突然我に返ったように呟くと、千鶴の手を離して立ち上がり、道の端に転がる黒い袋を拾い上げた。それからくるりと振り返って右手を左右にひらひらと振りその場から消えた。スカートと、長い髪を翻して。
嵐のように現れ、そして去って行った少女が誰なのか、千鶴は結局最後まで気づかなかった。
そして一人その場に取り残された千鶴は、未だ座り込んだまま呟いた。
「あ……学校」
***
「あれ。今日は遅めだね、千駄ヶ谷さん」
「おはよう……ちょっと色々とあって……」
朝の教室には、珍しくホームルームギリギリに到着した息を切らした千鶴と、珍しく千鶴よりも先に、というよりも珍しく遅刻せずに席に座る憂里がいた。
教室内ではチャイムギリギリまで担任が来ないのをいいことに、生徒達は皆それぞれ近くの友人と談笑している。数十分後には憂鬱な授業が始まることを忘れようとするかのように、朝の教室は様々な話し声や喧騒に包まれていた。
後ろの扉から入った千鶴が一番後ろの席の憂里とすれ違い様に話す間、前の席に座る少年・浅井小雪は憂里の机に顎を乗せて、上目遣いで二人を見遣る。
少し不満そうな、拗ねたような表情に憂里は気づかない。
「お前さあ〜……ほんと何なの」
「ん?何が?」
千鶴が自分の席に座った後、小雪は唇を尖らせて憂里に詰め寄る。
「なーんでそんなさ……その……千駄ヶ谷さんと……なあ!」
途切れ途切れに、上を向いたり下を向いたり顔を赤くしながらブツブツと呟く。小雪の言わん事を察した憂里は、面白そうに笑いながらさらりと言い放つ。
「そんなこと言うなら挨拶くらいすればいいじゃない。おはよう、ってさ」
「おまっ、それが出来たら苦労しねぇっつーか……」
「かわいいねぇ……」
「馬鹿にすんなよ!!」
騒がしい教室内でも一際大きな声で小雪が叫んだ瞬間、席つけー、と前の扉から担任が顔を覗かせた。
ガタガタと、席に戻り椅子を引く音が響く。
朝の8時30分、教室ではチャイムと共に平和な時間が流れている。
***
授業は平穏無事に進み、あっという間に放課後になった。
帰りのホームルームが終わり、小雪と千鶴に別れを告げて(その際やはり小雪は羨ましげにこちらを見ていた)、憂里は一人歩いてある場所へ向かう。
街中にあるそこはもはやお馴染みの、灰色のビル。
入口に立った憂里はその鉄筋コンクリートの塊を見上げ、今日の空と同じ色だ、と内心で呟いた。
しばらく前に直ったらしいエレベーターで5階まで上り、見慣れた扉を二度叩いてそのまま開ける。薄暗い廊下の端まで、からん、という乾いた音が反響する。
扉を開けると、ふわりと甘ったるい匂いが鼻先を掠めた。
入ってすぐにある正面のソファに座った人物がこちらを振り返ったと同時に憂里は言った。
「……暇なの?」
振り返ったのは、一人の男性。癖の無いストレートの黒髪に、パッチリとした丸い瞳。
下手したら学生かと見間違える童顔が、入口に立つ憂里を見て一瞬おどろいてからニッコリと笑った。
「やあ憂里君!元気?久しぶり!この間はこき使ってくれてどうもありがとう!」
「いえいえどういたしまして、たまには仕事してもらわないと。どうせ黒崎さん使ったんでしょうけど」
笑顔の嫌味に対して同様に返す憂里に童顔男は途端に破顔し、気の抜ける笑いを漏らす。
「すごいすごい!よく分かったねぇさすが!警察に入るべきだよ」
「給料に見合わずこき使われるのは御免なので遠慮しまーす」
「ええー、つれないなあ」
憂里の辛辣な物言いに唇を尖らせたのは、来客用のソファに靴を脱ぎ、堂々と胡座をかいて座る青年だった。
***
中央のソファに座り、こちらを見てニコニコと笑う童顔の男。
その顔は学生とも見間違うほど、若い。
彼は桂木。
この事務所の近くにある警察署に勤務しており、楓や真崎の古くからの知り合いである。
「よ。よく来たな」
「楓さん」
左を向くと、グレーのTシャツに細身のパンツといった格好の楓が、マグカップ片手に立っていた。
それを見て憂里はあからさまに眉を顰める。
「いっつもコーヒー飲んでるよね」
「好きなの」
「なにこの匂い……甘すぎ」
「バニラマカダミアフレーバーだからな」
そう言ってマグカップを持ち上げてみせる楓にしかめ面で返しつつ、憂里は通学鞄をドサリとソファに置いた。
「で、何で桂木さんがいるんですか?仕事しなよ」
「わかってないなあ憂里君。真崎君に会いに来ることが僕の仕事」
「気持ち悪い」
「辛辣!」
桂木は真崎が大好きなのだ。
本気でドン引きした憂里だが、ふと辺りを見回す。
「……でもその肝心の真崎さん、居なくない?」
事務所内には楓と桂木の他に誰もいない。いつもなら憂里の声がすると奥の部屋から出て来てお茶を出してくれる真崎だが、今日はその気配も無い。
するといきなり桂木がうなだれながらガバーっとソファに倒れこんだ。必然的に下に敷かれることになった憂里の鞄が、ぺしょ、と気の抜けた音を出してファスナーの隙間から空気を放出させながら潰れる。
「そうなんだよ!信じらんない!僕が行くときに限って居ないなんて」
「桂木さんが来るってわかったから先に避難したんじゃないの」
クツクツと笑いながらざまあみろ、といった表情で、というよりも実際口に出しながらソファに寝そべる桂木を見下ろす。
「……で、ほんとにどうして来たの?桂木さん」
「さっき言ったじゃない」
「桂木さんの言うことは胡散臭いから」
「どうしてそう思うのさ?」
「勘」
少しも悪びれずに言ってのけた憂里の言葉に破顔すると、桂木は人差し指をビシリと憂里に向けた。
「なかなかだね憂里君。なかなかに図々しい。あ、良い意味でね」
「どうも。おかげさまで」
にっこりと笑ってみせる憂里。
「何かあって来たんでしょう?」
「何かとは?」
「楓さんに聞きたいことがあった、とか」
「ほう」
「まあ大体は"事件"のことでしょ?」
「ふむ」
「……聞いてる?」
「ほあ」
「桂木さん……」
「聞いてる聞いてる。そうだねぇー僕が来たのは」
「あのー……すいません」
カランカラン。
桂木の声にかぶせて、扉の開く音とやや細く小さい声。
「え」
「あ」
「ん?」
思い思いの反応。上から、憂里、楓、桂木の順番だ。
その場にいる全員が一度に扉へと視線を向けて、そして向けられた相手は六つの目に肩をびくつかせて小さく怯んだ。
「あれ、千駄ヶ谷さん」
「え?誰??」
おずおずと扉を開けて入ってきたのは、制服に通学鞄を持った千鶴だった。




