思考に耽る
その後二人はひとまず楓と連絡を取り、現状を説明した。驚いた様子ではあったものの、とりあえず帰って来いと言われた憂里は通話を終了した。
携帯をポケットの中に落とし、地面に目をやると、男は相変わらずコンクリートに伏してピクリとも動かない。気を失っているだけだが、手元にある折れたナイフも気になる。恐らく服の中などに忍ばせていたのであろうが、こんなものを街中で振り回されたら危険極まりない。幸い、誰も怪我人が出ずに済んだが憂里の表情は浮かない。
「黒羽君…この人、どうする…?」
「…あ」
千鶴に声をかけられてようやく我に帰った憂里は、再び地面に目をやる。気を失っている成人男性など、二人に運べるはずもない。内心舌打ちをして、再び携帯を取り出した。
「こういうときの、あの人だよね…」
「?」
そしてそのまま、ある番号に電話をかける。
『はいはーい』
「あ、もしもし黒羽ですけど」
『憂里君っ!?うわーなにどしたのどしたの超めずらしいー』
「ただの一般人からの通報です。××町の3丁目辺りの路地裏に男の人が倒れてまーす。なんか気失っているみたいなんでお願いしまーす。それじゃ」
それだけ言うと憂里は勝手に通話を切った。
「誰?ていうかなんて横暴な…」
「楓さんの知り合い。いいの、あの人にはこれくらい仕事してもらわないと」
***
楓の事務所に戻った二人は、既に病院から戻って来ていた楓や待機していた真崎と合流し、今は事務所にあるソファに座って先程の出来事を話していた。
「確かに誰かいたんだな?」
「だって追ってた男刺したの俺じゃないし。でもそいつの”影”は消えてた。っていうかその現場にいた人達のこと、実際見てるし話し声とか聞いてるから。顔は暗くて見えなかったけど」
あの時、確かにそこには誰かがいた。
いや、それは"降ってきた"。
そして、男に巣食う影を退治した。それも一瞬で。
暗闇で顔は確認できなかったが、声は二人だった。恐らくは、男と女。
「男と女?」
「うん。女っていうより、声とか背格好からして女の子?俺達と同じくらいじゃないかな」
「……そうか」
「楓さん?」
「ん、いや。」
何かを考え込んでいるような様子の楓だが、すぐにいつもの表情に戻った。
「とりあえず今日はもう帰れな。それとーー…千鶴」
「はい」
今まで黙って話を聞いていた千鶴は、楓の声に背筋を伸ばした。
「明日からもよろしく頼む。今日はこういう結果になったが、これからお前の力が必要になる時が来るかもしれん」
「…はい」
千鶴は静かに頷いた。
「"お前の力が必要"だって。俺にはそんな言葉ないのにねー。もっと労ってくれたっていいのにさ、ねぇ真崎さん」
「え、あ、えっとそうですね、憂里君もお疲れ様です。本当に」
「なんだよ憂里、スネてんのか?」
「馬鹿じゃないの?誰が」
三人のそんなやり取りを聞いて、千鶴は小さく笑った。
「さて、今日はもう帰れ。疲れただろうからゆっくり休めよ」
「はーい」
「失礼します」
入口を先に出た千鶴がぺこりとお辞儀をして、続く憂里はじゃあねと言って静かに扉を閉めた。楓は軽く右手を上げる。
カラン、と金属の触れ合う音がして、それから静寂が訪れた。
「……」
パタリと閉まった扉の方に目をやってから、楓はソファに勢いよくもたれかかり、丁度真崎に渡されたマグカップを口に運んだ。一口飲んで、カップを離し、しばらく宙を見てから再び口に運ぶ。中が空になったのを確認して、楓はボソリと呟くように言った。
「…真崎」
「はい」
「…絶対、あいつだよなあ」
「あはは、そうですね…」
そしてそのまま、目を閉じた。
***
あの日から数日間、憂里と千鶴による張り込みは継続して行われたが、あの若者のような”影”を持った人物は現れなかった。僅かな影の淀みはあっても、退治するほどでも無く、平穏な毎日が過ぎて行く。
以前に警察官が負傷した、"影暴走による事件"はあれっきり起こっていない。
「んん~~」
「どうしたんですか楓さん、さっきから唸りっぱなしですよ」
五月も終わりに差し掛かったある日。
鷹条楓の事務所では、来客用のソファにひっくり返った楓がファイル片手に唸り声をあげていた。
助手である乃木真崎がお茶の入った湯呑を手に、ソファの上から楓を覗き込む。渋い色の湯呑からは湯気が立ち、楓はその白い煙越しに真崎を見遣った。
「いやね、最近平和だなーと」
「?いいことじゃないですか。影が暴走する事件は起こっていないですし」
「千鶴が襲われる件があって、警察官負傷事件があって、これからそういった事件は更に増えるかもしれないと思ってたんだ。だが起こらない」
「起こらないに越したことはないじゃないですか」
真崎はそう言って自分の湯呑のお茶を一口飲む。それをお盆に置いてから、楓が顔の上に臥せて広げた黒いファイルを片手を伸ばして取り上げ、パラパラとめくる。
「…この前憂里が見たっていう人影の件も気になる」
「"男と女"、でしたっけー…」
「ああ…。しかも憂里のやつが、赤い炎と独特の匂いがした、とさ」
「それってーー…」
「煙草、だな」
「煙草…といえば…」
そう言って楓はソファから一度起き上がると今度はそのままうつ伏せに倒れこんだ。
「やっぱりあいつだよなー…」
***
時は少し遡り、朝。
千駄ヶ谷千鶴は走っていた。
通学路である住宅街を走り抜け、いくらか人通りの多い大通りに出る。色素の薄い茶髪は揺れ、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
手元の腕時計は8時20分を少し過ぎたところだ。
いつもなら余裕で学校に着いている時間だが、今日は何故だか寝坊した。目覚まし時計もきっかりセットしたというのに、鳴っているのにも関わらず爆睡していたのは、やはり最近の疲れが溜まっていまのだろう。
楓に言われて始めた張り込み調査は、初日から大波乱だった。結局あの若者は後からきた刑事さんに任せてしまったし、それから一週間ほど張り込みを続けてはみたものの、今度は逆に何も異変は起こらない。千鶴の目で何人か影が確認できたが、いずれも放っておいても害は無いという結論になり、結局その後もあの若者のような影を纏う人物は現れなかった。
これ以上やっても成果はないだろうと張り込みは一時中止にはなったが、千鶴の心にはモヤモヤとした想いが燻っていた。
ーー後のこと、鷹条さんに任せてしまったけれどどうなったのだろう。
根本的な問題だが、千鶴は影のことを知らなさ過ぎる。わからない内に物事は進み、わからない内に終わる。これでは何のために理解してくれる人々と出会えたのか。自分のこのどうしようもない気持ちをわかってくれる人がせっかく出会えたというのに、まだ謎は多いままだ。
どうしたら。これから、私はどうすべきか。
そんなことを考えつつ、朝の人混みを走っていた。そして、人通りの多い道から一歩中に入った、先程よりは人が少ないであろう道を曲がった、その時。
「おうわぁっっ!!」
「わ…っ!」
何かにぶつかった。
「痛たた…ごめんなさい、大丈夫?」
それは、大きな瞳が特徴の、長い髪が綺麗な少女であった。




