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196日の静寂

作者: ヒビキ
掲載日:2026/05/30

某日、とある小国からの連絡が途絶えた。

原因不明。

完全なる沈黙。

その事象は、世界を揺るがす一大ニュースとなった。


異変の起きた国へ探査機を向けた大国は、次の日同様の異変に見舞われた。

その次の日も、そのまた次の日も、国と呼べるものは次々に沈黙していった。


196日。

一日につき一国ずつ、世界は停止していった。

最後に残った国はひとつの島国。

異様に静まり返ったその国の夜に、小さく謳う声が響く。



「……対象確定。……融けて崩れろ」



旋律が途切れ、静かな声が響く。

瞬間、世界は変質した。

暗闇に聳え立つビル群が、閑静なベッドタウンが、街が、否、国と定義された範囲全体がぐにゃりとノイズがかかったように歪む。

歪みはほんの刹那の事象。

次の瞬間には、最後の国は蔦と木々に埋もれた廃墟へと変貌を遂げていた。


『観測者』


それが、世界を静止させた存在。

人々は境界をなくし、記憶をなくし、名前や感情、善悪すらもなくした。

今夜で197日。

それまで誰一人として死んではいない。

ただ、全ての定義を失っただけ。

『観測者』は、月明かりだけが照らす都市ビルの屋上でただ世界を俯瞰していた。

これで大半の救済は終わった。

あとは右手に携えた「機構」で、僅かに残ったものたちを静止させれば、『観測者』による世界の救済は終わる。

ざあ、と吹き抜ける風が植物の枝葉を揺らし、『観測者』の長い横髪を、その黒衣をなぶった。



─────



月明かりの中、どれだけの時間が経っただろうか。

歪みに呑まれなかった女が一人、ビルの非常階段を駆け上がる。

確かに、このビルに人が入るのを見たから。

曖昧に融けてしまったものたちと、廃墟と化した世界を196日かけて旅した人間。

彼女はその旅路の中でひとつの確信を持っていた。


バン!


屋上の扉が勢いよく開かれる。

そこには世界を俯瞰する存在が、ひとつ。

物音に驚くこともなく、ただゆっくりと振り返るその存在は、物憂げな、けれど確かな慈愛と絶望を湛えた瞳に彼女を映した。



「……は、……やっと、見つけた」



彼女が口を開く。

随分と急いだのだろう、上がった息もそのままに。

対する『観測者』は何も紡がない。

表情すら、変えない。



「……君、……君は、君がしたかったのはこれ?……世界がこんなにも曖昧なものだって、そう知らしめること?」


「…………、ただ、定義されない世界を望んだ」



会話は、成立しない。

噛み合わない。



「……ねぇ、君……観測者だよね。ネットで知り合った時、そう名乗ってた」


「……観測者は、世界のすべてに該当する」


「……君の望みって、何?」


「仮初の平穏なんて、苦痛でしかない」


「君は、……人類を救いたかった。そうだよね?」


「……人類って?」



彼女が顎に伝った汗を拭う。

黒い球体を持った『観測者』は、その場から動かない。



「君、私のこと覚えてる?」


「……あなたはまだ救われていない」



さあ、救済を。



『観測者』の喉が小さく、月明かりの下で酷く美しい旋律を奏で始める。

高く、低く、紡がれる音色に言葉は乗らない。

彼女に分かるのは、それに呼応して『観測者』の持つ球体が微かに振動し、共鳴するかのごとく波打っていることだけ。


この旋律が途切れた時、自分は融ける。


本能的に察した彼女は、疲弊しきった体に鞭を打って強く床を蹴り走り出す。

『観測者』は、動じない。

彼女が肉薄する。

その手が黒衣の肩を掴んで、勢いに任せてその場に『観測者』を押し倒した。


それでも旋律は、止まない。


冷たく透き通った音が響く中、もろとも倒れ込んだ彼女が馬乗りに身を起こす。

そして、『観測者』の瞳をじっと見下ろし、一言。



「君の根源、……知ってるよ」



──ふつり。


その一言を聞いた瞬間、旋律が止まる。

その目には確かな動揺と、じわりと滲む恐怖があった。



「……私は、君を知っている」



瞳に滲む恐怖が、強まる。



「君の真名を、本質を、……その目が抱く恐怖を、知っている」



『観測者』の唇が、反射的に旋律を紡ごうと喘ぐ。

そんな眼下の相手に対して、彼女は静かに言い放った。



「……だからこそ、私は、──……」



囁き声は風に溶けて消える。

僅かに見開かれる、『観測者』の瞳。

黒い球体はまだ揺らいでいる。

その所有者の意図を汲むように。


球体を持つ手が、ゆっくりと動き出す。

そうして薄く開く、唇。



「……対象、確定」



呟く声。

月へ向けて掲げられる球体。

彼女は世界を静止させたものの上から降りて隣に座る。

無防備に向けられた、その小さな背中。


沈黙。

『観測者』の言葉の続きは、喉を震わせることなく途切れて消えた。

静まり返った廃墟の中で、『観測者』はそっと目を閉じる。


世界はその大半が壊れ、境界を、定義を失った。

けれど、僅かな定義が残留していることを『観測者』は知っている。

例えばここに来た人物が彼女でなかったら、己が止まることはなかっただろう。

静寂に包まれた夜の中で、『観測者』はそっと、球体を掲げた手を下ろした。


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