溝
あれから数日が過ぎた。
蒸都の不調は続いていて、整備部は連日人手不足だった。燈夜も例に漏れず、帰りは遅く、休みも曖昧になっていった。
孤児院には行っていない。行こうと思えば行けた。けれど__
あの日、乱暴に閉めた扉の音が、どうしても頭の片隅に残っていた。
(…俺、何言ってたんだろ。)
無関係の颯の名前を出したこと。
無遠慮に感情をぶつけたこと。
“わかった口を聞くな”と言わんばかりに、突き放すように出て行ったこと。
後悔は怒りより遅れてやってくる。
あの時は何が正解だったか、この後何をすれば正解なのか、全くわからない。
忙しくて腰を据えて考えられない。
忙しくて孤児院に行けない。
“忙しさ”は障害でもあり盾でもある。悶々とした思考を引きずるようにして、今日も整備部へと向かう。
家から出ていつもの道を歩き始めると、見計らったように軽い足音がついてきた。
「おはよっ。仏頂面クン。」
振り返る前から誰だかわかる声。
「……何だよ。」
流輝だ。いつもの調子。いつもの距離感。ただ、目だけが少しだけ探るように動いている。
「最近さ、孤児院来てなくない?」
「忙しいんだよ。整備部がバタついてるのくらい知ってるだろ?」
「ふぅーん?」
納得したようで、していない含みのある相槌。
「海陸と会ってないでしょ?」
「……。」
漂った一拍の沈黙を流輝は逃さなかった。
「何かあった?」
「…別に。」
「それ、“何かありました”の言い方だよね?」
横を見なくてもわかる。図星を突いたと言わんばかりに笑ってる。
「……ちょっと、言い合っただけだよ。」
ほんの少し掻い摘んで起こった出来事を説明する。
「ふーん?」
軽く言いながらも、流輝はそれ以上踏み込んでこなかった。代わりに、思い出すように少し視線を空に向ける。
「海陸はね、むちゃくちゃ落ち込んでるとか、怒ってるとかはしてなかったよ。」
一瞬、言葉を選ぶ。
「たま〜に何か考え込んでるんだよね。」
「何を?」
「わかんない。」
流輝は肩をすくめる。
「多分、考えてるだけだと思うよ。“どうするべきだったのかなー”って」
それは、燈夜にも覚えがある感覚だった。
「燈夜がカッとなっちゃった理由はわかるけど。海陸は海陸で考えがあったんだと思うよ?」
燈夜は、息を吐いた。これは楼蘭にも海陸にも、全てを聞いた後の顔だ。
「お前…、全部知ってるじゃん。」
「ふふ、片側から聞いたって真実は見えないモンよ?で、どうするの?」
蒸都はまだ不調で、整備は山積みで、時間も余裕もない。それでも。
「……その内、行くよ。」
「“その内”ね?」
流輝がにやっと笑う。
「まぁ、逃げてないならいっか?」
「逃げねぇよ。」
「はいはーい。」
別れ際、流輝は振り返らずに言った。
「海陸も近い内に病院行くってさ。燈夜が会うのと海陸が診察受けるの、どっちが早いかな〜?」
笑いながら、その言葉だけを残して流輝は廊下の向こうへ消えた。
(………。)
燈夜は、しばらくその場を動けなかった。
怒っているのか。
困っているのか。
それとも、ただ__わからないだけなのか。
どれにしても、“会っていない時間”は、確かに積み重なっていた。




