靄の中の人
決められた時間に起きて、
決められた事を消化して、
決められた時間に眠る。
もうずっと、何年も。
そうして“生きさせられてきた”。
疑問は持たなかった。……答えは返ってこないから、持たなくなった。
言葉も自分から発さなくなった。……必要とされないから、発さなくなった。
「番号」
「F‐369」
「よろしい」
聞かれたことだけを答える。『調律環』と呼ばれる仄かに光る腕の環の数値を見せ、必要とあらば投薬をされる。
それだけ。
何も感じない。
多少手荒に扱われても、何とも思わない。
「驚かせでもしなきゃ“感情の振れ幅”なんて出ねぇだろ」
椅子を蹴られて身体が揺れる。何も感じない。
頭を小突かれ、視界がブレる。何も感じない。
「顔色一つ変えねぇ。気持ち悪いヤ──」
「交換、完了しました。」
(……?)
声が、侮蔑を途中で断ち切った。
誰かの手が、そっと自分の頭を覆うように“悪いものだけ”を遮った時と同じ……
そんな、微かな感覚が胸の奥に灯った。
(だれ……?)
頭の奥で、薄い光が跳ねる。
調律環がふっと明るさを強めた。
ーーーー
呼気が乱れている。
意識がぼんやりして、霞んだ視界の奥でチカチカと光が瞬く。
あの人が来る夜はいつもこうなる。朝になれば元通り。それが当たり前だった。
…なのに今日は違う。さっき“悪い言葉が遮られた”瞬間から、頭の奥に柔らかい靄がずっと棲みついている。
__いいかい、よく聞くんだ。
聞いたことのある声。何度も、自分を撫でるように言い聞かせてくれた声。
確かにここは異常かもしれない。
だが、君は『異常』じゃない。
「ここに、異常は……無い。」
久しぶりに、聞かれたこと以外の言葉が口から零れ落ちた。
驚いたように部屋に居た男が慌てて部屋を出ていく。もうひとりも何か言いかけて、足早に消えた。
静寂の中、ドクドクと何かが脈打つ。心臓のようで、頭の奥のようで、調律環から広がっているようでもあった。
『数値、不安定。適合値から外れました。処置を開始します。』
冷たい無彩色の声。
__やめて
たくさんの眼がこちらを向いているのに、誰も“僕”を見てはいない。
『今回の数値は異常です。少し掛かるかもしれません』
ちがう……僕は──
『安定剤。急げ。』
ーーいいかい。君には“感じ取れる心”がある。
__いやだ…!!
『黙らせろ。適正値に戻れば多少壊れても構わん。』
ーー君には自由に動く足がある。一歩を踏み出す力がある。
__離して
『暴れるな。お前に意思は不要だ。』
ーーどうしても動けない時は、その声で助けを乞いなさい。
た……す、け……
温かい声がふっと消える。意識が暗く深く落ちていく。
空気を循環させる音が遠くなる。
近付いてくる足音だけがはっきりした。
「名乗れ。」
「……F‐369」
「よろしい。」




