蛇足過去1 薄紅(紅、コーラル )
執務で忙しい銀の仕事が紅や薄紅に回ってくることは多々あった。けれども今日はいつものそれとは種類が違うものが回ってきてしまい薄紅は思わず歯をかみしめ上司であり先導警士としてお側仕えをしている紅を見た。
「魔王さまのお相手など自分に務まる気がいたしません」
「ハハハ、だがあの銀殿が頼んだのだから大人しく剣術指南役を拝命するしか道はないぞ薄紅」
「主・・・」
けんもほろろ、それに加えて紅の鋭い目に浮かんでいるのは悪戯気な色だ。面白そうなことがあれば周りも嬉々として巻き込みいつのまにか傍観している御仁だ。助けてくれるわけがない。
困ったような表情を浮かべながら地面に散らばった紙を拾い上げながら薄紅は呆れたように嘆息した。魔王さまの剣術指南など自分には荷が重すぎまする。苦々しくそう告げるが、一向に紅は気に止めない。
コウモリから今回のことを聞かされたとき唖然としてしまい、肘にぶつかった資料の束がバサバサと音を立てて落ちてしまったのをまた拾う。余りに見事だったのだろう、弾けるようにしこたま笑った紅の表情は、いつも荒くれものを取り締まる刑部尚書の名に相応しい威厳と猛々しさに満ちていたが、今では薄い乾いた唇の口角が上を向いている。
「現魔王さまの召還に携わったのは極僅か、その中から吟味を重ねて銀殿も選んだのだろうよ」
「しかし、自分でなくとも他の方がいらっしゃるではないですか」
愉快そうに投げかけられた言葉を背に受けつつ、トントンと散らばった紙を纏めて机に置いた。平然と拝命などできる筈がないですと軽く息をつく。
薄紅にとってそれはまさしく唖然の一言につきた。青天の辟易とまではいわないけれども。銀を纏う彼が未だ人眼に触れさず手ずから育て上げている魔王の剣術の指南役だ。尻込みする自分にさらさらと羊皮紙に筆を走らせていた紅の瞳が向いたが、さほど気に止めることなく台詞を続けた。何を言われようと魔王の指南役など拝命したくないからだ。なぜなら、
「あの闇は自分には少しばかり強すぎまする」
あの闇を真っ向から受け止める自信がない。蝋燭の仄かな炎が揺らめく暗がりの中、膨大な魔力が渦巻いた一瞬のことを薄紅はまだしっかりと覚えている。ふう、と深く息を吐く。世界から音が消えたあの刹那を。(ありうるはずがない)あのとき薄紅は確かに見た。蝋燭の光が届かぬ闇のなかぽっかりと浮かぶ一対の闇を。それ以降、その瞳を思い出すたびに気味の悪さと頭痛が起こるようになった。
「なあ薄紅」
「はい」
震えそうになる声に一白置いてから答えると紅はおもむろに羽ペンをかちりと置いて革張りの椅子に深く腰掛けた。切れ長の紅色の瞳と薄紅色の瞳が絡むが、しかし記憶の中の魔王の瞳とはやはり、違う。闇の中うかんだそれは、じくじくと脳を苛む。何かが奇妙だと分かっているのにその何かが分からない。
条件と答えがあるのに途中が見えぬ気持ち悪さと焦り。唐突に走った痛みに一瞬眉根に皺を寄せると紅がインク壷を持ち上げ「なにをっ!」書類の上にぶちまけた。
「一体なにをしていらっしゃるのですか主!そちらは戸部へと回さねばならぬ書類ではっ?」
予想だにしなかった紅の行動に頭痛も忘れ薄紅は慌てて身を乗り出すが、紅は涼し気な表情で黒に染められた羊皮紙を節くれた指で示した。意図が全く分からなく二の句を告げれない。
「おやおや、どこぞからの軍備金なんたら通知書に眼を通す前にただの黒い紙になってしまった。減額などいう字が見えたが私の気のせいだろうなあ。今では確かめることすらできぬのだから判を押す訳にもいかまいて」
にやりと老獪な笑みを浮かべて宣う紅にどこぞのって軍資金関係なんですから国庫を扱う戸部にしかありえないでしょう!と心のうちで突っ込むが戸部尚書に知らぬ存ぜぬを貫くだろう紅の姿がたやすく眼に浮かんでストンと椅子に腰掛け直した。仕方無い、先導警士として知らぬ存ぜぬを自分も貫こうと決心した所で紅に呼ばれ顔をあげた。
「なあ薄紅。この黒く染まった紙に更にインクを垂らすとどうなると思う?」
「いくら垂らした所で変わりませぬ。黒に黒を混ぜても結局は同じこと。色に変化などございませぬゆえ予備のインク壷まで傾けないで下さい」
「おや?黒に黒を重ねても意味がないということか?」
「そうでございましょう、稚児でも分かる理でございますれば」
黒、それは母なる色。青や赤のように様々な色を持たない孤独な色。当然のように言い切る自分に主はふっと笑い首を傾けた。
「だが黒を喰らった黒を貴殿は見たであろう?」
魔王さまが御降臨なされたあの刹那。闇の中にぼっかり浮かんだ双瞳。(ああ、)ようやくなにが奇妙なのかわかった。暗闇の中、見えるはずがないのだ。全ては黒に飲み込まれてしまうのだから。だが、彼女だけは違った。
彼女の双黒の瞳は、世界の常識、否、理を越えていたのだ。
その事実に気づいたとき背中に震えが走った。湧き上がった感情をなんて呼べばよいのかわからず困惑に揺れた瞳に大儀そう紅は口を開いた。
「畏怖と、わたしは呼んでいる」
「い、ふ・・・?」
「我々が何をしようと全ては世界の理の中。だが、我らを縛る理でさえ魔王さまを従えることはできぬ」
この事実は畏敬の念を我々に抱かせることなく、それを遥かに越えた先にある畏怖の念を呼び起こさせる。そうであろう?と一度尋ね-その声には確信の色がみられたが-続けざまにこういった。
「だからこそ魔王さまは魔王さまと成られたのだ」
だが、と彼は言った。
「忘れてはならぬぞ薄紅。もとより理でさえ従えれぬ人間は所詮世界にとっては予定調和の外にある、癌であることをな」
擬音語をつけるとしたらまさしくそれはとぼとぼであるだろうと思う。
嫌だと拒否しても拒めぬ現実に嘆息しつつ約束した時間より一刻程早いが遅れるようなことがあってはならぬと魔王城に幾つも在る庭のうち、一番奥まった所にあるひっそりとした薔薇園へと繋がる廊下を薄紅は歩いていた。
魔王さまの指導をするくらいなら刑部の鍛錬を指導する方が何倍も精神上ましだ。あれほどまでに段違いな闇を魔王さまはお持ちであらせられるのに、鍛錬など…。闇の濃さは即ち力の強さ。魔王さまは何を考えていらっしゃられるのか。ふっと魔王さまの双眼を思い出し、もう一度長い溜息をついたその時だった。
「あっれー?紅の旦那んとこの先導警士じゃん」
「あなたは…」
すれ違いざま足を止めた声の主に顔をあげると珊瑚色のドレッド頭があった。ぴょこぴょこと髪の先が動きに乗じて跳ねる。
「こっち側に来るとか珍しくない?しかも紅の旦那もいないし」
自分より幾許か高いコーラルが顔を急に覗き込んできた。時折城内で見かけるがこれといって話したことはないのに、親し気に自分の名を呼び、小首を傾げる彼に思わず薄紅はたじろいでしまう。
表情には出していないと思うが、反応の無さに違和感を感じ取ったのだろう。きょとんとコーラルは眼を瞬かせてから、ああ。と納得したかのように拳を掌にぽんと乗せ笑った。
「そっかそっか、こうやって直接話すの始めてだもんね。オレはコーラル、よろしくね~。ってなんか引き止めちゃったみたいだけどダイジョブ?」
「……」
怒涛の如く喋り出したコーラルに思わず言葉を飲み込んでしまったが不思議そうにこちらを眺めて通り過ぎて行く悪魔の官吏に、薄れた理性を取り戻した。
煌かしいキ・イも、飄々としているコーラルを筆頭に、どうやら自分はお喋りな人が苦手らしい。こうやって一方的に喋り続けられたらいつ相槌をうち問いに応えれば良いのか分からない。
しかも薄紅は通信魔法で話をされた際にいつ切って良いのか分からず、何時間もどうでもいい与太話に付き合ってしまうタイプだ。
「権力を盾に減給とか勝手に決めちゃうとか酷って思わない?あー、でも紅の旦那はそんな器ちっさくないか!紅の旦那で思い出したけど紅の旦那が魔王さまの後見人してたってホント?」
「……」
ノンストップで話し続けるコーラルとは違いただ黙りこくっていた薄紅だったが魔王さまの言葉に唐突にはっとした。そのことに吃驚したコーラルも思わず口を閉じる。
(この会話を成立させねば魔王さまとの会話などさらにまた夢…!会話などせずとも宜しいのでしょうが鍛錬ともなると、それもまた難しいのでございまする!!)くわっと気合を入れ、拳を握り、跳ねる心臓を宥めつつゆっくりと息を吸って口を開いたが、結局時間が差し迫り薄紅はコーラルに断りをいれることとなった。
〜それいけ魔王さま!〜
庭の奥。黒を纏う魔王に薄紅は深く息を吸う。
「お待ちしておりました魔王さま。自分は刑部、紅尚書の先導警士を拝命している薄紅と申します。本日より幾日か不束ながら自分がご教鞭をとらせて頂きまする」
ぬかるんだ地面に膝をつきながら、そのまま頭を垂れていた薄紅を魔王はじっと見下ろした。