「君の席は妹に譲れ」と言われましたので、婚約者の隣の席も返上いたします
「君の席は妹に譲れ」と言われましたので、婚約者の隣の席も返上いたします
「セシリア、すまないが、その席はリリアンに譲ってやってくれ」
婚約披露式が始まる十五分前、ユリウスは壇上に並んだ二脚のうち、私の椅子を指さした。深緑の座面には、ハルデン家とクローデル家の紋章が並んで織り込まれている。私が肘掛けに触れると、等間隔に打たれた銀の鋲が手袋越しにも冷たかった。
「ここは、婚約する二人が座る場所です」
「分かっているよ。でもリリアンは今朝から具合が悪いんだ。僕の近くにいれば安心だろう? 君は下の席に座ってくれ」
ユリウスの背後で、妹のリリアンが胸元に手を添えた。淡い桜色のドレスの裾を揃え、侍女に支えられるでもなく壇の階段を上がってきたところだ。来賓席には空席があり、出入口のそばには体調の悪い客のための控室も用意されている。
「お兄様、私は平気よ。セシリア様のお席をいただくなんて、申し訳ないもの」
「お前はいつも遠慮する。セシリアは丈夫だし、気の利く人だから心配しなくていい」
三年前、初めて三人で観劇した日も、ユリウスはそう言った。私の券をリリアンに渡し、柱の陰になる端の席へ私を座らせた。幕間にリリアンが舞台の見せ場を話すあいだ、私はパンフレットで、見えなかった場面を探していた。
帰りの馬車では、乗り降りの楽な奥の席をリリアンに譲った。その晩は雨で、私の座った扉側から泥水が入り、靴の縁とドレスの裾が濡れた。邸に着いたユリウスはリリアンへ外套を掛け、私の裾を見て笑った。
「その調子なら、いい義姉になれるね」
あの夜は、洗っても縫い目に泥が残った。翌朝、針先で泥をかき出しながら、婚約すれば彼にもいずれ分かってもらえると思っていた。私が譲るたび、次は私のことも見てくれるはずだと。
壇上の椅子は、私が図案を引いたものだ。昨年、ハルデン家の書庫で古い婚約披露の記録を見つけ、両家の紋章を一枚の布へ織り込むよう職人に頼んだ。手袋の布が引っかからないよう、銀の鋲を深く打ち直してもらうため、私は三度工房へ通っている。
「ユリウス様。私が来賓席に移れば、どこで誓約を受けるのですか」
「先週、書面には署名しただろう。神父の前で立てば済む話だよ。たかが座る位置で来賓を待たせるつもりかい?」
署名した書面は、婚約披露式の手順と準備費用の負担を定めたものだった。今日、神父と両家の立会人の前で互いに誓約し、記録に署名して初めて婚約が成立する。その手順を書いた紙を私はユリウスの机に三度置き、最後の一枚には飲みかけの杯の丸い跡がついて返ってきた。
「リリアン様には医師をお呼びしましょうか。控室もございます」
「大げさにするなよ。君が一度譲れば済む話じゃないか」
「私は、どこにいればよろしいのですか」
「だから、誓約のときは立っていればいい。妹に恥をかかせるよりはましだろう」
リリアンが目を伏せ、隣に並ぶユリウスの椅子へ目をやった。侍女は壇の下で控えている。新しい椅子を運ぶよう命じれば済むのに、ユリウスは私の椅子だけを指さしていた。
私は肘掛けから手を離した。
「承知いたしました。席を空けます」
「ありがとう、セシリア。やはり君なら分かってくれると思ったよ」
ユリウスはリリアンの背を支え、自分の椅子のほうへ歩いた。私は自分の椅子の背もたれを両手で握り、座面の下へ指を差し入れる。持ち上げると胡桃材の重みで腕が沈み、肘掛けの鋲が掌を圧した。
裾を踏まないよう、階段を一段ずつ下りた。通路の端へ椅子を置くと、脚が床に当たって鈍い音を立てた。近くの客が扇を止め、壇上にいたリリアンもこちらを向いた。
「セシリア、何をしている」
「私の席を空けました。この椅子はクローデル家が注文し、代金も支払っていますので、持ち帰ります」
「椅子まで持っていく必要はないだろう。それではリリアンが座れない」
「来賓席に空きがございます。具合が悪いのでしたら、控室へご案内できます」
ユリウスは壇から下りてきた。神父が祭壇の脇で式次第を閉じ、前列の親族たちが私たちを見る。ユリウスはその視線を避けるように、声を低くした。
「人前で僕に恥をかかせる気か」
「体調の悪い方のために席を整えることは、恥ではございません」
「分かった。リリアンには別の椅子を用意する。早くそれを戻して、何もなかった顔で座ってくれ」
ユリウスが私の腕へ手を伸ばした。私は一歩下がり、袖の先が彼の指から離れるのを待った。椅子を元の場所へ戻せば、彼の言うとおり、広間は何もなかったように式を始めるだろう。
「先ほど、私には立っていればいいとおっしゃいました」
「言い方が悪かった。謝るよ。これでいいだろう?」
「いいえ。私は今日の誓約をいたしません」
ユリウスの手が止まった。奥の扉から風が入り、神父の持つ式次第の紙がめくれる。私は椅子の横を通って神父の前へ進み、誓約を拒む意思を立会人に記録してほしいと頼んだ。
「署名しただろう! 今さら取り消せるものか」
「書面には、本日の誓約をもって婚約が成立するとあります。誓約するかどうかは、双方が決められます」
「君は席のことで、侯爵家との縁談を捨てるのか」
「席のことだけではありません」
劇場で見えなかった舞台がある。馬車で濡れた裾がある。私が代わりに整えた羊毛の帳簿と、領地の境界争いの申請書もある。ユリウスは書類を受け取ったが、中身について私に尋ねたことはなかった。
「リリアン様のために椅子を運ぶことは、私にもできました。あなたの仕事を手伝うことも、私が選んでしてきました。でもあなたは、私にどの席が必要かを一度も尋ねませんでした」
ユリウスは壇上の妹を見上げ、それから私の椅子を見た。リリアンは侍女に何かを囁き、侍女が来賓席から空いた椅子を運んでくる。それは今すぐ用意できたものだった。
「これまで君がしてくれたことには感謝している。披露式が終わったら、きちんと話そう」
「羊毛の帳簿をお渡ししたときも、境界の申請書をお渡ししたときも、そうおっしゃいました」
私の声が止まると、広間に椅子を置く音が響いた。侍女が運んだ椅子にリリアンが座り、ユリウスの隣だけが空いている。そこへ戻っても、また同じことが起きたとき、私は三年前と同じように裾を洗うのだろう。
父が前列から立ち上がり、神父の求めに応じて立会人として名を告げた。続けて、準備費用の明細は両家の代理人を通して確認すると伝える。ユリウスが父へ向き直ったが、父は私のほうを見た。
「セシリア。家のことは私が話す。椅子は従僕に運ばせよう」
「ありがとうございます、お父様」
そのとき、来賓席の後方から一人の男性が進み出た。濃紺の上着に北方軍の徽章を留めた、ヴォルフ・オルデンブルク辺境伯だった。半年ほど前、クローデル領と北方領が交易協定を結ぶ際、羊毛の等級表を挟んで二晩議論した相手だ。
「クローデル令嬢。今は仕事の話をする時ではないな」
ヴォルフ卿は椅子の脇で足を止めた。私が返事をするまで待ち、こちらへ手を差し出すこともしない。強く握っていた指を開くと、掌には銀の鋲の跡が残っていた。
「以前、農政顧問のお話をいただきました。婚約を理由にお断りして、申し訳ありませんでした」
「謝ることではない。あの職は今も空いている」
「まだ、私を必要としてくださるのですか」
「君の等級表を使って、今年は羊毛の取引額が増えた。現地の農家にも会ってほしい。仕事内容と報酬は改めて書面で示すから、それを読んで決めてくれ」
北方へ行けば、知らない農家の帳簿を読み、冬の長い土地で暮らすことになる。先週まで用意していた暮らしとは、何もかも違う。けれど羊毛の束をほどき、繊維の長さを測りながら数字を確かめ合った夜のことなら、私はよく覚えていた。
「書面を拝見します。北の領地も、この目で見たいです」
「分かった。日程は君の都合に合わせよう」
ヴォルフ卿は短くうなずき、道を空けた。従僕たちが来て椅子を持ち上げ、広間の出口へ運んでいく。工房で座り心地を確かめた日から今日まで、私は結局、一度もその椅子へ座らなかった。
侯爵邸を出ると、石畳には朝の雨がまだ残っていた。父の馬車へ乗り込む前に振り返ると、従僕が椅子を布で包み、荷台へ固定している。ユリウスの隣に並べるために作った椅子は、私たちと一緒にクローデル家へ帰る。
「家に着いたら、どこへ置く?」
向かいの座席で父が尋ねた。私は窓の外を見た。北へ続く街道を、羊毛を積んだ荷車が一台、ゆっくり進んでいた。
「まずは私の机の前へ置きます。あの椅子に座って、北へ行くかどうかを決めます」
父が御者に出発を告げた。馬車が動き、荷台から木のきしむ音が小さく聞こえる。私は座席に深く腰を下ろし、膝の上で、鋲の跡が薄く残る手を開いた。




