第四章 ボスコム谷の惨劇 (三)
丘を越えたとき、崩れかけた魔泉塔が視界に入った。
かつて水と魔力を制御していたはずの塔は、上部が崩れ、役割を失ったまま霧の中に沈んでいる。
その手前に、黒い外套をまとった男が立っていた。
「――また厄介な場所で会うな、シャーロット」
レストレードだった。
「久しぶりね」
「まず、事件の話をしようか」
彼は手にしていた報告書を軽く叩く。
「被害者はチャールズ・マカースィ。息子が逮捕された。殺人の疑いだ」
書類を閉じ、谷の方へ顎をしゃくる。
「魔法汚染が起きた現場で、二人は言い争いをしていたそうだ。それから、地主のジョン・ターナーという男が、事件当夜は現場近くにいた」
「ジョンはどこに?」
「ジョンは、体調を崩して寝込んでいる」
「魔法汚染について、監視局はどう見ているの?」
「規模は、小さい」
レストレードは視線を谷へ落とす。
「一つ問題がある。それはこの土地が“私有地”だったってことだ」
「私有地……」
「ああ。ジョン・ターナーの土地だ」
丘の上から見下ろすと、谷は広大だった。
だが農業に使われている様子はなく、研究所のような建物が立っている。
「現場は封鎖されている。これ以上の魔法汚染は確認されていない」
「魔法汚染が“止まった”ってこと?」
「いや……」
レストレードは、言葉を選ぶように一拍置いた。
「“消えた”んだ」
「消えた?」
シャーロットは谷を見つめる。
「監視局としては、親子げんかの末の殺人事件と、自然発生した魔法汚染がたまたま重なった――そういう形で“解決”にしたいらしい」
「それだけで済む話なら、わざわざ私を呼んだりしないでしょう?」
シャーロットの視線を受け、レストレードは小さく息を吐いた。
「問題は、ここが私設研究所であり、ボヘミア卿の出資者リストに、マカースィの名があった。」
「それで、調べたのね」
「ああ」
「マカースィは、オーストラリアからの移住者だ。十年前の魔法汚染事件の頃まで、オーストラリアの魔法研究所で研究者をしていた」
シャーロットは、心の中でその事実を反芻する。
オーストラリア、十年前。
「魔法汚染で、研究所が崩壊して、今もその地域が立ち入り禁止になっているところだったかしら」
ワトソンが思い出したかのように言う。
「そうだ。魔法実験の中でも最大級の事件の一つであり、すべての情報を秘匿している」
「それで、今回の魔法汚染が“偶然”とは言い切れなくなった」
「ああ。だが、話はそれだけじゃない」
レストレードは、最後の一行を指で叩いた。
「地主のジョン・ターナーも、同じ研究所の出身だ」
「魔法汚染が発生した場所へは、見に行けるの?」
「ああ。問題ない」
「……行くのか?」
「ええ」
シャーロットは、ほんのわずかに口元を緩めた。
魔法汚染が――消えた。
それは彼女の興味を、否応なく強く刺激していた。
シャーロット達は、研究所へと移動した。
民間施設でありながら、これほど高度な技術と魔法制御を併用している。
シャーロットは周囲を見渡し、静かに言った。
「これは……そうね。どこか、似ているわ」
「ああ。《紅魔装置》に、だな」
「少し、いいかしら」
返事を待たず、シャーロットは足元に《円》を展開した。
観測式が起動する。
――魔法汚染そのものは、すでに消失している。
だが、汚染が“起きた事実”は、はっきりと残っていた。
彼女が見ていたのは、何が起きたかではない。
どうやって止めたかだった。
そこで浮かび上がったのは――色。
魔法汚染とは、観測核が乱れ、観測不能に陥る現象。
それを、この施設では”色別魔法理論”によって処理していた。
観測核に色を固定し、乱れを抑え、構造を安定化させる。
一つ、二つの核であれば、それは可能だ。
だが、膨大に増殖し続ける観測核を色で分類・固定するには、相応の制御装置が必要になる。
――この施設の設備では、それが足りない。
結果として、制御が破綻し、魔法汚染が発生した。
そして、それを無理に抑え込むために――
何を対価にしたのだろうか?
「……そう」
シャーロットは、低く呟いた。
観測は、すでに終わっていた。
「……チャールズ・マカースィに会えるかしら?」
シャーロットの声は低く、しかし迷いがなかった。
夜の冷気が谷に沈みはじめ、魔泉塔の影が長く伸びる中、レストレードは短くうなずいた。
「ああ、もちろんだ」
彼は仮設の監視局事務所へと歩き出す。
簡易結界が張られた建物は、もともと倉庫だったものを流用したらしく、外壁には補修の痕がそのまま残っていた。
中に入ると、空気がわずかに重くなる。
簡易机が二つ、封印符の貼られた棚が一列、
そして――硬い椅子が一脚。
そこに、チャールズ・マカースィが座っていた。
背筋は伸ばしているが、肩は力なく落ち、両手は膝の上で強く組まれている。逃げ場のない姿勢だった。
「チャールズ、少し話を聞かせてほしい」
レストレードの声に、青年はゆっくり顔を上げる。
「……はい」
声はかすれていたが、拒絶はない。
「なぜ、あなたは現場にいたの?」
シャーロットの問いは、淡々としている。
青年は視線を落とし、言葉を探すように唇を噛んだ。
「それは……」
沈黙が落ちる。
封印符が、かすかに音を吸い込む。
その間を縫うように、レストレードが口を挟んだ。
「ああ、心配するな。こいつは俺の助手だ。事情を整理したいだけだよ」
あからさまな方便だった。
だが、チャールズは一度だけ深く息を吸い、小さくうなずいた。
「父には……実験を止めてもらいたかったんです」
声が揺れる。
「僕らの幸せを……ちゃんと見てほしかった」
その言葉には、怒りよりも、諦めに近い色があった。
「そう」
シャーロットは、頷きだけで応じる。
「――お父様が亡くなったところを、あなたは見たの?」
チャールズは、即座に首を横に振った。
「いえ……」
レストレードが補足する。
「遺体を最初に見つけたのは、研究所の職員だ。」
シャーロットは、確認するように問いを重ねた。
「事故ではなく、事件で間違いないの?」
「ああ。胸を一突きだ。刃物による刺殺と見ていい」
チャールズの指が、きゅっと組まれる。
「……そう」
一拍置いて、シャーロットは声を落とした。
「アイリスが、とても心配していたわ」
その名を聞いた瞬間、チャールズははっと顔を上げた。
「君は……アイリスを知っているんですか?」
「ええ。学園でね」
青年の肩から、力が抜ける。
かすかな安堵の息が漏れた。
レストレードが、シャーロットにだけ聞こえる声で言う。
「どう思う?」
「――限りなく白」
即答だった。
「殺す動機が薄すぎる。取り乱した様子もない。 “衝動的な犯行”と考えるには、不自然ね」
「俺も、そう思っている」
レストレードは外套を整え、事務所の扉へ向かって歩き出した。
「じゃあ……もう一人の参考人のところへ行くとしよう」




