ザ・勘違い そのさん
いつものように机に噛り付きながら私―刑部の上級警士または副所長―は、
紙に目を通しサインを書く、ハンコを押す。
紙に目を通しサインを書く、ハンコを押す。
紙に目を通しサインを書く、ハンコを押す、を繰り返していた。
大きな事件がおこらない限りこの日々は続くのだろうとそんなことを思った罰だったのか、慌しく飛び込んで来た部下がもたらしたのは非日常だった。
~それいけ魔王さま!~
署内で一番豪勢に作られた客室で、私は今、この世のものとは思えないくらいの非日常と対峙していた。というか、対峙できん老いぼれにそんな気合いも度胸もない。対峙するくらいならもう矜持なんて知らん。ひれ伏すわい!無理無理無理じゃ。
このときほど副所長という位の高い地位を恨んだことはない。
生き地獄とは、正しくこのことかと唾をごくりと呑み込んだ。視線があげられない。沈黙
の中、ふいに、とんとんと軽い音がして顔をあげると、長くも細い指が苛立たし気に机をたたいていた。
―ぴりぴりとした焼け付くような痛みがかさついた肌を舐めていき背筋が粟だつ。
滅多なことがない限りお目通りなど我が身では叶わないそんな雲の上の存在である魔王さまが、まさに、いま!目の前にいらっしゃるのじゃ。
現魔王さまは、あまり政治舞台にも夜会にも御姿を現さない為に口さがない魔物たちが現魔王さまは『魔王』に相応しくないのではないのかと笑っているという噂を聞いたことがあったが、今すぐこの噂を流した元凶の口さがない馬鹿者をしょっ引きたい。
噂を信じていた己も大馬鹿ものであるが何よりも元凶が悪いんじゃ!
(副所長として魔王城に登城できても、まさか天下、いや魔下の魔王さまにお目通りなんて叶わない!だから信じてしまったんじゃよ魔王さまは『魔王』として不相応だと!!)
そんなぷるぷると震えているなか、魔王さまが口をお開きなさった。
「・・・・・・まだか」
―――戦慄が、走った。
それはまるで、雫ほどのマッチの火が一瞬で海を干上がらせた、そのくらい衝撃をもたらした。低くもなければ高くもない中性的な声音はただその三文字だけでこの私を恐怖へと引きずり込んだのである。それぞ、まさしく生き地獄の如く。長らく生きて年寄りに該当するこの私をたったのその三文字だけで。
―――これが、この内界の魔の王たる所以なのか。
言の葉にまで流れる禍々しくも、酷く艶やかな、この闇の気配―――
感じたことのない純粋たる闇に意識が奪われ朦朧となりそうになったのを叱咤して張り付く喉を震わせた。
「も、申し訳ありません。監視用コウモリ、も、使ってま、魔物斡旋者を、捜索中です」
いつもよりしわがれた聞き難い声に自分で自分の首を絞めた気がした。恐る恐る魔王さまの反応を待つと、そうか、とのお言葉の後に、ひとつ、息を吐かれた。身体中の血がざっとさがる。その溜息は語っている。
―――我が手を煩わせるな、と。
偉大なる魔王の配下に無能な奴はいらぬと。お前の代わりなどいくらでもいるのだと。どくどくと、心臓の刻む音が酷く耳障りだった。
静かに、静かに、静かにせい!魔王さままでこの煩い音が聞こえてみろ。それこそ魔王さまの機嫌をさらに損ね、音を刻めなくなるぞ!!
青白い顔をさらに青白くさせ戦かすと、慌しく回廊を駆ける音がして思わず唇を噛んだ。血がでようと関係ない。もうこれ以上、魔王さまの機嫌を損ねるような事態をもたらさないでくれ・・・!魔神さまに祈りを捧げるように皺だらけの掌を握り締めた。
「ほ、っ、報告いたします!魔物売買に加担しただろう者を捕縛いたしました!!」
「・・・ああ」
中悪魔のもたらした情報は、どうやらプラスのことだったらしい。私は安堵の息をそっとついて握り締めていた掌をそっと緩めた。汗でぬるりとすべる。ほっとしつつ顔をあげ魔王さまを伺ったその瞬間だった。
魔王さまが嗤ったのだ。
口角を吊り上げ、愚か者めと、見下すように!
嘲けり、蔑み、言葉には表せられないが、魔王さまは見透かしておられるのじゃ。私の震え上がる弱い体躯だけでなく私の愚かな考えでさえ。魔王さまの凍るような深淵の闇に怯え、死に恐怖し、それでも尚、生に縋り付きたいというこの矮小で不精な心根を!
その途端、顔をあげるのすら恥ずかしく畏れ多く、恐ろしかった為に顔を背けたが、失礼にあたるのではないかとはっとして顔をあげた。
魔王さまが一度こちらをベール越しに見たのが分かった。なんとも辛い。魔王さまの御前にあることができることなど身の余るほど光栄なことだが、私なんぞの力では、魔王さまの駒ですら到底なりえはしない。
(だってほら見てみろ、こんなにまだ身体中が怯え惑っている)
この場からなりふり構わず逃げてしまいたくなった。だが魔王さまから逃げられるはずもないのが本能的に分かっているのだろう。だから、捕食者に“生き物”として喰いちぎられないように、置物のように身体は余計な一切の活動を停止している。
指一本でさえ動かすことが億劫だった。自分は殺され、この偉大禍々しい闇に取り込まれるのだろうか。だが、もはやそれも摂理というやつかもしれん。ふっと諦観に身を預けた。
だが、そんな時だった。
自分の上司である紅尚書が颯爽とあらわれたのである。紅尚書は猛禽類のような紅色の瞳を細めながら、魔王さまに臆せず渡り合っていたのである。そして、私を冷たい瞳でみおろしたんじゃ。
「光栄の至りでございます、さてお前らは各々の仕事をせよ。魔王さまのお相手
は私がする」
ふっと、夢から目が覚めたような気がした。ぶるりと身体が一瞬震えて、息を吸った。紅尚書は相変わらず無愛想な顔をおったが、それでも命の恩人になった御方じゃ。なんということじゃろう!
おもわず瞳に熱いものがこみ上げて紅尚書に感謝の意を込めて視線を送って意気揚々と席を立った。
(ああ、これが生きているということなんじゃ・・・)
その日、歳老いた彼は気がついたことが二つあった。
いかに噂が「噂」にしか留まらないということと、やはり日常が一番だということに。