灰色のビル
「寒……」
四月も終わる頃とはいえまだ夜は肌寒い。
冷たい風が服の隙間から覗く顔や指先に、容赦無く吹き付ける。
憂里は黒いパーカーのファスナーを一番上まで引き上げた。フードをかぶり、両手をポケットに入れる。
右手に触れる、折り畳みナイフの冷たい感触。
黒い背中を丸めながらずんずんと歩を進める。
暗い裏路地を進み、塗装の剥げかけたオレンジ色の反射鏡を曲がってさらに進むと、やっと明るい路地に出た。
大通りは打って変わって人通りに溢れている。耳に頭に喧騒が突き刺さり、憂里は足早に人混みをすり抜けた。
夜8時になろうとしている街中は、様々な人間が入り乱れる。
そこにはチラチラと所々に覗く黒い影の姿。
駅に向かう人々の流れに逆らいつつ、憂里はある場所を目指す。ひたすら一心に目指す。
そしてある一点で立ち止まった。
繁華街の丁度真ん中、様々な建物が連なり並ぶこの通りで、ひときわ異彩を放っている、裏寂れた雑居ビル。
外観はよくある灰色だが、しかしどこか物悲しい。ちょうどこの裏にある非常用の階段は、赤黒く錆び付いて今にも崩れそうなのを憂里は知っている。
建物は全部で7階建て、しかし入口にある表記を見る限りでは、現在営業しているのは3階と5階のみだ。あとの残りはテナントが入っておらず、空き部屋状態である。ちなみに最上階の7階は改修工事中で、白いビニールが見上げた窓に貼られている。
(さて……)
通りの明るさとは反対に、薄暗く狭いエントランスに足を踏み入れる。
管理人室では、くたびれた作業服を着た50~60代であろう初老の男性が、黒い制服の憂里をちらりと一瞥し、やる気のなさそうに声をかけてきた。
「このビルに用があるのかい、少年」
「……まあ、はい。」
「そうか、珍しいね。あぁ、今エレベーター故障してるから、悪いけど階段使っとくれ」
ちっとも悪びれた様子も無く階段の方を指差すと、初老の男性は眠た気に管理人室の奥へと引っ込んで行った。
「階段……」
指を差された方には、狭くて暗い、急な階段。
結して楽ではない道のりにすでに嫌気を覚えつつ、憂里は息を一つ吐いて、そしてまた小さく吸い込んで階段を登り始めた。
行き先は、5階。
***
5階分の階段を一気に登りきった憂里は、わずかに広いスペースの、エレベーターの前辺りで膝に手をついて荒い息を弾ませた。
背筋を伸ばした目の前には、ドアが一つ。
そのドアノブには、メッキが剥げた、薄い金属のプレートがかかっている。
『本日の営業は終了しました。』
「……」
カン。
憂里はプレートを指で軽く弾くと、今度はドアをノックした。
そして中からの返事を待たずして、勝手にドアノブを掴んでを開け放つ。鍵が掛かっていないことは分かっている。
ギィ、という耳障りな好ましくない音に眉を顰めつつ、憂里は遠慮せずに中へと入り込んだ。
「……こんばんは」
控え目に、小さな声で挨拶をすると、こちらに背を向けてソファに座り込んでいた人物が勢い良く振り返った。
「すいません今日はもう終わりですよー……って、なんだよ憂里じゃねぇか」
「……どうも」
後ろ手にドアを閉める。
開けた時と同じ、錆び付いた音にやはり憂里は眉を顰めた。




