新たなる気配
場所は変わり、駅前。
「楓さんも人使いが荒い……」
パーカーのポケットに両手を突っ込みながら、小声でブツブツと文句を言いつつ歩くのは、黒髪の少年、黒羽憂里。
そして憂里の隣を両手を後ろ手に組み薄く苦笑しながら歩くのは、色素の薄い髪を肩で切り揃えた少女、千駄ヶ谷千鶴だ。
二人は病院での聴き込みを終えた楓から来た指示によって、人通りが多く”影”の発生しやすそうな繁華街をパトロールしていた。
とは言っても二人で歩きながら周囲に視線を巡らせているだけのもので、側から見たらただの学校帰りの高校生にしか見えない。
「楓さんは無茶振りが多いんだよ。なんでもかんでも人に頼んでくるし」
「頼られてるね」
「ただの便利屋扱いだと思う」
そんな話をしながらも周囲に目を光らせ、怪しい人物はいないか確認しながら歩いているうちに、ようやく遠くの空が薄紫色に変わり始める。これから夜が訪れようとしていた。しかし依然として街には人が多く、まるで夜に吸い寄せられているかのように街の混み具合は増して行く。
「ああもう、この人混み……さすが駅前」憂里は独りごちる。
「でもまあ今のところは、大丈夫みたい……」千鶴はさりげなく周囲に目を配りつつ歩く。
憂里ら「退治人」は、夜にならないと影が見えない。そのため楓は時間を問わず“影”を目に映すことのできる千鶴を連れて行かせたのだった。
今現在、千鶴の目から見える中で僅かながらに影が滲んでいる人もいるが、それはほんのささいなものであり、それほど注意すべきほどではない。
問題は、それが異常なほどに膨れ上がっている人物を見つけたときである。
「もう少し歩こう。先は長い」
憂里のその言葉に千鶴はこくりと頷いた。
***
「……黒羽君、あれ」
「ん、……ああ」
あれからさらに30分後。
薄紫色だった空は濃紺に包まれ、見上げる上には暗く深い闇が広がっていた。
辺りは完全に夜になった。
ということは、“影”は憂里にも見えるようになるということを意味する。
「あの人ーーー……」
「うん、そうだね」
千鶴と憂里の見つめる視線の先には、ある人物がいた。
人混みの中をフラフラと進む一人の男。ジーンズにスウェットのパーカーを着た、全体的にだらしないイメージを感じさせる若者だ。
千鶴たちの数メートル先を行くその身体は、足元は覚束ず、ひっきりなしに街行く人にぶつかっている。
すれ違う人々は彼を怪訝そうな顔で見たり時には罵声を浴びせたりするが、ほとんどの人が酔っ払いだと思っているために、誰も意に介さない。
しかしただ一つ、千鶴と憂里にだけ分かっているのは、彼は酔っ払いではないということだ。
それは彼の蒼白すぎる顔色と、彼の周りに蠢く黒い影が物語っていた。
もちろん、彼にまとわり付く黒い影など一般人には見えているはずもない。
しかし、今彼の後ろにいるのはそれが見える二人なのだ。
憂里はパーカーのポケットに手を入れて、携帯を引っ張り出した。通話がオンになったままの携帯を耳にあてる。
『憂里?どうだ?』
「楓さん。一人、確認した。若い男」
憂里は右耳から聞こえた楓の声にそれだけ伝えると、ちらりと前の目標に目を向ける。
『……よし。追跡開始だ』
「了解」
『いいか?くれぐれも無理すんなよ。千鶴もいることだしな。あと通話は切らずに繋いどけ」
「わかってる」
憂里はそれから数歩後ろにいる千鶴を振り返った。
「千駄ヶ谷さん。……行こう」
「……うん」
ターゲット、追跡開始。
***
前を歩く男を追う。
相変わらずフラフラと歩くこの若者からは、絶えずどす黒い影が湧き出している。しかしすれ違う人々はそれには何も気付かずに、ただふらつく男を訝しげに見遣っていた。
憂里と千鶴の目だけに映るその影は、男を取り囲み、時折生き物のように形を変える。それは不気味に蠢き増殖している。
(さすがに街中じゃ使えないか……)
そんな男を目に憂里は内心そう呟き、服の上から右ポケットの中にあるものに触れた。ゴツゴツとした感触が手にあたる。
それは折り畳み式のナイフ。
どこにでもありそうなそれは、一般人には無害であり、刺しても何も切れない。“影”のみを切ることができるのだ。そのため人体を介しても切れるのは身体に取り憑いた影だけであり、憑かれている側の人間は痛くも痒くもないというわけだ。ただちょっと前後の記憶を無くすだけである。
そしてそのナイフは、切ったという証拠はどこにも残らないのだ。
しかしそんな優れもののナイフでも、傍から見たらただの凶器にしか見えない。
加害者であり、影を消滅させるが為に刃を振るう"退治人"。
"殺さない殺人鬼"のそんな裏の顔は、勿論皆知らない。
***
男は脇目も振らず進んでいる。
その足取りは覚束ないが、何か強い意志でもあるかのように、ただ進む。
千鶴と憂里は、気付かれず離れ過ぎず、一定の距離を取りながら目標である男を追っていた。時折憂里が離れた場所にいる楓に報告をする。
街中をしばらく歩いただろうか。相変わらず男は前を向いたまま歩いている。
しかし、その時ちょうど電車が到着したのだろう。駅の方からどっと流れてきた人々で、少し前にいた男を覆い隠してしまった。
「あ、くそ……」
「わっ、すみません、通して……」
「千駄ヶ谷さん、大丈夫!?」
反対側から、電車を降り岐路に向かう人々が次々とやってきて、二人を翻弄する。
男の背中は人混みに見え隠れし、ついにはふっと途切れてしまった。やや遠くにゆらゆらと“影”が浮かんでは消えている。
憂里と千鶴は男を追って、必死に人々を掻き分ける。
だから気が付かなかった。
二人に向けられる数多の視線の中に、比べ物にならないほどの鋭い気配が混ざっていたことに。
***
市街地を抜け、ようやく人通りの少ない道に差し掛かる。男の数メートル後ろに憂里、それからほんの少し遅れて千鶴がいた。その間にもやはりまだ人がおり、完全に捉えきれてはいない状態だった。
廃屋や古いビルなどの並ぶ通りを突っ切り、路地裏に続く細い道の角を曲がった男。ちょうど運良くそこで人混みは途切れ、憂里は小走りにその距離を詰めようとした
そして憂里は男に続いて路地裏へと入り込もうとした瞬間、その動きを止めた。
「はぁっ、くろ、うーーーー??」
角を曲がらずに急に立ち止まった憂里にほとんどぶつかるようにして追い付いた千鶴を、何か言う前に咄嗟に肩を掴んで押し戻す。そして自分も壁の影に隠れ、半分ほど顔を出して素早く中の細い道の様子を伺った。
男は路地を曲がってこの道に入った。それは確かだが、何かーーーー。
「どうし……っ」
「シッ」
何故かはわからない。言わば直感というものだ。五感を通り越した第六感が、憂里自身をも押し戻した。
その時感じた何かわからない感覚に、「止まれ」と言われた気がしたのだ。
黙ったままゆっくりと中を覗いた憂里は、次に見たものに驚愕する。
一瞬の鋭い気配と共に、"それ"は上から降ってきた。
音はしなかった。
それほどの自然さで、"それ"は地上に降りてきたのだ。
わずかな着地音。
それと同時に舞った足元の小石と、ギャリ、と地面と擦れる靴底。暗い路地裏で鈍く光った、何か。
恐らくその「何か」が交わる音、そして崩れ落ちる音。
それは一瞬だった。
スタートの合図と共に、全てが終わった。
それからほんの少しの静寂と、暗闇から聞こえた溜息。
「うーーーん疲れたっ」
「そんなに長時間じゃねえだろ」
「師匠は上から見てただけだから」
「文句言うんじゃねえ。仕事は終わった。とっとと帰んぞ」
「はぁーい」
闇に翻る長い髪。上から聞こえる声。
チンッ、と金属同士が触れ合う音と同時に、またしても何かが降りてきた。そして、それがストッ、と着地した音。
声がするまで気配も無かったのに。
立ち上がったその人物は、隣に佇むもう一人より頭一つと半分ほど背が高い。風によって流れてきた、独特の匂いと煙。赤く小さい炎が闇に浮かぶ。
月明かりに照らされた二人分の人影は、そのまま路地裏のさらに奥へと消えていった。
「黒羽君……」
「……どういうことだ……あいつらは、誰ーーー?」
その場が静かになってから、ゆっくりと路地裏へと足を踏み入れた二人の眼前には、すでに意識を失ったあの若者が、半分ほどで綺麗に刃の折れたナイフを片手に、硬く冷たい地面に俯していた。
その身体には、もはや影は見当たらなかった。




