いったんてったい
「はわっ、いったぁい!」
すってんと顔面から突っ込んだ第三者、彼女の見事な転びっぷりに思わず私は感嘆の声をあげそうになった。三流ギャグでも見てるようである。
ひーんといまだにおでこを抑えながら膝をついている彼女を助け起こそうと駆け寄ろうとしたが、銀が咎めるように私の前を遮った。
「ちょっと邪魔だよ」
「しのごのいわずまずはベールをかぶって下さい」
「なに警戒してんのさ。あのこ魔物売買の被害者でしょう?早く無事確かめようよ」
「取り敢えずそこから動かないで下さいね。そこの女、手を上げなさい」
噛み合わないちぐはぐな会話で、ふいっと軽く流されたと思ったら今度はホールドアップ要求ですか。どこの警察だ。あ、いやここ確かに警察機構、刑部の管轄だけどさ。
彼女がゆっくりと顔をあげたのが見えた。甘い胡桃色の髪がふわふわと腰元まで流れ、綿飴みたいな髪と同じ大きな胡桃色の瞳。小型犬みたいなたれ目がちな瞳を飾る長いまつ毛が困惑気味に震え、厚いぷっくりとした唇がぽかんと開かれていた。
間抜けた顔をしてるけどそれすら愛嬌があって可愛らしい。
顔がよろしい人ってどんな表情してもよろしいから羨ましいわ。ぎりっと白いハンカチーフを噛み締めようとポケットをまさぐったが、出てきたのは昨日食べたチョコレートの包み紙くらいだった。
あまりの女っ気のなさに絶望した!
一人で落ち込んでいると銀が彼女の片腕にはまっている黒色の腕輪を確認し、ぱちんと指を鳴らす。
「まだベールかぶられていないんですか?仕方ない人ですね」
呆れたような言葉とともに、ばふっとベールを銀にかぶせらたが髪の毛がベールの宝石の飾りに絡まって地味に痛い。ふいに伸ばされた手に反射的に一歩足が下がってしまい、はっとして顔をあげたが銀は気にしたふうもなく子どもを宥めかすように少しだけ頭をなでつけた。
「待機させている紅尚書たちを呼び検分させますので切り替えを頼みますよ」
「・・・え、あの子は?」
「参考人として連れて行きます。念のため周囲に魔法封じも施しましたし」
「そ。了解。あーっと、すみません、あと少しだけ我慢してもらえますか?あ、安全はもちろん保障しますから!!」
大きな声でそう告げると彼女はきょとんとした顔をしてこくんと頷いた。あの子もなんか怪我なさそうだし、まあなんとか保護できるだろう。
ぽかんと子供みたいに私を見てくる彼女に大丈夫だよと安心させるように笑いかけ
た。
胡桃色の瞳が一度二度と瞬かれたが気づくことなく私は横で銀が両手を一度、打ち鳴らし空気を揺らしたのに意識を集中させていた。さあてと、魔王さま魔王さまっと。
――――こほんと喉を震わせ調子を整えておくと顔の横で突如火がふいた。
・・・いや、正しくいうなら火炎放射?
顔すれすれをかすっていったそれを凝視すると、細長い炎が連なった小龍のように空気を舐め宙をかけていった。
似た光景を具体的に引っ張り出すのであならば、あれだ、透明人間が花火×百を携えながら猛ダッシュしてる感じ。自分でも何をいいたいかわけわかんないけど、そんな感じなのよ、うん。でも、ねえ?
ぎぎっと背後に立っている彼をゆっくりと振り返るが奴は平然としたように佇みつつ、白く長い人差し指を静かに降ろした。
あのさ、私は関係ありませんみたいな顔してるけど、人差し指の先っちょに炎まとわりついてますよお兄さん。
「てんめえええええ!!!!!」と胸倉を掴み上げがくがく震わせたかったが、今は魔王モードなのである。私は今、冷静沈着かつ寡黙な魔王さま!!
ぐっと激情を飲み込み、笑顔を浮かべた。
「なんだあれは?」
「紅尚書たちに異変に気がついてもらおうと。この場を離れるわけにもいきませんので」
「・・・・・・・」
「ああ、紅尚書たちがいらしましたね」
しれっとしているこのクソ顔、いつかぎゃふんと言わせてやる。
とりあえず魔力の残滓と検分、改善を命じた銀と私は彼女、胡桃色のクルミをその場から連れ出し魔王城の客室で保護した。その間に話した感じではどうやら少しばかり特殊な中界の人間であるとの検討がつかれることとなった。
「つまり先祖帰りか?」
「そう考えるのが妥当でしょう。瘴気が効かないのも説明がつきます」
「でも私そんな話聞いたことないよぉ?」
ソファーに座りつつ、ぽてっと首を傾げた動作に遅れて胡桃色の髪がふわっと揺れた。クッキーをもぐもぐと咀嚼している姿がもはやリスにしか見えなくて、とりあえず眼をこする。目薬も欲しい。というか見かけによらず案外図太いな。周り魔物だらっけつうか現に私たちも、人型として魔物カテゴリーに入れられるのに。
「大戦前には異種族同士の婚姻も稀ですが、ありましたからその名残でしょう」
「間子には瘴気が効かないのか」
「そこまでは分かりません。そもそも魔物や悪魔たちが人間と子を成し、その血脈が残存することが珍しいですよ」
いっそのこと研究所送りにするのもいいですね。
血も涙もない発言に、銀ならありうると慄いた。研究所に行くくらいならば執務室で缶詰状態の方がマシだと感じられるほどトラウマな場所だ。
脳裏に浮かんだ研究所長の笑みに腕をさする。
あのくそったれ研究所所長がいる所に女の人を送るだなんてそんなバカな真似できるかっての。研究の為とかいって孕まされるに違いない。右手を横にふってあしらい肩を竦めた。
「却下だ」
「無論、魔王さまの御意のままに」
「それよりクルミを中界へ帰す用意をしろ。他の魔物が気づくと後が面倒だ」
帰るべき場所があるならば、帰すべきだ。クルミにはクルミの場所がある。
そう思っていたのに本人から紡がれた言葉に息を止めざるをえなかった。
「えっ!私もう帰らなきゃいけないのぉ?」
その一言に、嫌が応にもひやりと背筋が粟立った。
クッキーに差し伸べていた手を止め顔をあげて気に入らないとばかりに唇を尖らせたクルミは自分の容姿を熟知しており最大限に利用する術を心得ているのか酷く愛らしく見えたが私はその向けられる瞳から逃れるように視線を外した。
心臓が奏でる鼓動がいつもより早く耳元でどくんと跳ねる音がして心臓に全身が支配されるような錯覚さえ襲ってくる。疲れたように右手で両目を覆ってずるりとソファーに背を預けた。
「魔王さま、お話しの途中で申し訳ありませんがそろそろ執務へお戻り下さい。この一件は夜にでも」
「えっと、執務?執務ってお仕事だよね?魔王さま忙しいの?」
ふるりと長い睫毛を震わせて純粋に小首を傾げた気配がしたが、どうしてもクルミに視線を合わせづらい。だって瞳を合わせたが最後、内に燻った火種が息を吹き返す気がして。
―蜷局を巻いた蛇が守っているのはいったいどっちだったっけ
じわりとベールの奥に隠された瞳が熱を孕ませたが零れるまでには至らない。たとえ泣いたとしても、雨一滴が海に降り注ぐのと同じくらい何にも変わらないのはもう経験済みだ。
「執務へ戻る。紫を護衛に置き結界を張れ」
いったん撤退するが吉だろう。これ以上考えると爆発しそうだ。