独り決めに陥って
私の居場所となった部屋には天蓋つきの柔らかなベッドがあった。
シーツは少しの乱れもなく大きな窓を覆い隠す役目のカーテンは月光を受けしっとりと煌めいている。重厚な大理石でできた机の上には果物や色とりどりの花が生けられてあり豪華絢爛、まさしくその言葉が相応しかった。
一度は夢見たような空間だったけれど、ふいに手に入れてしまうと酷く色褪せてしか見えなかった。
~それいけ魔王さま!~
私はいたって普通の女だった。
父母兄がいる普通の家庭に生まれ、週末には友達とカラオケに行ったり買い物をしたり。特に料理が出来る訳でもなく、裁縫が得意な訳でもなく。スポーツだって上中下でいう中くらい。
足の早い子と短距離走で一緒に走りたくなかったし、授業中にうとうとしてしまうことだって多々あった。電車に乗ったら座りたいし、携帯だって開く。
本当にそこら辺にいるような毎日を過ごしている平凡な女だった。
だけどあの日、意識せず瞬きをしたその一瞬、湿り気を帯びた不快な風に頬を擽られ薄暗い部屋の中、立っていたのだ。
視界に広がったのは眩い銀色で、
キラキラと綺麗な銀色だったのに、瞬間的に心が空っぽになった。
私を優しく包み込んでいてくれた大事なモノが側を離れてしまったそんな焦燥や虚しさ、胸を塞ぐような悲しみに少しの怒りに、はからずとも私は気がついたのである。
まるで息をするようにあっさりと。これが『 』というものなのかと。
――ここは内界。魔の王が統べる魔物の国です
――本日この召喚をもってして、あなたは魔王さまとなられました
瞬き一つで奪われた私の世界。
その代わりとでもいうように与えられた魔王の地位。
内界において絶対的な君臨者の名において多少の制約はあるとしても衣食住の保障はされていた。柔らかい上品な衣を纏い、温かいご飯を食べて、大きな城に住んで、生きるには充分なくらいに満たされた環境に私は置かれた。
一日一日を生きるのに必死な人達からみたら今の私の環境は羨望の的、否、憎らしいものかもしれない。
確かにそうだと思う、ポッと出のくせにこのような環境に置かれたからだ。喉から手がでるほどこの環境を欲している人達は多いだろう。私を取り巻くこの環境は酷く満たされているから。
高価な服、舌にのせた瞬間にとろけるような料理、大きく威厳に溢れた魔王城。日本にいた頃とは比較できないくらいに衣食住すべて、今が遙かに上回っている。
―・・・だけど
きゅ、と唇をかんだ。
――だけど、そんなものでどうして、この心を満たすことができる?
たとえ家族四人で暮らすには少し狭い家で。バーゲンセールで買った量産品の安いTシャツでのんびりして。夕飯に味気ないレトルトカレーが出てきたとしても。
・・・私はそれを家族で小さなテーブルを囲んで食べたい。
だからだろうか。
――もう帰らなきゃいけないのぉ?
胡桃色の彼女の言葉がどうしても私を揺さぶって仕方無かった。当たり前だろう!と叫びそうになる衝動を理性で掻き抱き押しとどめた。
帰りたくても、帰る術すら見つからない私
帰ろうと思えば、帰ることができるクルミ
それならさ、帰れる術があるのなら、クルミは帰るべきでしょう?
「身辺情報を引き出すように紫に伝えろ。尚、危害を加えることは許さぬ」
「伝えておきます。・・・それより彼女をどうするお心積もりですか?」
「・・・言わねば分からぬか?」
足を止め、振り返る。
すぐさま銀から失礼いたしました、と謝罪の言葉が向けられたが心中穏やかでない。少しの謝意も入っていない上辺面をなでたようなその場凌ぎでしかない謝罪ほど腹立たしいことはないだろう。
*************
振り落とされた模擬刀を杖で薙ぎ払う。
宙に舞った模擬刀は半円の軌跡を描き遠くでからんと音を立てた。
「無様ですね」
するりと自然に口を滑った言葉に彼女は俯いた。
淡々と見下ろした先―、服の裾からのぞく黄色い肌には赤黒く変色した痣が散っていた。
「御手自ら取りにお行きなさい」
転がったままの模擬刀を指差しながら告げると彼女は掌でズボンを握り締めよろりと立ち上がった。
俯いたまま伸ばされた腕の一部が青く腫れ上がり常人であればあまりの痛々しさに目を背けたくなるほどであったが、銀は駆け寄ることもなければ労りの言葉もなくただじっと見据えるだけであった。
――噎せ返るような芳醇な薔薇の庭の中
「構えて下さい」
模擬刀を握り締めた彼女と対峙した。
形状も重量も非力な彼女が使うことを考え拵えられた世界で一つだけの模擬刀。それ故に使いやすさは群を抜いているはずだと毎度のことながら思いつつ、杖を構えた。
小刻みに震える切っ先を感慨もなく見下ろし、腕を振るう。
もしも、と非生産的な時間を少しでも潰すために思惟にふけった。
思惟の起点はいつも違う。ありとあらゆる場面を想像し対処法を考える。それが常々忙殺されている銀にとって現実に目をつぶり、生産的な時間として昇華するのに必要だった。
――もしも彼女が耐え切れなかったらどうなるか
精神崩壊の兆しが見えたとしたら、どう対処するのが一番であるのか。
突き出された刀に足を一歩下げ杖を振り払った。
だが、と反駁する。
――――そもそも精神崩壊など関係ない。死ななければそれで――
杖を彼女の頭を打ち付けるように降ろす。しかし、打ち付けた筈の感触はなく寸での所でしゃがみこんだ彼女が見えた。避けられたことは賞賛に値するがそれでもまだ銀を満足させるには至らず、一つ嘆息し肩を竦めた。
「いまの所で下から斬りつければ宜しかったでしょうに。相変わらずですね魔王さま」
慮ることなく杖を降ろし冷ややかに睨めつけた。
肩で荒く息をする新魔王である彼女の呼気はまるで獣のようだったが、彼女は未だ理性がない獣に堕ちてはいない。彼女にとって『彼女』であることが矜恃であるからだ。
――元の世界に帰れるなら何でもするから帰して!!帰せこの銀髪!!
闇色に染まった瞳を吊り上げ、恐れも抱かずこの私の胸ぐらを掴みあげたくせに――
「誰かを傷つけることが恐ろしいだなんて」
―――――――・・・・貴女は矛盾ばかりだ――――
銀はハッとして頭を振った。
もう随分前の記憶だった。気がつくと前を歩む魔王である彼女に従うように一歩後ろを維持していた。彼女の歩みに迷いはない。始めの頃は先導せねば廊下のはじで右往左往していたいたというのに。
経った月日を実感したと同時にどこか寂しさに襲われた。
まるで掌から雛鳥が巣立ってしまったようなそんな一抹の寂しさ。けれどすぐさまその感情は胸の奥底へ飲み込まれ理解する前に霧散した。
執務室の扉にかけてある魔術を解除するため人差し指で一撫でしてから開け彼女を通した。後ろ手に扉を閉め再度魔術を施す。
銀は自身の政務机の上の資料を確認し、目新しいものにざっと視線を滑らすと治水やら公道やらの事業の中、刑部からの報告書があった。
内容に目を通し顔を彼女へと向ける。
机の端に広げられた内界の地図と睨めっこしていた彼女はすぐさま気がつき何ごとかと銀をみた。用紙を手に持っているところを見ると資料に書かれている地名を地図で照らし合わせていたのだろう。
蒸れるのが嫌だといってベールが外され瞳はこちらを向いており、滅多にない純粋な闇色はオニキスを思い起こさせた。
「刑部からの報告書で勇者について新たな情報が届きました」
「とどこおりなくダンジョン進めやがって・・・。で、今どんな状況なの?」
「ツカイトウホから海を渡り、リアオモ領において盗賊と小競合いをしているそうです」
内界地図の上に取り出した中界地図を重ね指で示す。
「盗賊との小競合いイコールイベント真っ最中なのね」
RPGとやらを思い出しているのだろう彼女は米神に指をあて目を細めた。
「イベントクリア後て基本仲間が増えたりするんだよね・・・ていうかあれじゃね、魔物みんな中界でボランティアすれば魔物っていいやつもいるんだな、よし仲良くなろうぜ!ってなるんじゃね?」
「それで、その心は?」
「勇者来る必要なくなるイコール私は死なない?」
「却下です」
がっくりと肩を落とす彼女に何バカなことをいってるんですかと追い打ちをかける。
「そもそも内界、中界だけでなく三界は原則渡航禁止なんです。奉仕作業もなにもないでしょう」
「うっ」
ぐ、と気まずげな表情を浮かべ顔を背けた彼女に内界の地図を片付けているとポツリと彼女から落ちた呟きを捉えたが、あまりにも囁かな音の振動は脳に伝わらずに不明瞭なものとして終った。
銀は冷静な魔術師、真理に近い者やら御前の賢者などと言われているが紅から「貴殿は保護者」だと形容されていた。
市井にすら広がる二つ名に対して多少なりとも思う所はあったが敢えて肯定も否定もすることはなかった。
しかし、保護者と形容されたことが酷く不可解で、「この私が保護者ですか」と些かな侮辱を言葉の裏に潜めながら紅を嗤ったが、逆にきっぱりと「保護者だよ」と大笑いされながら断言された。
「さきほどなんて仰られたんですか」
銀は積み重なった用紙に羽ペンを走らせ執務を進めつつもさきほどの呟きを尋ねた。
何だかんだ言いつつも相手の言葉を取りこぼすことをしない、それが彼が保護者といわれる所以であることを銀は気がつくことはない。
なぜなら彼は相手を慮っているのではなく単に自分の知的好奇心なるものに忠実に従っているだけであるからだ。しかし彼をよく知るものにとっては微笑ましい光景に見えるらしい。
「えー?なんていうかさあ、渡航禁止っていうくせに勇者が内界こっちに来ようとしてるじゃん?それって正直さ、協定違反ってことで中界に攻撃しかけても良いってことじゃない?」
この人間は時折核心をつく話をする。銀は平然と肯定しつつも舌を巻いた。
協定が結ばれたのは遥か昔のことであるが、三界において幼子から老人まで老若男女を問はず協定のことを知らぬ者はいない。それほどまで浸透している協定であるが、常識として地位を得たのは不可侵条項のみだったのである。
三界協定は三つの柱で成りたっているという事実は王族、政府高官、大天使、上級魔で保持されているのである。
もちろん、魔王である彼女も三原則を熟知している。
「確かにそうですが、これで開戦をするとなると勇者が内界に入った事実や、開戦の正当性を中界、外界に提示してからでないとおこなえません」
「ま、そりゃそうだよね。むしろ堕魔の管理不行届とかいってこっちが喧嘩売られそう」
「とはいえ、もともと堕魔の問題は中界側がうみだしたこと。私たち内界には何の関係もありません」
「魔物のような莫大な力もなければ天使のような智慧もない・・・で、いきついた先が召還ってわけね・・・良いとこどりか」
掌に顎をのせ机に肘をつきつつ彼女は広げてあった地図を丸め、取り合えず、と続けた。
「クルミは帰そう。んで、人間を攫ったバカ野郎どもをさっさと捕まえて処分する。もし今回の拉致が中界に広まってて揉み消せない感じなら中界の連中に奴らを引き渡すなりなんなりしよう」
「それがよろしいでしょう。細々としたものは私なりに補足をしつつも魔王さまの御意向を刑部と礼部にお伝えします。今回の件について逐次報告をするよう求めておいた方が宜しいでしょうね」
「ん、よろしく。クルミを帰す日とかはできるだけ早めがいいけど多分いろんな手続きとかあるんだよね?だからそっちに任せるよ」
「はい」
「でも肉体的にも精神的にも正常な状態で中界に帰すのは絶対守って」
「彼女の周辺に厳命致しておきましょう。魔王さまの勅令となれば間違いはおきないはずですので」
銀はするりと筆をとった。もちろん今した話を現実とするために。