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ただの整備士

僅かな好奇心が引きずり出した、あの隔離区画の光景。

昨日、旧区画で見た光景が燈夜の頭の奥でまだざわついていた。

統括部の処置。

理解できない単語。

“F-369”

そして__視線が逸れたあの一瞬。

(……忘れた方が良い。深入りするな。)

自分に言い聞かせながら工具を手入れする手は、いつもより少し重かった。


「燈夜くん、少し良い?」

声をかけてきたのは整備部主任の(みお)だ。

女性でありながら主任を任され、そしてそれを鼻にかけず誰にでも同じ目線で話す“安心できる大人”だ。

「あ、はい。」

「今日の配置、ひとつだけ変えてほしくて。統括部から指示があってね。」

統括部、という単語にしまい込もうとした昨日の光景がすぐ隣に戻ってくる。

「…どこですか?」

(……昨日のこととは関係ない。偶然だ。落ち着け。)

そう思い込みながら返事を待つ。

澪は手帳をぱらりとめくり、少し困ったように眉を寄せた。

「ええと……旧区画、だそうよ。」

息が止まった。

そんな燈夜には気付かずに澪は続ける。

「詳しい位置は私にも伝わってなくてね。統括部の方が直接案内に来るそうだから、時間だけ合わせて行ってくれれば大丈夫。」

「……旧区画、ですよね?」

声が震えないようにするだけで精一杯だった。

「あぁ、びっくりしたよね。危険作業じゃないそうよ。旧式の造りもあるから知識も広くて腕の確かな子をって言われて…。燈夜くんがすぐに思い付いたから。もし嫌なら他に回すけど、どうしたい?」

澪の目に映るのは“信頼”の一文字。主任として、的確な人選をしたつもりだとそう言っているように思えた。

整備部は三組に分かれており、壱組は一般施設の、弐組は危険箇所やレアな現場の整備、参組は施設から機器まで何でも承るいわば便利屋だ。

(こんなの、弐組の仕事だろ。)

喉奥で固まった言葉がゆっくり溶けて広がる。

「……俺でいいんですか。」

「もちろん。」

その笑顔には疑いも、裏もない。

澪は続ける。

「就業時間はいつも通りで大丈夫。ただ、点検報告書は全部統括部に直接回してほしいって。細かい指示は後で来るはず。」

(なんで……統括部がわざわざ俺に?昨日のあれは、見られてない──よな?)

隙あらば湧いて出てくる疑念を押しつぶすように、

「はい。分かりました。」

とだけ答えた。

燈夜の返事に澪はほっとしたように、柔らかく頷いた。

「助かるよ、燈夜くん。よろしくね。」

朗らかな笑顔で燈夜を送り出した澪。思い出すのは依頼書を持ってきた統括官の言葉だった。

「え、そのぉ…出来ればぁ…腕が良くて、知識があって…あと!人間より機械にしか興味が無いような…!ぁ…忘れて下さい。それでは、お願いします…」

どこかビクビクしたその男は統括官というにはあまり圧を感じなかった。

(まぁ私も主任ぽくはないし…)

「何にせよ、一番当て嵌まるのは燈夜くんだから、大丈夫。」

信頼の念を持ち、澪は依頼書を処理済みのトレイに入れた。


ーーー


「失礼します。」

主任の頼みを断れず、燈夜は統括部の扉を叩いた。

普段なら一生来ない階層。温度も色もない、“仕事だけ”の空気に満ちた部屋。

「整備部参組、燈夜です。」

「ご苦労。こちらへ。」

その声を聞いた瞬間、背筋が跳ねた。

(昨日の……あの声)

測定の指示を出していた。あの隔離区画で何かをしていた男だ。照明の下で見ると、昨日よりもずっと無機質で、冷たい。

「どこまで知っている?」

その問いに、昨日の光景がチラついて肺が固まる。

「旧区画のメンテナンス、とだけ……」

自分の動揺を見せないようにシンプルに答えを返す。

「……なるほど。よろしい。とある場所の点検をして欲しい。配管図や設計図はわたさない。場所を記憶する必要はないからな。案内は私がする。」

「はい。」

汗の滲む手を握り締め、出来るだけ簡潔に答える。その方が感情が伝わらないからだ。燈夜の返事に、統括官は納得したように見えたが、同時に“探るような”沈黙が落ちた。

「誓約書だ。」

そこに並ぶ文言は__

他言無用、詮索不要、

“その日見たことは翌日に持ち越さないこと”。

仕事の誓約書で、こんなの見たことがない。“忘れろ”を半ば強要する内容。

(……こんな誓約書書かされる仕事だったか、整備って。)

胸の奥が冷たくなる。

燈夜は黙って署名した。今ここで拒める立場ではなかった。

「来い。私は楊震(ようしん)だ。他の統治官と区別するためだけに覚えておけばいい。」

楊震は表情ひとつ動かさず歩き出す。

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