夜会3 ザ・勘違い そのよん
大広間のすぐ外、扉の前に薄紅はいた。
内側の扉が数度たたかれた。合図がきた。すっと腕を横に振るう。
警備隊をコの字になるように配置をかえてまるで大広間を覆うように警備隊の壁を作った。すっと顔をあげ扉を見据える。
中ではまさにいま、容赦ない炙り出しをおこなっているのだろう。まるで卑怯な騙し討ちだった。けれども、それも生きるため。そう考えると薄紅は否を唱えることができない。
じっと扉を見据えていても視界に入るのは豪奢な模様だけだったけれど。扉の向こう側で広がるだろう光景にそっと睫毛を震わせ静かに瞳を伏せた。
~それいけ魔王さま!~
儀式用の闇紅色の威厳あるマントを纏った者が大広間に一歩足を踏み入れた瞬間、大広間は海のさざなみがすうっと引いたような感覚の変化を魔族たちは本能で感じた。充満していた熱気が一瞬で水を打ったように静まり返る。
闇紅色のマントの金刺繡が天井から吊された光源に反射して煌く。
大広間の階段の一番上の壇にある真紅の玉座は、その者が腰をおろすのを待ちきれないとでもいうように散りばめられた宝石が天井に華やかな光の万華鏡をうみだしていた。魔族の喉が鳴る。
玉座までの階段の両脇に内界の重鎮や各部の尚書たちがずらりと立ち、騎士のように胸に手をあてがいなから頭を垂れた。
一歩、二歩とゆったりと足を進め玉座の前に立ち塞がったその者のベールから零れ落ちるのは、尊い我らが母の色、闇色の髪。闇紅色のマントがふわりと舞って。闇色の者は、数秒眈々と大広間を俯瞰し、しなやかに主人を待つ玉座へ腰をおろした。
鷹が空を悠々と縦横無尽に飛び支配するような。鷹揚とした歩みや力を持つ魔族たちを威圧することなくゆったりと臆さず見下ろした視線、牽制もなく緩やかに腰をおろしたのは、君臨者としてもつ絶対的な余裕の現れ。
闇色をその体躯に纏う者が内界を統べる王。魔王なのである。
幾人かが我慢しきれずにほぉっと思わず恍惚の声を漏らし、また感情を酒肴とする種族たちはその瞳を見開き考えを改めた。
「今宵は魔王さまの御厚意により饗宴が設けられた。そのご意思を熟考し吟味し、自身の糧とせよ。そして我らが王の末長き治世、内界のさらなる繁栄を祈ろうぞ!」
玉座より一段低い所に佇む魔王先導警士最上級政務官、『御前の賢者』銀の声が静まり返った大広間に反響した。
「グラスを掲げよ」
反射音が淡く消えて、また続けられる言葉が広がり、大広間にいた者たちはテーブルに始めから置かれていたグラスを掲げた。指をかけるとゆらりとグラスのワインが弛んで淑やかに揺らめく。
ふっと魔王が玉座から腰をあげグラスを掲げた。
みな、一様にしてその時を待つ。無意識に息を止めて。
ベールから覗く形の良い唇がそっと開いた。大多数にとって、初めて聞く今生の魔王の声が響く。低くもなく高くもない中間の声。その声は揺らぎも感情も孕むことなくただそこにある闇のように。眈々と大広間の隅々まで波及して染み入った。
「今宵を楽しむがよい」
魔王の唇がグラスへ口付けられたすぐ後に、大広間にいた魔族たちは全員グラスに注がられたワインを呷った。喉を常温のワインが滑り落ちて胃の中で轟くのを感じながら、夜会に花を添えるオーケストラによる宮廷音楽に大広間の静寂が柔らかにさざなみを取り戻したが、このとき魔王がその口元を残虐な笑みで歪めたことを、眼を逸らした者たちは気がつかなかった。
ホールの中央が暗黙の了解によって大きな空間が作られ、そこで魔族の紳士淑女たちが手を取りダンスをし始める。
ホールの中央ということは、玉座からみて正面にあたるため魔王の視界に必然的に入る。
その昔、夜会で魔王に見初められた女や気にいられ尚書になった男もいたことを鑑みて、野心ある魔族たちはなんとか魔王の視界に入ろうとするのだ。まあ、単にダンスが好きだとか、他の魔族と交流をするためという者もいるが。
和気藹々とまではいかないが、魔王が玉座から傍観しているスタンスをとったことを雰囲気で捉えた魔族たちは、ぴんと張り詰めた糸のような緊張感を僅かずつだが緩めていった。さすが登城するだけの地位や力のある魔族達だ。今ではそこかしこで談笑する声もする。
尚書席に姿を現していなかった紅は、中央から少し外れた所で建築やインフラを司る工部尚書に牢獄修理の申し出と他愛もない話をし、その輪から外れた途端マダムたちに取り囲まれ内心で苦笑したが礼儀正しい対応を心掛けた。
今日は紅の先導警士である薄紅の姿は近くにない。
ふっとマダムたちの向こう側にいたご令嬢と眼があい、ゆるりと口元を緩ませた所、ほんのり頬を染めながらドレスの裾をちょこんと持ち上げた様子に微笑ましい気持ちになって思わず笑ってしまった。
「紅さま、お久しゅうございます」
「ああ、そちらもご健勝なようだな。伯爵は御元気になされているか?」
「お祖父様のことですわね。ふふ、隠居しても相変わらずでございますわ。それよりもこちらわたくしの―」
夜会もまだ始まったばかりで、マダムたちの通例の挨拶や世間話を聞き流しながらちらりとホールの扉に配置した警備隊を確認しつつ、しとしとと笑ったマダムたちに合わせて紅も上っ面だけ笑い玉座の傍に佇んでいる銀へと紅瞳を向けた。
玉座の傍からは、この大広間が見渡せることだろう。銀瞳と視線が交錯する。
「申し訳ないが、少しばかり用事を思い出したのでこれにて失礼するよ」
「あら、相変わらずお忙しいのですわね」
話を途中で遮っても気を害することはなく残念そうな色を顔に浮かべるマダムたちにもう一度笑いかけてから紳士淑女の波を掻き分けて大広間の一番大きい扉に足を向けた。この扉は玉座から真正面にあり、紅からはダンスをしている者を通り越して玉座に凭れている魔王の姿がよく見えた。
その姿はなんらを寄せ付けず、ただ静観を持って世界を見下ろす孤高の月だ。
しかし魔王の本性を知っている紅は怯えることなく暇そうだな、と眼を細めた。だが魔王は暇でも紅を筆頭にした警備隊は大忙しなのである。 観音開きの荘厳な扉を背にすっと手をあげると群衆の輪から外れた幾人かが配置につく。
そして宴は静寂と共にたけなわを迎えるのだ。
くく、と喉を鳴らして紅色の瞳をすっと細めた顎を摩った。
オーケストラの突如の沈黙に襲われた魔族たちの視線の先、
「限りある時間を、楽しむが良い」
愉快だとでもいうように艶美に歪んだ酷薄な笑みがひとつ落ちた。