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私は『私』だ。

脇道に入ると、悪魔や魔物たちが路地を闊歩しているのがちらほらと見受けられた。

さっきまでは全く見かけなかったのに。若干不思議な心持ちで彼らを眺めた。うん、不思議。


上を見てみると高い石造りのビルの隙間から黒い空が見える。狭い所にビル群が建てられているので、道が狭く両壁にはさまれて圧迫感に苛まれる。

というか、レゲエさんいい加減に手を離してくれないかな・・・。


じぃっと掴まれた腕を睨むとテレパシーを感じとったみたいに突然ぱっと腕が離された。おおおう。そろりと見上げるとこちらを見ていたサングラスががきらりと光に反射して眩しさに目を細めた。



「ここまっすぐ行けば市場に出られるよ。俺用事あるからここまでしか案内できないけど。悪いね」


「いえ。なんか、色々すみませんでした」


「嬢ちゃん律儀だねー、わざわざどうも」



指をさされた方へ、にこにこと口元に弧を描いてこちらに手を振るレゲエさんを背に裏路地を出た。


突如として広がった真昼の眩しさに思わず左手で目を覆う。さきほどまでの静寂さが嘘のように賑やかだ。


「さっきのレゲエさん本当のこと言ってたんだ・・・」


嘘だと思ってたのに。ぽつ、と凪いだ湖に波紋が静かにうまれ、そして消えていった。


城にはないこの賑やかな光景。魔王城。

しんとした長い廊下のアーチ状の窓からはひっそりとした月明かりだけが射し込む。擦れ違う魔物は頭を垂れて、靴の音と自分の呼吸音がゆるやかに耳朶をくすぐる。


そんな大嫌いな場所。


だけど、この世界において『魔王』を絶対的に庇護してくれる拠り所。ふいにまた、遠くで誰かの叫びが聞こえたような気がして。笑顔が溢れる市場で一人、唇を噛み締めて逃げるみたいに人混みをかきわけた。



『魔王』である以前に私は『私』であって、『私』を構成している土台までこの世界に上書きされる謂れはない。もしも、『私』を私自身が否定したのならば、それは元の世界との繋がりのひとつを自ら消すことになるのだろう



――それはとても、恐ろしいことだ。



だから、だから私は『私』の心に従ってここまで来た。


目の前に佇んでいる古い石造りの屋敷をベール越しに睨みつけ一歩踏み出すと、思い思いに寛いで居た魔物たちが零れ落ちた黒髪に吸い寄せられるように、視線が私に集まっているのがひしひしと分かった。


ごくり、と一度喉を鳴らす。


私は、『私』を守るために使えるものなら『魔王』ですら利用してやる。



「責任者に会わせろ、今すぐにだ」



ふいに吹いた風に胸元までの黒い髪が舞い上がった。














―――その頃


魔王城のとある執務室で、上級役人は胃をきりきりとさせていた。それもその筈、執務室の第二の主人である銀の機嫌がすこぶる悪いからである。


先ほどから少しずつ溢れ出している彼の異質な魔力にあてられている上級役人は、それでも耐えているのだから中々のものである。上級役人の名も伊達じゃない。


余談だが扉を越して溢れるくらい異様な雰囲気を察知した彼らは普段ではこぞって出世のために銀や魔王の前に目通ししたがるが、今回は皆して役目を押し付けあった。


結果、じゃんけんで生贄を決めた。公平なじゃんけんであるにも関わらずその場には死屍累々その他が転がっていたというというのは蛇足である。



「こちらに各自治州の予算案を置いておきます」


「わかりました。あと、そこの持っていって下さい」


「あ、はい!で、では失礼します!」



ぴしゃりと怒られたわけでもないのに慌てて執務室を出て行く役人を尻目に銀は羽ペンを走らせた。だが、またもや継いだノック音に思わず力を込めた羽ペンが軽やかな音と共に無様に折れて机の上を転がった。


失礼するぞ、と渋く低い声がして幾許後に扉が開かれた。彼の護衛役である先導警士(リクトル)が扉を支えている。



「いま宜しいか?」


「刑部尚書殿・・・。ええ、大丈夫です」



そこにいたのは刑部尚書、(くれない)だった。闇色の軍服を手を抜くことなく身に纏い、肩には彼の階級を示すような羽のエンブレムが煌めいていた。刑部とは警察機構であり、無法者の取り締まりを行う部署である。


紅の後ろへと撫で付けられた髪の所々に白色が混じっており眦に刻まれた皺が歳を感じさせていた。けれども歳をとるにつれ紅の、―文字通り紅色の―瞳はより強い鋭い光を湛えさせており、銀は紅を前にするだけで気が引き締まった。



頭が冴えていくのい比例して溢れていた魔力が身体の内側に戻って来る。座ったままだと失礼だろうと椅子から腰をあげかけるが、紅はすぐに終わると手をあげて制した。



「下がってくれるか、薄紅(うすべに)


「御意」



下がれと命じられた紅の先導警士である薄紅は刈り上げた薄紅色の頭を下げて静かに退出した。



「先ほど連絡があって魔王さまが単独で城下警備署をご訪問されたらしいのだが、近衛の一人さえも付けずにいたのはわざとなのか?」


「ええ。お忍びでご視察をしたかったようですので」


「それにしても不用心すぎるだろう銀殿。魔王さまの力量を疑っているわけではないが、中界も騒がしいいま先導警士である貴殿が離れていい情勢じゃないのだぞ?」


「そうですね。私もそう思いましたが、魔王さまに先手をうたれてしまいまして。不甲斐ないばかりです」



顔色を変えずにそう切り返すと、紅は眉間に寄せていた皺を解いて大きく笑った。威厳に満ちた厳つい長官の顔が一度笑うと瞬時にとっつきやすい気安いおじさんになるのがとても奇妙だった。



「天下の魔術士である貴殿も魔王さまにしてやられたのか!ククっ、貴殿さえも出し抜くとは流石稀代の魔王さまだな」


「笑いごとですか。その稀代の魔王さまに未来をかけているんですよ。――・・・私も、あなたも」


「まあ確かにな。とはいえ、あまりにも人間離れしすぎていて逆に恐ろしい限りだ」


「・・・なにがです?」



しみじみと頷いた紅に銀はすかざず尋ねた。



「あの闇だ。・・・『人間』が到底持つ代物ではないぞ」


「否定はしません」



肩を竦め棚の中から新しい羽ペンを取り出した。ですが、と続けると窓越しに外へとずらされていた紅の瞳が銀で止まった。



「そうであったからこそ簡単に魔王さまに据えることができたんですよ」


「違いない」



くつくつと喉で笑ってみせた紅は、すぐさま過去に想いを馳せるように鋭い紅瞳を細めた。



「魔王さまが来てこその今の平和だな。さて、それでは私はそろそろお暇しよう。魔王さまに関してはこちらから幾人か護衛に付けておくから安心しろ」


「わざわざありがとうございます。・・・ああ、それと全ては内密に頼みますよ」



紅の背に念を押すために言葉を投げかけると、彼は一度だけ振り返って笑い扉の向こうへと出て行った。

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